第四章 セイレーンの異変
茂田があーだこーだいいつつ課題を大量に出してきたせいで、その日の夜、俺は徹夜で教科書とにらめっこする羽目になった。
あくびを連発しつつ、ふらふらする視線をノートに固定しつつ、よろよろとテレビのリモコンに伸びる手にシャーペンを握りつつ、ずるずると襲い掛かってくる眠気を薄っぺらい気合で吹き飛ばしつつ、最後の問題の自己採点が終わったとき、時計は午前3時を指していた。
パタリとノートを閉じ、神門に借りていたシスタンを鞄の中に丁寧に突っ込み、机の電気をコンセントから引き抜いて消した俺はようやく布団に入ることを許可された。
目を閉じるか閉じないかというところで、俺の意識は暗転した。
というわけで、俺は今、駅から学校までの道のりを全力疾走している。
目を閉じて、次に開いた途端飛び込んできたのは目をつんざくようなまぶしい光と、耳をつんざくような目覚まし時計のアラーム音だった。
寝ぼけながら布団からはい出した俺は、アラームを止めようとして、自分の目がついにバグったかと思った。
8時55分。
俺の目が正常であると仮定するならば、俺を起こしたこの時計はそう表示していた。
それは、学校の始業時刻だ。
ヤバい、遅刻する。
高速で制服に着替え、仕事に行った母親が残していった朝飯の御飯を入るだけ口に突っ込み、いい加減に身だしなみを整え、荷物を持つと玄関を飛び出した。
仕事に行く前に起こしてくれよとか思いつつ、遅刻確定の電車の中で睡眠の残りを貪り、そのせいで危うく乗り過ごしそうだった電車から飛び降り、こうして学校までの数か月早いマラソン大会に個人参加しているというわけだ。
喘ぎながら校門をくぐった俺は、一限の授業中(幸いなことに茂田ではなかった)の教室に定型句「遅れてすいません」とともに入室し、理由を聞かれたので課題がどうこう言ってごまかし、席に着いた。
平凡な一日が、始まろうとしていた。
しかし睡魔は完全に去ったわけではなく、閉店時刻を迎えた銀行のシャッターのようにシャットダウンしてくる瞼を食い止める戦いに敗れながら授業を受けているうちに昼休みとなった。
「よう、セイレーン。どうして遅れたんだ?」
こう聞いてくるのはあいつしかいるまい。
俺は弁当箱を広げながら投げやりに答える。
「別に大した理由なんかねーよ」
俺の前の席のやつの椅子を勝手に使い、浅倉は俺の机に自分の弁当箱を置いた。
「遅刻は今までしたことなかったけどな。正直疲れる。朝から走って学校に来るほど、俺はパワフルじゃない」
お前はどうか知らんけどな。
「どうせ、茂田から課題の山を与えられたんだろ」
実に的確なところを突いてくる浅倉。
「ま、そんなところだ」
肩をすくめて、俺は俺を起こさずに仕事に行った母親が適当に作った弁当に箸をつける。
朝から御飯一口しか食ってないため、腹が減って仕方がない。
俺がひたすらたいしてうまくない弁当をかきこんでいると、唐突に思い出した。
「おい、神門。シスタン、持ってきたぞ」
俺から少し離れたところで復習らしきことをしていた神門は、
「あら、ありがとう。ちゃんと覚えててくれたのね」
俺が鞄の中から出したシスタンを受け取った。
「どう、少しは覚えられた?」
「合格点ぎりぎりで受かった。暗記はあまり得意じゃねえんだ」
「暗記も、だろ」
俺の横でボソッとつぶやく浅倉。
「ありたきりなツッコミだな」
「間違ったことはいってねえぞ」
「成績一位のやつから言われると、無性に腹が立つね」
「逆恨みというやつだ。俺は事実を言っているだけだからな」
だから腹が立つんだ。
俺は舌打ちして、弁当をかきこむ作業を再開する。
「ほんとに仲がいいわね、水城くんと浅倉くん」
感心したのか呆れたのかよくわからないコメントを発する神門。
さて、俺はこんな奴と仲良くしてる覚えはないけどな。客観的にそう見えるのなら、別にいいさ。
「喧嘩するほど仲がいい、ていうしね」
それは恋人同士の話だと思っていたが。友人間でも使えるのか?
「仲がいいのはいいことよ。副室長としても、面倒事は避けたいからね」
それだけ言って、神門は去って行った。
「俺と浅倉が起こした問題は、ゆうに10を超えると思うぜ」
「誰のせいだろうね」
「お前が一言多いからだろ」
「セイレーンの気が短いんだよ」
ほら、一言多い。
浅倉はやれやれというように肩をすくめると、空になった弁当箱に蓋をした。
だらだらと午後の授業を聞き流し、待望の放課後が到来した。
テキストは基本的に学校においているため、俺の鞄は著しく軽い。
今日は部活あったっけなと、クラブ掲示板を見に行くと、「テニス部は本日ありません」と浅倉の字で書いてあった。
ならさっさと帰ることにしようと、体の向きを変えたとき、
「やあ、水城くん。これからテニス部?」
神門が後ろに立っていた。
「いや、今日はないらしい。もう帰るよ」
「そう。気を付けてね」
「ああ」
じゃあ、と言い残して神門は歩いて行った。
さて今度こそ俺も帰るか、と歩き出そうとしたとき……、
俺はいきなり腕をつかまれた。