114話 目薬
翌朝4人はシダー夫妻とお別れを済ませ、ストンリッツを発った。
坂を下り飛行船乗り場を通り過ぎると森にぶつかる。 森の小道はうっすらと雪が積もっている程度だが、木々が立ち並ぶ方に目をやると根本が埋まるほどしっかりと雪が厚く積もっていた。 もう少しで春がやって来る時期ではあるが、まだまだ雪深い。
白銀の絨毯に音が吸収され、森は昼でも静まり返っていた。 聞こえる音と言えば時折枝に積もった雪が落ちる事で聞こえるトサリという音と、4人がサクサクと雪を踏み締め歩く音くらいだ。 そう思っていたが、他にも小さな足音が聞こえた。
森の中を1匹のリスが走り抜けて行く。
まるで横の道を通る人間になど構っていられないと言わんばかりに忙しなく走り回っている。 リスは雪と苔がふんわりと折り重なる倒木の下で立ち止まると、小さな手で雪を掘り始めた。 それを見てチラは少し嬉しそうに指をさす。
「あっ! あそこにどんぐりが埋まってる!」
どうやらあのリスは秋に取ったどんぐりを地面に埋め、餌が無くなった今少しずつ掘り起こして食い繋いでいるらしい。 キョロキョロと辺りを見回し、小刻みに動きながらやっとどんぐりを掘り出した。
ノルはその表情から勝手に達成感を感じ取り、心の中で拍手を送る。 するとそこへ1羽の小鳥が飛んで来て、なんとそのどんぐりを奪い去って行ったではないか。
「あーっ! あの鳥ズルいわ、リスが一生懸命貯めておいたどんぐりなのに」
キョトンと立ち尽くす気の毒なリスを見て、ノルがプンプン怒っているとサミューが苦笑した。
「それほど野生生物にとって冬は厳しいと言う事だ」
冬は確かに森の恵みがほとんど無い。 そのためノルは冬の森に入った経験は少なかった。 サミューの意見にエアは頷く。
「そうそう、それにあのリスは至る所にどんぐりを埋めてると思うけどな。 それこそ自分以外のリスが埋めた物と区別が付かないくらい一心不乱にさ。 だから手当たり次第にその辺掘ってんじゃないのか? どんぐりに名前を書いてるわけでもないし」
エアの言葉を証明するように、立ち尽くしていたリスは雪を蹴って森の奥へ走り去って行く。
「そういえば、リスさんは埋めたどんぐりを掘り起こし忘れる事があってね、春になるとそんなどんぐりから芽が出る事もあるんだよ! そうやってリスさんがボク達の仲間を増やしてくれてるの。 だからボク達もお礼に美味しい木の実を付けるんだ」
先ほどまで冬の森は音が少ないと思っていたが、意識を集中してみると実に様々な音が聞こえる。 その事にノルは気付いたのだった。
♢♦︎♢
それから森を少し歩くと突然目の前の視界が開け、平原に出た。 見渡す限りの白銀の世界が日の光でキラキラと光っている。 ノルは目の前に広がる新しい足跡つけ放題の景色に目を輝かせていた。
「ここから街道沿いに半日ほど歩けばパインフレーク橋へ行き着く。 今の時間からだったら日が出ているうちに到着出来るだろう。 今夜は橋を渡った先で休むとするか」
そう言って歩き出そうとしたサミューをノルは荷物を弄りながら止める。
「ちょっと待って。 ……あった! もし置いてきちゃってたらどうしようと思ったわ」
ノルが取り出した小瓶には透明な液体が入っている。 それを見てエアとチラが頷いた。
その後ろで首を傾げるサミューにノルは説明する。
「これは私が作った水薬なんだけど、目が日差しでギラギラしそうなときにあらかじめ使っておくとだいぶ楽になるはずよ」
そう説明し終わるとノルは小瓶の中身を傾け、水薬を数滴目に入れた。 パチパチと数回瞬きして小瓶をエアに手渡す。
サミューはその様子を面食らって見ていたが、水薬で濡れたノルのまつ毛や不思議そうにこちらを見つめる、くりくりとした若葉色の瞳から何故か目が離せなくなっていた。
だがノルに続いて目の前でエアとチラも水薬を目に入れる様を見て我に返ったサミューは目を見開いた。 チラに小瓶を差し出されてもその場に立ち尽くし唖然とした様子だ。
「め、め、目に薬を入れるだと……?」
サミューはありえないと言いたげな表情で首を横に振り、頑なに小瓶を受け取ろうとしない。 そんなサミューを見てエアはニヤリと笑い、わざと聞こえるような大きさの声でノルに言う。
「ええーっ、アイツ俺たちより歳上なのにこんな事でビビっちゃってるの? カッコ悪ーい」
エアに煽られピクッと反応したサミューが口を開く前にチラがノルを見ながら言った。
「最初はエアだって怖がってたよねー? 目を閉じちゃって瓶の半分くらい無駄にしちゃってさ、勿体無いなーって思った事ボク覚えてるよ!」
エアはチラにバラされ赤面した。 その様子を見て冷静さを取り戻したサミューは、待ったをするようにスッと手を前に出す。
「き、貴重な薬のようだし俺は無くて平気だ」
「材料があればいくらでも作れるから心配しないで。 これを使えばかなり楽になるのよ。 ……あっ、もし怖かったら私がさしてあげる」
ノルはエアに揶揄われているサミューを気遣い小声で提案した。 つま先立ちになり、サミューの肩に手をかけて耳元で囁く。 サミューは目薬で目が潤んだノルを見て弾かれたように後ずさると、赤面しながらチラから小瓶を受け取る。
「し、じ、自力でやる。 も、問題無い!」
気付けば久々にインノ村へ帰ったあの日のような身体の火照りと動悸に再び襲われていた。 サミューは目と指先に物凄い気合いを入れて水薬を目に入れる。 そして手のひらを上に向けて出すノルに、まるで火がついた爆弾を渡すように小瓶を返した。
ノルはどうにか小瓶を受け取り首を傾げる。
「おっとっと……。 そんなに怖かった?」
サミューは首をブンブンと横に振る。
「も、も、問題無い!」
そう返事をしながらサミューは、この頃ノルと居ると調子が悪くなったり、自分が自分でなくなるような感覚に多々襲われている事に気が付いていた。 今も心臓が早鐘を打っており、下手したら爆発しそうな勢いだ。 このままでは危険が迫っても碌に対処が出来ないかもしれない。
『何故こんなにもノルの事が……か、かわ、可愛く感じられるんだ!? 早くこの感覚の原因を突き止めて対処しなくては』
そうひとりで頷いたサミューだったが、その頬にはまだ赤みが差したままだ。
「どこが『問題無い』だよ」
エアはそんなサミューを見てボソッと呟いたのだった。