第46話 戦慄のソロ
暗転したドームに、心臓の鼓動を模した重低音が響き渡る。
数万人の観客が手にするペンライトが、海のように揺れていた。
その中心――光り輝くステージへとせり上がってきたのは、完全無欠の歌姫『ノア』だった。
「(……いける。大丈夫。私はノアだ)」
アイリスは心の中で自分に言い聞かせた。
ドレスの胸元を三回タップして固定された衣装の拘束感。
それが、今の彼女を支える唯一の骨格だった。
イントロが弾け、まばゆいスポットライトが彼女を射抜く。
網膜を焼くような白光の向こう側には、巨大なスタジアムを埋め尽くす観客たちの熱気が渦巻いていた。
彼らの放つ熱量と、地鳴りのような歓声が、物理的な圧力となってアイリスの全身を叩く。
吐き気をもよおすほどの緊張感と、全身を貫くような高揚感が、彼女の意識を白く染め上げていた。
ライブは驚くほど順調に滑り出した。
歌やトークなどごまかしがきかなそうなところは、ノア本人の音声データなどから合成した声が会場には響いている。
ドームの巨大な音響システムが、合成音声の微かな違和感を重低音で塗りつぶし、熱狂という名のフィルターを通して観客に届けていた。
最前列のファンや勘のいい者は何か変だと首をひねる場面もあったものの、それも大歓声の波に呑まれてかき消されてしまうようだった。
ビジュアルは言わずもがなだ。
最新のホログラムメイクと完璧なウィッグ、そしてナノマシンによる衣装の自動調整。
鏡の中にいた「ノア」は、今、数万人の熱狂を一点に浴びて、本物よりも鮮烈に輝いているように見えた。
そして、懸念されていたダンスだが、アイリスは驚くことに大体無難にこなしていた。
もちろん、当初予定していたノアの動きとはかけ離れている。
もし見比べてみることがあれば、その拙さは一目瞭然だろう。
しかし、幸いノアはソロアイドル。合わせる必要がないダンスは周囲とずれようがないという特性があった。
そしてなによりも、アイリスがノア特有の指先のしなやかさ、重心移動の癖、そして煽りのタイミングをうまくトレースできていることが大きかった。
激しく明滅するレーザーライトの奔流。
アイリスはその光を切り裂くように腕を振り、髪をなびかせる。
一挙手一投足に、ドームを揺らすほどの怒号に近い歓声が上がる。
その快感が、恐怖をわずかに麻痺させていた。
(……ノアのライブ映像、見返しておいてよかった)
アイリスはかつて、ビャッコに対して「ノアのことなんて別に好きじゃない」と強がっていた。
だが実際は、暇さえあればノアの映像を穴が開くほど見返していた。
それはファンだからという理由ではない。
もしかしたらありえたかもしれない自分のもう一つの姿を見つめる、祈りにも似た憧憬の眼差しだったのかもしれない。
あるいは、自分を置いていった「選ばれた姉」への、執着にも似た未練だったのかもしれない。
だが、その見続けていたという事実だけが、今の自分を動かしてくれている。
ついでに言うと、ダンスもこっそり練習していたこともあったりする。
かつてアイアンメイデンで、こっそりノアのステップを練習しては、振動で作業を邪魔されたネオンに「揺らすな!」と怒鳴られていたこともある。
あの不格好な努力が、今、結実していた。
(これなら、最後まで逃げ切れるかもしれない――)
そう思った、その時だった。
『――♪……ッ……』
サビに向かってボルテージが最高潮に達する瞬間、スピーカーから流れていたノアの歌声が、ノイズと共にぷつりと途切れた。
会場を支配していたのは、残されたBGMと、アイリスが踊る際の衣擦れの音。
そして、数万人の観客から漏れる当惑のざわめき。
「え……?」
アイリスの顔から血の気が引く。
それは、アイリスには知る由もなかったが、急遽用意された口パク用の音声データがフリーズしたため発生した空白の時間だった。
歌声が消えたステージの上で、アイリスは踊りを止め、幽霊を見たかのように立ち尽くしてしまった。
今まで無我夢中で走っていたために忘れていた大勢の前で歌うという恐怖。
それが、音楽の沈黙によって一気に内からあふれ出す。
スポットライトが、残酷なまでに「ただの怯える少女」を照らし出していた。
一瞬で、仮面の下の「臆病なアイリス」が顔を出してくる。
「どうしたの?」「マイクの故障?」
ドームの空気が一気に冷えていく。
数万人の視線が、期待から疑念へ、そして不安へと変わっていく。
その重圧は、身体を押し潰すほどの質量を持って彼女にのしかかった。
パニックに陥ったアイリスは、インカム越しに聞こえるスタッフの怒号に肩を震わせ、今にも泣き出しそうだった。
「機材トラブル!?」
舞台袖でモニターを叩かんばかりに身を乗り出したのはビャッコだ。
だが、今の彼女にはステージに駆け寄る能力も、事態を収拾する術もない。
その時、背後からカチリとメイクボックスを開ける音が聞こえた。
「あんた、助けに行きたいんだろ? 顔にそう書いてあるよ」
振り返ると、そこには先ほどのメイクアップ・アーティストの女性が立っていた。
彼女は腕組みをし、感情を読み取らせない瞳でビャッコを射抜く。
「え……?」
正直、まだいたの?という感想が湧き上がったが、その異様な存在感に突っ込むことができず立ちすくむビャッコ。
その女性は、この修羅場の中にあって一人、別の時間が流れているかのような、不気味なほどの余裕を漂わせていた。
そんなこともお構いなしで、ハスキーボイスで語り掛けてくるメイクさん。
「助けに行かないのかい? このままじゃ、あの娘は一生立ち直れなくなるよ。……あんたの誇りも、その傷も、全部ステージにぶつけてきな」
「え? なんて? いや、あの状況で私が出ていったところで、どうすれば……」
ビャッコが言い淀んだ瞬間、女性がビャッコの肩を掴み、強引に椅子へと押し倒した。
「なら、私があんたに魔法をかけてやろうじゃない。……大人しくしな」
拒否する間もなかった。
女性の指先が、驚異的な速度でビャッコの顔を踊る。
痛覚遮断のせいで感覚の鈍い肌を、冷たいブラシとナノパウダーが覆っていく。
さらに、女性は近くの衣装ラックから、ノアの予備衣装として用意されていた、黒を基調としたパンキッシュなステージ衣装をひったくってきた。
「なかなかどうして。ヒューマロット相手の仕事なんて面白くないと思っていたけど、あんたは面白いね。……化けるよ、あんたは。本物よりもずっと人間らしい、綺麗な化け物にな」
数分後。鏡の中にいたのは、傷だらけの治安維持部隊員ではなかった。
髪を大胆にかき上げ、目元には鋭くも可憐なラインを引いた、正体不明の「謎の美少女」だ。
「…………どうも」
ビャッコは自分の顔に戸惑いながらも、ふらつく足で立ち上がった。
一体どうしてこうなった、とか、なぜ今メイクした?とか、そもそもあんたなんなんだよ、とか色々思い浮かぶセリフはあったが、正直痛覚遮断を最大で効かせているせいか、頭がぼんやりしてうまく言葉が出ない。
メイクの女性に「さあ、行きな嬢ちゃん。観客は飢えた狼だ。食われる前に歌い倒してきな」といい声で促されれば、自然と歩き出すほかなかった。
舞台袖へ向かうと、そこは右往左往するスタッフたちで制御不能な混乱に陥っていた。
「おい、君! ここは関係者以外……!」
止めに入ろうとしたスタッフを、背後についてきたメイクの女性が一睨みし、耳元で一言二言囁く。
途端、スタッフは顔を青くして、「し、失礼しました! 社長の……! あ、あちらにマイクを!」と手のひらを返してマイクを差し出してきた。
そのスタッフの手は、社長の名前を出された恐怖か、それとも別の何かによって、ガタガタと震えていた。
画面の向こうでは、アイリスがスポットライトの下で震え、今にも崩れ落ちそうだ。
「……男も女も、度胸が肝心!」
ビャッコはやけくそ気味に自分に言い聞かせると、セラフィムを腰の裏に隠し、眩すぎるほどの光の海へと飛び出した。




