141話 正体5
地面から伝わる冷気のせいで、ノルの体の感覚はなかなか戻らず、後頭部と手足の先が痺れていた。 だがそう感じていてもどうにかする訳でも無く、思考する事を放棄して横たわるノルの肩をそっと叩く少年がいた。 後ろで戦うサミューとノーガスが透けて見える事から少年は死者の霊だろう。 ノルはその少年と、どこかで会った事がある気がした。
今にも泣きそうになるのをグッと堪えたような表情で、ノルに何かを伝えようとしている。 だが少年は普通の死者の霊よりも存在が薄く、声も小さいため何を言おうとしているのかノルには分からない。
どこで会ったのか考える事はおろか話を聞く気力が湧かず、何やら言い争いをしながら戦うサミューとノーガスの方に顔を向けたままにしていると少年は走り去った。
それからどれくらいぼーっとしていただろうか、気付くとチラが横にいた。 ノルの横でノーガスに見つからないよう体を低くした状態でヒソヒソと声をかける。
「ノル、ノル。 早くあっちの木の間に隠れよう!」
ノルはもぞりと重い頭を動かし、原生林の方を指さすチラを見ると掠れた声で聞いた。
「……隠れてどうするの?」
「ノルはとにかく逃げるか隠れるかしなくっちゃ。 それに誰か助けを呼んで来た方がいいよね? だけどボクは走るの遅いし、村までの瞬間移動はもう出来ないからノルに行ってほしいんだ。 隠れるにはサミューがあの悪いおじさんの気を引いてくれている今しか無いよ!」
「……だけどあのノーガスってとっても強いから誰を呼んでも敵いっこないわよ。 それに……チラちゃんは寝ていたから聞いていないのよね。 いいなぁ私も、もう少し意識を取り戻すのが遅ければ、サミューのあんな……」
虚な目でぼんやりと空を見上げるノルにチラが膨れっ面でポカポカする。
「ボクだってちゃんと知ってるもん! 寝ちゃった後の事はあの子が教えてくれたんだもん! 逃げてって言ってたの!」
チラが指をさした先には先ほどノルの肩を叩いていた少年がいた。 今はノーガスの足にしがみ付き、必死に戦いを止めようとしているように見える。 だが死者の霊には物を動かせる力は無いため、ノーガスに引きずられるようになっていた。
「ノルこそ何を見て聞いてたの? サミューが本気であんな事を言う訳ないでしょ! 今だってあんなに苦しそうな表情をしてるんだよ。 ノルのためにあんな危なそうなおじさんと戦ってくれてるのに、どうしてノルが信じないで諦めちゃうのー!」
チラのひと言で思考する事を放棄していたノルの頭が動き出す。 ハッとしてノーガスと戦うサミューを見た。
普段人と戦うときは刀を抜いたところを見た事が無い、決して好戦的とは言えない性格のサミューが眉間に皺を寄せ刀を抜いて戦っていた。 “花吹雪”と言う二つ名を過去に持っていた実力者のサミューが、刀を抜かなければならないほどの強敵と相対しているのだ。
ノルを守るため、ノーガスの注意を自分に引き付けようとあんな事を言ったのだと今なら理解できた。 皮肉屋だが、根っこは人が良いサミューは思い悩んだときよくあの表情をするのだ。 ノルはチラに頷きかける。
「ごめんね、私弱気になってた。 だけどまだ私の体は思うように動かないと思うの。 チラちゃんだけでも逃げて。 せっかくサミューが戦ってくれているのに、それを無駄にしてしまっては元も子もないわ」
チラは首を横に振りノルの手をキュッと握る。
「ううん、それは大丈夫。 あそこの茂みくらいまでならノルを連れて瞬間移動が出来るはずだよ。 それにサミューが動きやすいようにやっぱりボクたちは隠れなくっちゃ。 それじゃあ、いくよー!」
ノルとチラはその場からパッと姿を消した。
サミューはノーガスの剣をいなしながら尋ねる。
「先ほどの答えから考えるに、やはり男爵を殺したのはお前だな? それに赤いローブを身に付け、男爵に侍っていたのもお前なのだろう?」
「侍ってなど──。 ──ッ!」
ノーガスはチラの瞬間移動でノルの魔力が一瞬ゆらいだ事を感じ取り、サミューの背後に視線を向けた。
「戦いの最中によそ見とは余裕だな!」
サミューの突きをノーガスは冷静に躱しながらサミューを軽く睨む。 ノルの姿が無くなっていた。 頭に血が昇り目の前のサミューにしか注意を向けていなかった自分に腹が立つ。
「…………あなた、私を怒らせて注意を惹きつけるため、わざと心にも無い事を言いましたね?」
舌打ちするサミューを見ながら、ノーガスはニコリと迫力のある微笑みを浮かべる。 先ほど受けた質問をきっかけに、以前ファッツ男爵と一緒にノルを捕える依頼をサミューに受けさせたときの事を思い出していた。
事前の下調べでサミューの人となりと、姉ナーシャが亡くなっている事を突き止めたのだ。 そのためサミューの性格を考えると、本気で死者を冒涜するような暴言を吐くとは考え難い。
サミューはノルとチラが居る辺りに背を向け、2人を守るように刀を構える。 サミューの耳には茂みの中でノルとチラが動いた微かな音が聞こえていたため、大体どの辺りに2人がいるか分かっていた。 もっともそれはノルの魔力を感じられるノーガスも同じだ。
「幸い彼女はまだ近くにいる様ですね。 どちらにしろノルを殺すためには、あなたに退場していただかないとならないようだ。 ですがあなたのような純粋に剣の腕を磨いた剣士と戦うのは楽しい、思わず時間を忘れてしまいそうだッ!」
ノーガスはサミューに剣撃の嵐を浴びせた。 サミューはそれを的確に捌き切り、少し距離を取るとノーガスに袈裟懸けに斬り込む。 ノーガスが剣でサミューの刀を受けると、鍔迫り合いをしながら見つめ合い、互いに後ろに飛び退く。
「奇遇だな。 俺もお前に退場してもらわなくてはならないと考えていたところだ!」
サミューの突きをノーガスは体を捻って躱しながら目を爛々と輝かせた。
「そう来なくては! 妖精族の剣士は魔法に頼ってばかりで正直剣の腕はイマイチなのですよ」
サミューは楽しそうなノーガスとは対照的に冷や汗をかき内心で舌を巻いていた。 どうやら目の前の敵は戦いながらでもしっかり頭が回るタイプらしい。 チラの瞬間移動というトリガーがあったにしろ、頭に血が昇った状態でサミューが嘘をついていた事を見破ったのだ。
『クッ……! 先程まで1撃1撃が重い分、大振りで太刀筋は読みやすかったが、やり辛くなったな……』
今は1撃こそ軽いものの、手数が多く太刀筋が読み難い。 幸いノーガスの発言から今のところ魔法を使ってくる気配は無いが、いつ使われるか内心ヒヤヒヤものだ。
『早いところ決着を付けねば……!』
サミューが後ろへ飛び退き距離を取ると、ノーガスも同じように距離を取り、互いにジリジリと距離を詰めたり開いたりと攻撃の機会を伺い合う。 無言の圧力を持った緊張感がその場一帯に張り詰めていた。
茂みに隠れ、息を潜めて逃げる機会を伺っていたノルとチラも思わずゴクリと唾を飲み込む。 風が吹き付ける音と、ざわざわと揺れる木の葉の音がやたらと大きく聞こえる。
先に緊張を破ったのはノーガスだった。 目を大きく見開きサミューでは無く、ノルとチラが隠れる登山道の方へ駆けて来る。
『えっ、えっ!? 何で? ちゃんと隠れてたはずなのに......! いやよ、死にたくない……』
万事休す。 ノルは目をぎゅっとつぶったが、ノーガスの視線の先に居たのはノルでは無く登山道で立ち尽くすエアだった──。