第58話 不正なトレーサビリティ
「俺の兄貴を返せぇぇっ!!」
若者の叫びは、惨めなスラムの静寂を切り裂く合図だった。
路地裏のゴミ溜めや、崩れかけたビルの影から、さらに五、六人の男たちが弾かれたように飛び出してくる。
彼らの手には、火花を散らすヒートナイフや、鉄パイプを溶接した無骨な棍棒、そして数丁の旧式な拳銃が握られていた。
「ルミナ、VIPを! アイリス、援護!」
ビャッコの鋭い指示が飛ぶ。
「了解だよっ!」
ルミナが即座にデバイスを展開すると、ヴァレリオを守るように半透明のシールドが展開された。
ネオンも支給品の拳銃を構え、近づこうとする暴徒の足元へ威嚇射撃を見舞う。
「さあ、仕事の時間だ」
ビャッコは腰のセラフィムを抜き放つと、瞬時にモードを切り替えた。
【筋肉硬直モード、起動】
銃身がギラリと光る。
一番槍で突進してきた若者に対し、ビャッコはセラフィムの引き金を引いた。
放たれた特殊なエネルギー弾が若者の太腿を掠める。
「あがっ……!?」
着弾した瞬間に若者の脚の筋肉が文字通り鋼のように固まり、バランスを崩して地面に派手に転がった。
「そいつを庇うならお前も死ねッ!」
横合いから飛び出した男が、震える手で旧式の自動拳銃をビャッコに突きつけ、至近距離で引き金を引き絞った。
ビャッコは避ける代わりに、左手をその銃口へと無理やり被せた。
――ドンッ! ドンッ! ドンッ!
乾いた発砲音が連続して響く。
放たれた弾丸はビャッコの手のひらで拉げ、足元へポロポロと転がり落ちる。
ナノスキンアーマーが衝撃を拡散してはいるが、生身の感覚を残す掌には鈍い痛みが走った。
「ひっ……う、撃ったんだぞ……!? なんで……化け物……!?」
腰を抜かした男が、絶望に顔を歪ませて後ずさる。
ビャッコは煤けた左手を振り、痛みを逃がすように顔をしかめて見せた。
「化け物とは失礼な。痛覚遮断しないと普通に痛いんだぞ?」
そう文句を言いながら、ビャッコはセラフィムを男の右腕に向けて放った。
筋肉を硬直させられた男は、銃を握ったまま指一本動かせなくなり、そのままビャッコの鋭い回し蹴りで意識を刈り取られた。
アイリスもまた、手にしたテイザー銃を正確に放ち、襲いかかってくる残りの暴徒を次々と無力化していく。
強力な電撃を受けた暴徒たちが、ビクビクと体を震わせて泥の中に沈んでいった。
「小隊長! 掃討完了です!」
「助かった。みんな、怪我はない?」
ものの数十秒で、スラムの路上には意識を失い、あるいは筋肉を固められて動けなくなった暴徒たちが転がる山ができていた。
ビャッコはジンジンと痺れる左手を軽く振りながら、シールドの中で悠然と構えるヴァレリオへと向き直った。
「もう無事ですよ」
ビャッコが声をかけると、彼は面倒くさそうに視線を向けた。
「あん? もう終わった? ご苦労さん。意外と早かったじゃねえか」
ヴァレリオは軽い足取りで、セラフィムで筋肉を固められ、地面に這いつくばっている若者の元へ歩み寄った。
そして、泥にまみれた若者の頬を、高級な革靴の先で無慈悲に踏みつける。
「さっそくクリアランス違反の現行犯が見つかってよかったぜ。このゴミもさっさとリストに入れねえとな。マシなパーツになるといいんだが」
「ぐっ……お、お前……その腕、兄ちゃんに何しやがった……!」
顔を泥に押し付けられながらも、若者は血走った目でヴァレリオの右腕を睨みつけ、声を絞り出した。
ヴァレリオは心底どうでもよさそうに鼻を鳴らす。
「あん? お前みたいなネズミの身内なんて知らねえよ」
「嘘をつくな! その腕は……その傷は、間違いなく兄ちゃんのだ!」
「さて、この腕は正規の手続きで購入した最高級の特注品だ。中身がお前の兄貴かどうかなんて、俺が知るはずねえだろ? まあ、もしそうだとしたら、お前の兄貴は死んでようやく『価値のあるモノ』になれたってことだ。感謝しな」
ヴァレリオの言葉は、ナイフよりも鋭く若者の心を切り裂いた。
若者は絶叫し、動かない体を必死に震わせる。
「兄ちゃんは……兄ちゃんは、一ヶ月前にあんたの息がかかった連中に連れて行かれたんだ! 処刑なんてされてない! 返せ、兄ちゃんを返せぇっ!」
「うー、うるせえうるせえ。負け犬の遠吠えが耳に障るんだよ。小隊長さんよ、こいつら今すぐその刑務所にぶち込めねえの? そこで解体ショーの予約でも入れといてくれよ」
耳を塞ぐような仕草をしながら、ヴァレリオがビャッコに無茶を振ってくる。
横でそのやり取りを見ていたネオンが、冷徹ながらも事務的な口調で間に割って入った。
「ヴァレリオ様。この者たちは治安維持部隊の方で身柄を拘束し、正規の手続きで逮捕・取り調べを行います。超法規的な処置はいたしかねますので、ご了承ください」
「あっそう。法律ってのは不便だねぇ。まあいいや、なるはやでよろしくね~」
ヴァレリオは軽い調子でそう言い残すと、汚れを払うように自分の毛皮を叩き、鼻歌交じりに装甲車の方へと歩き出した。
踏みつけられていた若者は、去りゆくヴァレリオの背中に向かって、呪詛のような泣き声を上げ続けていた。
やがて、現場に増援の治安維持部隊が到着し、拘束された暴徒たちが次々と連行されていく。
ビャッコは、連行されようとしているあの若者のそばに、そっと膝をついた。
「……ねえ。さっき言ってたこと、本当?」
周囲に聞こえないよう、低い声で問いかける。
若者は涙と泥にまみれた顔を上げ、憎しみと悲しみが混ざった瞳でビャッコを睨み返した。
「ああ、嘘なんかつくもんか! あの野郎……あの腕……っ!」
「……わかった。ちょっとごめんね」
ビャッコは穏やかな手つきで、若者の口の端から流れる血を指先でそっと拭った。
ヴァレリオに踏みつけられた時に切れた傷から出た、鮮やかな赤。
若者は一瞬呆気に取られた表情を見せたが、そのまま増援の隊員に引きずられるようにして連れて行かれた。
ビャッコは立ち上がり、離れた場所で毛皮の襟を整えているヴァレリオと、その傍らに立つルミナに鋭い目配せを送った。
ルミナは一瞬だけ小さく頷くと、持ち前の愛嬌ある笑顔を浮かべてヴァレリオに歩み寄った。
「ヴァレリオ様ぁ、大変ですよ! せっかくの素敵な腕が、さっきの騒ぎで汚れちゃってます!」
「あん? 汚れ……ああ、あの汚ねえネズミが触りやがったか? チッ、気分が悪りぃ」
ヴァレリオが忌々しそうに自分の右腕を掲げると、ルミナは「あ、私が綺麗にしますね!」と言って、制服のポケットから除菌用のウェットティッシュを取り出した。
「これ、企業の特別製で、生体パーツのケアにもいいんですよぉ」
「ほう、気が利くじゃねえか」
ルミナは甲斐甲斐しくヴァレリオの腕を拭くふりをして、その動作の途中で、タトゥーの入った接合部付近の皮膚を、極小の採取デバイスを仕込んだ指先でピンポイントに撫でた。
「はい、ピッカピカですっ!」
「おう、サンキュ。……おいお前ら、いつまでそんなところで油売ってんだ。さっさと帰るぞ」
ヴァレリオは満足げに腕を眺めると、振り返りもせずに装甲車へと乗り込んだ。
ルミナはビャッコの元へ駆け寄ると、ヴァレリオには見えない角度で、採取完了を示す小さなサムズアップを作ってみせた。
◆
護衛任務も無事終了し、第3詰所へと帰還した一行を待っていたのは、重苦しい沈黙と、ルミナが操作するホログラムディスプレイの青白い光だった。
ネオンが部屋のロックを厳重にかけて戻ってきたところで、ルミナが口を開いた。
「……解析、終わったよ」
ルミナの声は、いつもの明るさが嘘のように低く沈んでいた。
ビャッコは固唾を呑んでモニターを覗き込む。
そこには、若者から拭い取った血液と、ヴァレリオの腕から採取した皮膚片の照合結果が表示されていた。
「結果は?」
「……限りなく黒、真っ黒。二つの検体には明確な血縁関係が認められる。間違いなく、あの若者の『兄』のパーツだよ。……でも、問題はそこじゃないんだ」
ルミナが震える指先で、もう一つのウィンドウを開いた。
それは、ネオンがサクラデバイスのデータベースから引き出した、その腕に刻まれていた「認可番号」の登録情報だった。
「この番号に紐付けられている『元の所有者』のデータ……名前も年齢も、あの若者の兄貴とは別人なの。記録上では、二年も前に別の区画で処刑された死刑囚ってことになってる」
「二年前……。だけど、あの若者は『一ヶ月前に連れて行かれた』と言っていたわよね」
ネオンが鋭く指摘する。
ビャッコの背中に、嫌な汗が伝わった。
「つまり、どういうこと? 企業の管理ミス?」
「それならまだマシだよ。……でも、認可タトゥーは本物で、中身のDNAだけが別人のもの。しかも、記録上の所有者はとうに死んでいる。……これ、意図的にデータを『上書き』して、出所不明のパーツを合法品に仕立て上げてるってことじゃないの?」
ルミナの推測に、室内が凍りついたような静寂に包まれる。
もしそれが事実なら、ヴァレリオはただのバイヤーではない。
サクラデバイスの根幹にある管理システムにアクセスし、あるいは内部の人間と結託して、生きた人間を「死んだはずの死刑囚」という枠にハメ込み、パーツを合法的に「生産」していることになる。
「ヴァレリオが直接手を下しているのか……それとも、彼もまた大きなシステムの一部に過ぎないのか……」
ビャッコは、自分の手のひらに残っていたあの若者の血の熱さを思い出した。
あの涙ながらの叫びは、真実だった。
しかし、相手は上位クリアランスを持つVIPであり、その背後には巨大企業の「合法」という名の鉄壁の守りがある。
「これ以上は、ただの治安維持部隊の権限じゃ踏み込めないわね。……いい、ビャッコ。この件は私たちだけの秘密よ。下手に動けば、消されるのは私たちのほうだわ」
ネオンの忠告に、ビャッコは無言で頷くしかなかった。
目の前にぱっくりと口を開けていたのは、想像以上に深く、底知れない都市の奈落だった。ヴァレリオという男の背後に透けて見える、この都市そのものの狂気。
手がかりを掴みながらも、権力の壁に阻まれて手が出せないもどかしさ。
モニターに映る無機質なDNAの波形を眺めながら、ビャッコはこの都市が抱える闇の深さに、ただ静かな戦慄を覚えていた。




