第三章 セイレーンの憂鬱
翌日は、テニス部のない日だった。
朝からボーっと授業を右耳から左耳へ聞き流しつつ、時には睡眠の海に落ち、やり過ごしながら今日は学校が終わったら速攻帰宅しようと考えながら中年の数学教師の催眠術じみた三平方の定理の説明を聞いているうちに気が付いたら六限が終わっていた。
終礼の連絡事項をサラリと聞き流し、さあ帰ろうというところで、ガラリと教室のドアが開く音。
振り返った俺は、嫌な予感が実体化して背後にのしかかってくる錯覚を覚えた。
立っていたのは、つい数時間前に催眠波を発していた数学教師。
身構える、俺をはじめとした成績不振者勢。
「さっきの授業の冒頭でやった小テストで七割以下の者は、本日五時から補習をやるのでこの教室で待機しておくように」
そして俺たちがもっとも警戒していた爆弾を投下した。
俺の点数が何点かと聞くかね?催眠学習は功をなさないという言葉でもって返答に変えよう。
「もう一度追試をやって、それで不合格な者は最終下校まで補習とする。以上」
それだけ言って数学教師は帰って行った。
俺の放課後プランが見事に瓦解した瞬間だった。
来る放課後。
五時まで暇でしょうがないので購買をふらついていると俺より成績が良く今日のテストでも満点を取りやがった野郎とすれ違った。
「よう、お疲れだな。ま、がんばれよ」
浅倉は他人事のように、実際他人事だが、ニヤッと笑った。
「たまにはお前も追試かかれよ。お前が落ちるほど難しかったってことで、補習中止になるかもしれん」
立ち止まってそう返答する。
「あの頑固な数学教師が、俺が落ちたくらいで補習をやめるとは思わんけどな」
そんぐらい俺も考えた。お前が満点ばっか取ってんのが気に食わないだけだ。授業中寝ないのは評価してやるが。
「セイレーンが寝過ぎてるだけだろ。半ば見捨てられてることを自覚したほうがいいと思うね」
でた、セイレーン発言。
しょうがないだろ、俺はテニス部で疲れてんだよ……と言おうとして、こいつが県大会のレギュラーだったことを思い出して、やめておいた。
俺にないものをいろいろ持っている文武両道野郎は、
「そろそろ気を引き締めるべきだと思うけどな。進路とかも考えないといけない時期だし」
考えたくないから、寝てるんだ。現実逃避というやつだよ、これは。
なんて言い訳が通用するわけがないことは、俺が一番知っているけどな。
こんな風に、時間つぶしを兼ねて浅倉とだらだらと駄弁っていると、
「そろそろ追試始まるんじゃないの?水城くん」
背後から女子の声がした。
浅倉との問答とも口論ともつかんやり取りを中断して振り返ると、立っていたのは同じクラスの神門紗だった。
「おお、そうか?もうそんな時間か」
腕時計に目を落とすと、四時五十五分を指していた。
「遅れると、茂田がまたいろいろうるさいでしょ。早く行ったほうがいいと思うよ」
あー、ちなみに茂田というのは数学教師のことだ。別に必要ないと思って言わなかったが、こっちのほうが短くていい。
「そうだな、もう行くか。じゃあな、神門、ついでに浅倉」
「がんばってね」
「せいぜいがんばれ」
エールの気持ちがこもった神門の声と、まったくこもっていない浅倉の声が後ろから聞こえた。
さて急ぐかと早足になった俺は、再び前に覚えのある人影を見つけて速度を落とす。
やってきたのは、小柄でおとなしい中一女子、苅谷崎凜だった。
「よう、苅谷崎」
俺の呼びかけに苅谷崎はぺこりと頭を下げる。
別にわざわざ立ち止まって会話する中ではないし、向こうもそう思ったようで再び歩き出そうとすると、
「あ、そうだ水城くん。この前貸してたシスタン、そろそろ返してくれない?あさって、またテストでしょ。勉強しないと、親がうるさいの」
背後から神門が声をかけていた。
「あー、そうだったな、すまん。明日返すよ、必ず」
この前の英語のテストのとき、シスタンを家に置いてきてしまったため、神門に借りていたのだ。
「お願いね」
神門はそれだけ言って俺とは反対側に歩いて行った。その少し前を、苅谷崎が歩いていた。ちなみに浅倉は、とうの昔にどっかへ言った。どこへ行ったかは、別にどうでもいい。
俺は今度こそマジでヤバかったので、ダッシュで教室に走って行った。
どうやら補習には間に合ったようだが、これからまた催眠波を聞かされないといけないのかと思うと、相当憂鬱になった。
追試で一発合格して、さっさと帰りたいね。
結果的に、俺が夢遊病者のような足取りで昇降口までやってきたのは、最終下校間際だった。
キーンコーンカーンコーンというチャイムを水の底から響いてくるようにぼんやりと聞きながら靴を履きかえていると、
「あら、水城くん。今終わったの?長かったわね」
同じく靴を履きかえた神門と会った。
俺は挨拶するように片手をあげて、
「今まで何してたんだ?」
「進路指導。来年は理数に進みたいけど、やっぱり難しくなるのよね。どうしようかしら」
どっちでもいいじゃないか。理数に進める希望があるだけ。
「俺みたいな数学赤点組には縁のない話だな」
「そんなことないわよ。数学なんて、がんばればそれなりに成績伸びるわ」
つまり、がんばらなければそれまでという話だ。
じゃあね、といって去っていく神門の後姿を眺めながら、さて親に何と言い訳しようと考えていた。
神門は、苅谷崎と正反対の性格をしているといっていい。
活発で、男女問わず仲が良く、友人も多い。今はクラスで副室長をしている。長い髪を後ろでポニーテールにしていて、スタイルも容姿もいい。ひそかにファンクラブも存在するんじゃないかといわれている。あくまで噂だが。
成績もよく、学年順位は二位か三位だ。ちなみに一位が誰かというと、別にいう必要ないかもしれんが浅倉だ。
運動神経は平均くらい。陸上部に所属していたが、勉強のためにやめたとか聞いた。
たいしたやつだと俺は思う。
神門の後を追うように外に出た俺は、またまた苅谷崎に会った。
何故か苅谷崎は、俺をじっと見て、少し前に神門が去って行った方向に目を向け、また目を俺に戻した。
不思議に思った俺と数秒目が合って、我に返ったのか軽く頭を下げて早足で去って行った。
何かあったんだろうか。
本当に苅谷崎と神門と俺の間になにかがあったと俺が気付くのは何日も後になる。
ある意味で、俺の人生をいろいろ変えたその出来事は、俺の知らないうちに、裏で始まっていた……らしい。
俺に知るすべはなかったが。
お気づきかもしれませんが、この小説、『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズの影響を相当受けています。そのへん、よろしくお願いします。
次は土曜日になりそうです。




