第20話 損失分担《ロス・シェアリング》——壊せない帳簿を作る
夜明け前の執務室に、ノックもなく扉が開いた。
シルヴィ・ノクターンが息を切らせて立っていた。狐耳が後ろに伏せられ、琥珀色の瞳には珍しく焦燥が浮かんでいる。
「レイ。最悪の報せ」
レイは帳簿から顔を上げた。防衛予算の執行計画書に落としていた視線が、一瞬で切り替わる。
「座って話せ」
「座っている暇はない。アドリアーナが大陸東部の傭兵王——ゲオルク・ヴァーレンと接触した」
レイの手が止まった。ゲオルク・ヴァーレン。東部自由都市群を拠点に五千の傭兵団を擁する実力者。金さえ払えば城でも港でも落とす、徹底した実利主義者として知られていた。
「目的は?」
「手形交換所の物理的な襲撃。帳簿も、術式基盤も、建物ごと灰にする気よ」
シルヴィが革鎧のポケットから薄い羊皮紙を抜き出し、テーブルに置いた。傭兵王の副官と接触した協力者からの伝書だった。
レイはそれを読み、静かに椅子の背に体を預けた。
「——報酬は」
「旧海札圏にアドリアーナが隠した資産。金貨換算で推定三千枚。ゲオルクが動くには十分な額ね」
三千枚。護衛艦の年間運用費に匹敵する。アドリアーナは制度の外から、制度そのものを物理的に破壊する手段を選んだのだ。
レイは目を閉じた。前世の記憶が一つ、鮮明によみがえる。
二〇〇八年。リーマン・ブラザーズの本社ビルから段ボール箱を抱えた社員が出てくるニュース映像。あの時、問題はビルが燃えたことではなかった。一つの拠点に集中した取引記録と決済機能が、連鎖的に全世界の信用を凍結させたのだ。
「シルヴィ。ゲオルクの部隊が動くまで何日ある」
「早くて十日。契約締結がまだなら二週間」
「十分だ」
レイは立ち上がり、新しい羊皮紙を引き寄せた。
「フィーネを起こしてくれ。それからヴァルナキアにも伝書を。緊急の制度設計会議を招集する」
*
二時間後、魔王城の大広間にはまだ薄暗い朝の光が差し込んでいた。
フィーネが銀縁眼鏡を押し上げながら、レイが広げた図面を睨んでいる。ヴァルナキアは玉座ではなく会議卓の一席に着き、紫の瞳を静かにレイに向けていた。ドラグは腕を組んで壁際に立っている。
「単一障害点」とレイは図面の中央を指で叩いた。「今の手形交換所は、この一箇所に三圏すべての決済記録が集中している。ここが燃えれば、三つの信用圏が同時に機能停止する」
フィーネが眉をひそめた。
「帳簿の写しは各圏の事務局にもありますが、照合・決済機能は本所に集中しています。物理的に破壊されれば復旧までの間、手形の最終決済ができなくなる」
「つまり、建物を守ればいい話だろう」ドラグが言った。「五千の傭兵だろうが、俺の精鋭と水軍がいれば——」
「守り切れたとしても、問題は解決しない」レイは首を振った。「次はもっと大きな軍を雇うかもしれない。火矢一本で三圏の信用が消し飛ぶ構造そのものが脆弱なんだ」
ヴァルナキアが初めて口を開いた。
「お前の言いたいことは分かる。壊せない城を作るのではなく、壊しても意味がない仕組みを作れ、と」
「その通りだ」
レイは羊皮紙に三つの円を描き、それぞれに線を引いた。
「分散台帳だ。決済記録の完全な写しを三圏それぞれに持たせる。王都、マーレ、そして魔王城。三拠点が常に同一の帳簿を保持し、取引ごとに照合する。一拠点が破壊されても、残る二拠点の記録が一致すれば決済は継続できる」
フィーネのペンが走り始めた。
「照合の仕組みは? 三拠点の帳簿に齟齬が出た場合の判定基準が必要です」
「多数決原理だ。三拠点のうち二拠点が一致すれば、それを正とする。そして各拠点の帳簿には契約魔法の認証術式を付与して改竄を検知する」
「なるほど……」フィーネの目に光が灯った。「複式簿記の原理と同じですね。片方だけの改竄は必ず矛盾を生む。それを三重に重ねる」
「加えて、損失分担の仕組みを入れる」
レイは新たな図を描いた。
「仮に一拠点が物理的に破壊された場合の復旧コスト。これを三圏で均等に負担する。つまり手形交換所への攻撃は、攻撃者が三つの勢力を同時に敵に回すことを意味する。一圏だけを潰しても、残る二圏が即座に復旧する」
ドラグが唸った。
「……つまり、どこを殴っても無駄だと分からせるわけか」
「そうだ。壊しても再生する帳簿に、傭兵を雇う意味がない。アドリアーナの金は無駄金になる。ゲオルクは実利主義者だ。勝ち目のない契約には乗らない」
ヴァルナキアが指先で卓を叩いた。
「だが、マルグリットが王都に完全な台帳の写しを持つことを、お前は許容するのか。それは我々の取引情報をすべて渡すことと同義だ」
核心を突く問いだった。レイは頷いた。
「リスクは承知している。だがマルグリットも同じだ。彼女の取引記録も我々が持つことになる。相互に丸裸になる。これは信用ではなく、相互確証——互いに弱みを握り合うことで均衡を保つ構造だ」
「前世の言葉で言えば?」ヴァルナキアが微かに笑った。
「相互確証破壊——MAD。ただし核ミサイルの代わりに帳簿で、だが」
フィーネが計算を終えて顔を上げた。
「三拠点の台帳同期には、各拠点に最低二名の認証官が必要です。契約魔法の術式を毎日照合するとして、人件費は月額——」
「いくらだ」
「金貨百二十枚。三拠点合計で」
「交換所が一日停止した場合の逸失利益は」
「直近の決済量から試算すると……金貨四百枚以上」
「なら安い保険だ」
*
その日の午後、レイはマルグリットに伝書を送った。
分散台帳制度の概要と、王都拠点の設置提案。そして一行を添えた。
『貴殿の取引記録も我々が保持することになる。それでも乗るか』
返書は翌朝届いた。マルグリットの筆跡は相変わらず優雅だった。
『面白い。丸裸になる覚悟があるなら、こちらも受けて立つ。ただし認証官の選任権は各圏に帰属すること。これは譲らない』
レイは口の端を上げた。予想通りの条件だった。
続けて、海洋五都市の代表ロレンツォにも同様の提案を送る。マーレの返答は更に早かった。
『我々は一度、帳簿を失いかけた側だ。二度と同じ目に遭わないための仕組みなら、喜んで参加する』
*
三日後の夜。シルヴィが再び執務室を訪れた。
「ゲオルクの副官から続報。契約交渉が難航しているらしいわ」
「理由は?」
「あなたの分散台帳の話がもう東部に漏れてる。三拠点を同時に襲撃しなければ意味がないと知って、ゲオルクが報酬の上積みを要求した。アドリアーナの隠し資産では足りないって」
レイはペンを置いた。
「予定通りだ」
「……わざと漏らしたの?」
「シルヴィ。情報商人に聞くまでもないだろう。抑止力は、相手に知られて初めて機能する」
シルヴィは呆れたように耳を揺らした。
「あなたって本当に、戦わずに勝つのが好きね」
「戦って勝てる能力がないだけだ」
「——それ、謙遜に聞こえないのが怖いのよ」
レイは肩をすくめ、帳簿に視線を戻した。
分散台帳の初期設計書。認証術式の仕様。三圏の損失分担比率の計算式。復旧手順のマニュアル。
壊せない帳簿を作る。それは物理的な強度の問題ではなく、制度設計の問題だった。
一つの帳簿を鉄で守るのではなく、三つの帳簿を信頼で繋ぐ。
窓の外では、魔力灯の青い光が港の護衛艦を照らしていた。その向こうの夜の海を、商船が一隻、手形交換所の保証航路を静かに進んでいく。
レイはペンを取り、設計書の表紙に書き加えた。
『分散台帳及び損失分担に関する三圏共同協定——草案第一版』
壊せない帳簿とは、壊す意味のない帳簿のことだ。
前世で学んだ教訓が、異世界の羊皮紙の上で、新しい形を得ようとしていた。




