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第19話 防衛費計上《ディフェンス・バジェット》——帳簿の外の暴力に値段をつける

三圏合同の臨時予算会議は、手形交換所の大会議室で開かれた。


 長方形の樫のテーブルに、三つの信用圏の代表が向かい合う。王都手形圏からはマルグリット・オーベル・フォン・ライゼンが自ら出席し、旧海札圏の仮加盟五都市からは港湾都市マーレの商人代表ロレンツォが、そしてノヴァ・ソシエタス圏からはレイとフィーネが席についていた。


 議題は一つ。防衛費の計上である。


「共同防衛という美名のもとに、なぜ我々が魔族の海を守る費用を負担せねばならないのか」


 マルグリットが最初の一撃を放った。絹の手袋をはめた指先で資料を繰りながら、微笑みすら浮かべている。


「女公爵閣下、防衛対象は魔族の海ではありません」


 レイは手元の帳簿を開いた。フィーネが前夜のうちに整理した数字が、三圏それぞれの交易実績として並んでいる。


「この三ヶ月間の海上交易量を見てください。王都手形圏の南方向け輸出のうち、手形交換所を経由した取引が四割を超えています。つまり閣下の商圏の売上の四割は、この海路の安全に依存している」


 マルグリットの微笑みがわずかに固くなった。


「数字の読み方は承知しています、クジョウ殿。問題は負担の配分です」


「であれば、こちらをご覧ください」


 レイはフィーネに目配せした。フィーネが立ち上がり、羊皮紙に記された三枚の試算表をテーブルに広げる。


「各圏の海上交易依存度に基づく損失シミュレーションです。海上輸送路が一日停止した場合の逸失利益——王都手形圏は金貨四百二十枚、旧海札圏は金貨百八十枚、ノヴァ・ソシエタス圏は金貨三百五十枚」


 ロレンツォが身を乗り出した。日に焼けた顔に不安の色が浮かんでいる。


「一日で、それだけ」


「一日でそれだけです。そして現在、アドリアーナの私掠行為によって平均三日に一度の頻度で商船が迂回を余儀なくされています。月間の実質損失は——」


「分かった。数字は分かった」ロレンツォが手を挙げた。「だが、我々仮加盟国に軍事費の分担を求められても、そもそも払う余裕がない。旧海札の崩壊で財政は火の車だ」


「ですから、これは軍事費ではなく保険です」


 レイは言葉を選んだ。この場にいる全員が、それぞれ異なる言葉で説得されなければならない。


「各圏が交易量に比例した拠出金を手形交換所に預託し、海上輸送に損害が発生した場合に補填する。これは共同防衛基金であると同時に、海上交易保険の原型です。拠出比率は交易量連動——王都手形圏四十四パーセント、ノヴァ・ソシエタス圏三十七パーセント、旧海札圏十九パーセント」


 マルグリットが扇を開いた。思案の仕草だとレイは知っている。


「保険と呼べば聞こえはいい。しかし実態は、私掠船を排除するための武力行使の費用でしょう」


「武力行使が必要かどうかは、この後の分析次第です」


 沈黙が降りた。マルグリットの視線がレイの目を射抜く。


「——条件があります」マルグリットが言った。「拠出金の使途明細を四半期ごとに全株主に開示すること。フィーネ殿の監査部門が管轄すること。そして、武力行使の決定には三圏すべての合意を要すること」


「受け入れます」


 即答だった。むしろレイが望んでいた条件だった。武力行使に三圏合意を要件とすれば、安易な軍事行動への歯止めになる。


 ロレンツォも渋々ながら頷いた。暫定防衛予算の承認——初期拠出金の総額は金貨八百枚。


 決して大きな額ではない。だが、三つの信用圏が初めて一つの予算を共有した。その前例の重みは、金貨では量れない。


 *


 会議が終わって二刻も経たないうちに、急報が入った。


 シルヴィが手形交換所の裏口から滑り込んできたとき、その琥珀色の瞳にはいつもの余裕がなかった。


「商船三隻。マーレ沖で拿捕された」


 レイの手が止まった。


「積荷は」


「ミスリル鉱の加工品と魔族領産の薬草。帳簿価格で金貨千二百枚相当。だが問題はそこじゃない」


 シルヴィが地図をテーブルに広げた。拿捕地点に印がつけてある。


「ここは手形交換所が安全を保証した航路の真ん中だ。保証航路で商船が奪われたとなれば——」


「海上輸送の信用そのものが崩れる」


 フィーネが即座に帳簿を引き出した。


「保険料率の改定が必要です。現行の料率では損失を吸収できません。しかし料率を上げれば——」


「海上輸送のコストが跳ね上がり、商人が陸路に回帰する。海上交易量が減り、手形の流通速度が落ち、信用収縮を引き起こす」


 レイは自分の声が冷静であることに、どこか他人事のような感覚を覚えた。前世で何度も見た構図だ。一つのリスク事象が信用の連鎖を伝って増幅し、実体経済を蝕んでいく。


 ドラグが大股で会議室に入ってきた。赤い肌の巨躯が扉枠いっぱいに広がる。


「聞いたぞ。出撃の許可をくれ。あの海賊どもを——」


「待ってくれ、ドラグ」


「待てだと? 商会の船が奪われたのだぞ!」


「分かっている。だが、まず敵の収支構造を読む」


 ドラグの眉間に深い皺が刻まれた。だが四天王筆頭は、もうこの言葉の意味を理解している。商会設立から一年。帳簿で殴る男のやり方を、何度も目にしてきた。


「……どのくらいかかる」


「シルヴィ」レイは振り返った。「私掠船団の資金源と、傭兵への報酬体系を調べてほしい。アドリアーナの手元にどれだけの現金が残っているか」


 シルヴィの耳がぴくりと動いた。


「島嶼部に情報源が二人いる。三日もらえれば」


「二日で頼む」


「……吝嗇家め」


 シルヴィは口の端を歪めて笑い、窓から消えた。


 *


 二日後の深夜。


 シルヴィが持ち帰った情報は、レイの仮説を裏付けるものだった。


 執務室のテーブルに広げられた報告書を、レイ、フィーネ、ヴァルナキア、ドラグの四人が囲んでいる。魔力灯の青白い光が、シルヴィの調査結果を照らしていた。


「アドリアーナの手元資金は金貨三百枚を切っている」シルヴィが指で数字を示した。「盟主権を剥奪されたとき、商人評議会の共同金庫へのアクセスを失った。島嶼拠点の維持費だけで月に金貨百枚以上が消える」


「では傭兵の報酬は」


「現金払いではない。拿捕した積荷の現物分配だ。七対三——傭兵が七、アドリアーナが三。つまり略奪品の山分けで回っている完全歩合制」


 フィーネが眼鏡の奥で目を細めた。


「歩合制ということは、拿捕が成功し続ける前提でなければ成り立ちません」


「その通りだ」レイは立ち上がった。「彼女の私掠船団は、固定報酬で維持される正規軍ではない。略奪の期待値が報酬を下回った瞬間に、傭兵は散る。忠誠心で繋がっているのではなく、利益で繋がっているだけだ」


 ヴァルナキアが玉座に深く腰を沈めたまま、紫の瞳でレイを見つめた。


「——つまり、戦わずに勝てると」


「戦わずに、彼女の軍を解散させられる。方法は三つ」


 レイは羊皮紙にペンを走らせた。


「一つ目。護衛艦の配備による拿捕成功率の引き下げ。ドラグ、精鋭の水軍を主要航路に展開してもらう。殲滅が目的じゃない。追い払うだけでいい。拿捕を失敗させ続ければ、傭兵の期待報酬はゼロに近づく」


 ドラグが腕を組んだ。


「……倒さんでいいのか」


「倒す必要がない。コストを上げるだけでいい」


「二つ目」レイは続けた。「傭兵への離脱インセンティブ。手形交換所の加盟商会で働く意思のある者には、過去の私掠行為を不問とし、労働契約を提供する。アドリアーナのもとに残るより、こちらで働くほうが報酬の期待値が高い状況を作る」


 シルヴィが口笛を吹いた。


「海賊を引き抜くのか。大胆だね」


「海賊ではない。経済合理性で動く労働者だ。雇用主を変えるだけの話だ」


「三つ目」フィーネが先回りした。「アドリアーナ本人への出口の提示、ですね」


 レイは頷いた。


「通商憲章第十七条——制度的排除を受けた勢力の復帰手続き。この条項を、今こそ使う。アドリアーナに伝えてほしい。私掠行為の停止と引き換えに、手形交換所への加盟審査を受ける権利を与える、と」


 ヴァルナキアが静かに言った。


「彼女が受け入れると思うか」


「今すぐには受け入れない。だが、傭兵が去り、資金が尽き、選択肢がなくなったとき——交渉のテーブルに着くしかなくなる。そのとき、テーブルが用意されていることが重要だ」


 沈黙が落ちた。魔力灯の炎がゆらりと揺れる。


 ドラグが先に口を開いた。


「レイ。俺は最初、お前のやり方が気に食わなかった」


「知っている」


「だが、お前が『倒さなくていい』と言うとき——それは弱さから言っているのではないと、今は分かる」


 赤い肌の巨漢は、拳を開いてテーブルに置いた。


「水軍の展開は任せろ。一隻も沈めずに、追い返してやる」


 レイは小さく笑った。


「頼む」


 *


 全員が退出した後、レイは一人で帳簿に向かった。


 防衛予算の執行計画。護衛艦の配備コスト。傭兵引き抜きの雇用契約書のひな形。アドリアーナへの通達文の草案。


 暴力に値段をつける。それは冷酷な行為だろうか。


 前世の九条嶺一なら、迷わなかっただろう。数字は数字だ、と。


 だが今のレイ・クジョウには、ドラグが開いた拳が見えていた。フィーネが夜通し整理した帳簿が見えていた。ヴァルナキアが静かに問いかけた紫の瞳が見えていた。


 数字の向こうに、人がいる。


 ペンが止まった。草案の最後に、一行を書き加える。


『なお、本提案は武力による制圧を目的とせず、すべての当事者に経済圏への復帰の道を残すものである』


 帳簿の外にある暴力に、帳簿の中から値段をつける。それが今のレイにできる、唯一の戦い方だった。


 窓の外では、港に配備された護衛艦の灯火が、夜の海に一つ、また一つと灯り始めていた。

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