第60話 下層地区のプロトコル
下層地区の上空を見上げても、そこにあるのは『空』ではなかった。
視界を覆い尽くすのは、上層都市を支える何千本もの巨大なコンクリートの支柱と、網の目のように張り巡らされた極太のパイプラインの腹。
隙間からわずかにこぼれ落ちる極彩色のネオンの光が、絶え間なく滴る汚水に濡れたアスファルトを毒々しく照らし出している。
太陽の光など決して届かないこの下層地区は、むせ返るような排気ガスと、錆びた鉄、そして安価な合成食料の匂いが入り混じる、澱んだ迷宮だった。
不法増築が繰り返されたトタン屋根のバラックや、怪しげな違法サイバネ屋が立ち並ぶ路地を、異質な三人組が歩いていく。
「……隠密のつもりだったけど、やっぱり目立ってるね」
深く被ったダークグレーのタクティカルパーカーのフード越しに、ビャッコはため息混じりに隣を見上げた。
視線の先で地響きを立てているのは、全高四メートルに達する重装甲の二足歩行機体だ。
艶消しのマットブラックに塗装された重厚な装甲と、兜のスリットの奥で不気味に輝く複数の赤いカメラアイ。
周囲の薄汚れた景色の中で、その動く要塞『アイアン・メイデン』の存在感はあまりにも暴力的だった。
足元を歩くルミナは、ダボダボのオーバーオール姿で周囲のジャンク屋を物珍しそうに眺めているが、前方にいたスラムの住人たちは怯えた獣のように道を譲り、薄暗い路地裏へと我先にと逃げ込んでいく。
『あら。私のネームバリューはこの機体だから仕方ありませんわ。コソコソと隠れ歩くなど、淑女の嗜みに反しますもの』
機体の外部スピーカーから響き渡ったのは、普段の生真面目で控えめな声からは想像もつかない、高慢で凛としたお嬢様口調だった。
分厚い装甲に囲まれた操縦席に乗り込んだアイリスは、この圧倒的な力を誇る機体を纏うことで極端に気が強くなり、かつて下層地区で恐れられた「鉄の処女」へとその性格を豹変させているのだ。
『ですが、ご安心を。小隊長のお傍に群がる不届きな羽虫どもは、この私がすべて塵に変えて払い落として差し上げますわ。ですから、どうか私の後ろを堂々と歩いてくださいませ』
傲慢な言葉選びの中に、小隊長であるビャッコへの確かな忠誠と敬意を滲ませるアイリスに、ビャッコは「頼もしい限りだよ」と苦笑するしかなかった。
ズォン、ズォンと、アイアン・メイデンが大地を揺らすような重い足音を立てて通り過ぎていく。
その圧倒的な威圧感が通り抜けた後、路地裏の影に潜んでいたスラム街のならず者たちが、信じられないものを見るような目でざわめき始めた。
「おい、嘘だろ……あの黒いガワ……」
「アイアン・メイデンだ。間違いない、あの『鉄の処女』が帰ってきやがったんだ……!」
「ばか、声がデカい! 串刺しにされるぞ……!」
かつてこの血生臭いスラムで、ただ独り無敗を誇った伝説の機体の帰還。
その恐るべき噂は、暗い熱気と共に、瞬く間に下層の底へと広がっていくのだった。
やがて三人が辿り着いたのは、下層のさらに奥深く、かつては巨大な地下貯水施設か何かだったと思われるドーム状の建造物だった。
フルサイボーグや重火器を積んだパワーアーマーが日常的に出入りする闘技場だけあって、その入り口は戦車の格納庫を思わせるほど巨大だ。
全高四メートルのアイアン・メイデンが身を屈めることなく通り抜けられるほどの天井高と、重厚な防爆扉が彼らを迎え入れる。
内部は、外の澱んだ空気とはまた違う、熱狂と暴力の匂いが充満していた。
血とオイル、そして安酒の混じった不快な臭気。
ロビーにたむろしていた柄の悪いサイボーグやギャンブラーたちが、地響きを立てて現れた黒い威容を見て一斉に口をつぐみ、モーゼの十戒のように道を空ける。
その怯えた視線を気にも留めず、アイリスはアイアン・メイデンの歩を堂々と受付カウンターへと進めた。
分厚い防弾ガラスの向こうで、顔を引きつらせている小柄な受付係の男を見下ろし、外部スピーカーから凛とした声を響かせる。
『ごきげんよう。ボスはいらっしゃる? アイアン・メイデンが会いたがってると伝えてもらえるかしら?』
「ひっ……! あ、あのアイアン・メイデン……!? お、お待ちください、すぐに確認してまいります!」
受付係の男は悲鳴のような声を上げると、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、奥の通路へと全速力で走り去っていった。
それから数分後。案内されたのは、闘技場の最奥にあるVIPエリア――というよりも、大型重機の整備ドックのような広大な空間だった。
「よォ! チャンプじゃねーか!」
部屋に入るなり、空気を震わせるような野太い歓声が響き渡った。
声の主は、部屋の中央に鎮座していた巨大な鉄の塊だった。
全高二メートル半。人間の規格を完全に逸脱した、作業用重機さながらの超重量級強化フレームを持つフルサイボーグの巨漢だ。
顔の右半分は分厚い装甲板で覆われ、左半分には不気味な光を放つ高精度なセンサーアイが埋め込まれている。
過去の修羅場で失ったという左腕は、あえて装甲が貼られず、無数のケーブルと油圧シリンダー、人工筋肉が剥き出しになっており、それがかえって異様な凄みを醸し出していた。
彼こそが、この地下闘技場とブラックマーケットを取り仕切る元締め、『ボス』と呼ばれる男だ。
威圧感の塊のようなその姿に、ビャッコは内心で(こんな化け物と日常的に接してたのか、アイリスは……)と圧倒されかけるが、隣のルミナは「うわぁ……あの左腕のシリンダー、剥き出しなのに駆動音がめっちゃ綺麗……!」と目を輝かせている。
『お久しぶりですわね、ボス。お元気そうでなによりですわ』
「ガハハ! おうともよ! いやあ、その野太い足音、懐かしくて涙が出そうだったぜ」
ボスは豪快に笑いながら、アイアン・メイデンの巨体を見上げる。
その巨大なセンサーアイには、かつての稼ぎ頭であり、闘技場の伝説となった「娘」への確かな親愛の情が浮かんでいた。
しかし、すぐにその赤いレンズがスッと細められ、アイアン・メイデンの足元に立つビャッコとルミナへと向けられる。
「……それで、お前、治安維持部隊に入ったはずだが、今日は何の用だ? 格闘士としての復帰なら歓迎するが、お前の仕事の話だったらお断りだぜ」
値踏みするような、重圧を伴うボスの視線。
張り詰めた空気が整備ドックを支配しかけたその時、フードを目深に被っていたビャッコが、静かに一歩前へ出た。
「安心してほしい。今回は、治安維持部隊の仕事じゃない」
ビャッコはゆっくりとフードを下ろし、ボスの威圧感に一歩も引くことなく、そのセンサーアイを真っ直ぐに見据えた。
「個人的な、ちょっとした探し物。彼女の伝手なら、信じられると思って来た。……少し、話を聞いてほしい」
「個人的な、探し物……だと?」
ボスは巨大なセンサーアイを瞬かせ、ビャッコを上から下まで値踏みするように見下ろした。
「企業の猟犬が、制服も着ずにスラムの底まで下りてきて『個人的な探し物』たァ、笑えない冗談だ。だが……」
ボスは視線を、背後にそびえ立つアイアン・メイデンへと移す。
「チャンプがわざわざ道案内を買って出たってことは、ただの気まぐれじゃねえらしいな。……言ってみろ。何を探してる」
ビャッコは周囲に他の人間がいないことを確認し、声を潜めた。
「最近、この下層で人が不自然に消えてないか? それも、ただの行方不明じゃない。……生きた人間を攫って解体し、上に『ドネーション』として流してる非合法な工場を探してる」
その言葉が出た瞬間、ボスの顔半分を覆う装甲の奥で、排気ファンが重苦しい音を立てた。場の空気が、一瞬にして冷たく張り詰める。
「……ヤバい臭いがプンプンするぜ。確かに、最近スラムの住人たちが不自然に消えちまってるって噂は俺の耳にも入ってる。だがな……」
ボスは金属の指を鳴らし、忌々しそうに首を振った。
「その件は、俺たち地下の人間でもアンタッチャブルだ。誘拐されるところを見たやつがいるが、その時の実行犯には上層の『お上品な連中』が使うような、最新鋭の軍用サイボーグがいたって証言があってな。ただの臓器売買のゴロツキとは訳が違うんだよ。悪いことは言わねえ、お前らでも手を引け」
ボスの警告は、彼なりの親切心だった。スラムの元締めでさえ手を出したがらないほど、相手のバックは強大だということだ。
だが、ビャッコたちがここで引き下がるわけにはいかない。
ルミナが悔しそうに拳を握りしめたその時、アイアン・メイデンのスピーカーから、凜とした声が響いた。
『……ボス。私が過去にどれだけあなたに利益をもたらしたか、お忘れではありませんわね?』
「チャンプ……?」
『この方は、私の命を救い、絶対の信頼を寄せる恩人。その恩人が前に進むというのなら、私が道を切り拓くのは当然の義務ですわ』
ズン、とアイアン・メイデンの巨体が、ボスの前に一歩踏み出す。
『もしここで情報を出し渋るというのなら……私の力がどんなものだったか、その身で刻んであげてもよろしくてよ?』
「ガハハハハッ!」
強気なお嬢様口調での露骨な脅迫に、ボスは怒るどころか腹を抱えて大笑いした。
「お前は昔からそういう女だった! 義理堅くて、最高にイカレてやがる!」
ひとしきり笑った後、ボスは面白そうにビャッコを見下ろした。
「あのチャンプにそこまで言わせるたァ、大した奴だ。……いいだろう。特別に教えてやる」
ボスは背後のコンソールを操作し、空中に古ぼけた下層の立体マップを投影した。
「第52ブロックの奥深く……正規のマップからはとっくに消去されてるところだ。最近、あそこの崩落した搬入路付近で、深夜にコソコソ動いてる怪しい連中がいる。ゴミを処理するフリをして、『中身の詰まった黒い袋』を大量に運び込んでるのを見たって奴がいてな」
ボスはマップの空白地帯の一点を太い金属の指で叩いた。
「そこが工場の入り口かどうかは知らねえ。だが、何かを隠してるのは確実だ」
ビャッコは手元の端末にその座標データを転送し、小さく息を吐いた。
「……助かるよ、ボス。恩に着る」
「恩に着るのはこっちだ。チャンプの元気な姿を見せてくれた礼金代わりだと思え」
ボスはニヤリと笑うと、再びアイアン・メイデンを見上げた。
「行くなら気をつけな。もし上層の連中が関わっているとすれば何が起こってもおかしくねえぞ」
『ご忠告感謝いたしますわ、ボス。ですが……』
アイアン・メイデンの赤いカメラアイが、静かに明滅する。そこに怒りの色はなく、ただ冷徹な忠誠心だけが宿っていた。
『この方が敵と定めたのであれば、それが誰であろうと、私がすべて塵に変えて払い落として差し上げるだけですわ』
その容赦のない宣戦布告に、ボスはバリバリとノイズの混じった電子音の笑い声を上げ、満足げに巨体を震わせた。
ボスの見送りを受け、三人と一機は闘技場の熱狂を背にする。
向かうは、いかなる公式記録にも存在しない空白地帯。
都市の暗部を喰らう悪意の根源へ向けて、ビャッコ達はさらに深い闇の中へと歩を進めていった。




