22.もう、いない
♦*♦*
騎士団の奥にある竜の広場。
そこで寛ぐ竜たちの中に、漆黒の鱗を持つ古竜がいる。
夏の季節は樹の影で休んだり泉で水浴びをする竜たちが多い中、古竜はその大きな身を収められる樹の下で瞼を閉じていた。
ざわざわと木の葉が音をたて影も揺れ動く。時折鳥が飛んで古竜の傍で翼を休める。
静かで、心地よい夏の爽やかな風が通り抜けるひと時。
けれど、昼寝はできない。何度も何度も思い出して頭の中をよぎる言葉がある。
全ての始まりは、古竜がラウノアに出会ったこと。
ラウノアが接触を避けていた中で起こった想定外。それにより古竜はラウノアを知った。
古竜より先にラウノアに接触したのはヴァフォルだ。ヴァフォルは自分が感じた感覚を竜の長であり王である古竜に伝えている。
他の誰よりも強い力を持っている、と。構ってくれないどころか拒絶の意思が見える、と。
建国祭で古竜もラウノアに接触した。――そして知った。
そのとき、古竜はラウノアと目を合わせたわけではなく、声をかけ合ったわけでもない。
それでも感じたものを無視はできなかった。だから、なんとかもう一度会えないかと思って微かに覚えた匂いと近づけば感じる魔力を探って居場所を突き止めて向かったのが、ベルテイッド伯爵邸への電撃訪問だった。
しかしそれもすぐに騎士たちに囲まれ、ラウノアに近づくこともできず。ヴァフォルにまで止められるという結果に終わった。
――彼女は竜が近づくことが嫌みたいだからだめです。と、そう言われて。
古竜にとっては周囲の騎士やそうでない人間などどうでもよかったし、ただラウノアにだけ用があった。邪魔をする人間が多くて、同胞にまで進言され、仕方なく身を引くことにした。
最後にだけ、見てくれ聞いてくれ、と訴えた。内容など解るわけがないとは分かっているけれど、どうしても堪えきれず思わず鳴いた。ラウノアはその声を聞き古竜を見た。
分かっている。彼女からの拒絶の意思は。ずっと感じている。
けれど。それでも――。
古竜が動けば人を集める。それは古竜とて長い生活から理解している。だから、どうしようかと、長く悩みもした。
ベルテイッド伯爵邸へ赴くときだってわざわざ気配を魔力で消して慎重に向かった。人間社会などどうでもいいがラウノアとの接触に間違いがあれば人間の目はより厳しくなると知っている。伊達に長生きはしていない。
そんなときにヴァフォルがしてくれた、乗り手と三人だけのときに遊んでくれたと、という喜び溢れた報告に古竜はぱたんと尻尾を地面につけた。
……正直に言うと、むっとした。自分には近づいてもくれないのに。
しかし、古竜はそれでおおよその予想をつけることができた。
彼女は竜が近づくことを望まない。けれどヴァフォルの乗り手と深い関係があって、だからヴァフォルと三人のときだけは遊ぶ。
ヴァフォルの乗り手であるシャルベルは古竜のもとにもよく様子を見に足を運び、広場でもヴァフォルといることもあるので、古竜も見知っている。古竜にとっては他に来る人間と変わりないが、ヴァフォルがこれまでに話してくれたことを考えると、ラウノアがヴァフォルに触れて慣れた様子を見せても驚かない、自然としているようだとのこと。
ヴァフォルは嬉しそうによく話してくれるから、古竜も少し知っている。
それらを考え、古竜は結論を出した。
彼女は間違いなく解っている。だから自分を避けようとする。
だから古竜は次の行動を起こすことにした。
どうしても彼女に会いたくて。ちゃんと見たくて。それは功を奏した。――思っていない形となって。
あの日。あの夜。
――彼が、ここに来た。
♢*♢*
こっそりやってきたその人は他者に見られないようにするためにローブをまとい、深くフードを被っていた。古竜の竜舎に足を踏み入れ、そしてやっとフードを少し上げて古竜を見るとやれやれと肩を竦めた。
その人が対している薄暗い檻の向こうにいる存在は、最も長命で強力な竜であり、竜たちの長であり王である存在。
今の竜たちよりも長い歴史と多くの人間を見てきた竜は、伏せた状態で頭を上げている。
その目は瞠られ驚いているのが分かる。上がった尻尾がゆらりと揺れるのはそこに感情が乗っているから。
――やれやれと肩を竦めるその仕草。その口許。あまりにも見覚えがあって、忘れたことなど一度もない。
人間にはだれであっても威嚇するという、一歩間違えれば手のつけられない問題児。
けれど今、檻の前に立つその人にとっては、昔懐かしいただの友。
だからその人は誰もが絶対に越えない一線である檻を迷うことなく自然と越え、古竜の前に立った。
そうすれば古竜は頭を下げ、その人に鼻先を寄せる。
匂いを嗅ぎ取る。魔力を感じ取る。
古竜が少し怪訝としていることに気づきながら、その人は口角を上げた。
口角を上げた――不敵で余裕な笑み。
それを認めた古竜は目を瞠り、けれどすぐに理解したのかその人に頬を寄せた。寄せられる頬にそっと手を添えれば、触れる手に古竜は瞼を震わせる。
どれほどそうしていたか、古竜の耳に、自分を呼ぶ声が聞こえた。
『今はすべてを話すことはできない。それでも、言わせてくれ』
そっと身を離して、古竜はその人を見つめた。
その人はただ、まっすぐで真剣な目をしていた。懐古の表情も、悲しみもない、力強い瞳。
『このあとある女が来る。おまえも感じているからこそ呼んだ、あの娘だ。だが、今のおまえが選んでいい娘じゃない。俺はあいつを今のおまえに選ばせるつもりはない』
古竜の頭に浮かぶのは数度見た娘。そして彼は古竜が呼んだ理由さえ解っている。
だから、その声音はとても厳しい。
彼を見る古竜は僅か目を細めた。そんな友をその人も見つめる。
『飛べ。今の空を。おまえがこいつだと思える相手を見つけて飛べ。俺はもう、一緒に飛んでやることはできない。俺は、おまえが翼を広げ、あの雄大な姿で空を飛ぶことを願ってる。そういうおまえの翼が好きだ。そういうおまえが好きなんだ』
竜が背に乗せるのは、己が認めた乗り手だけ。
古竜はもう、誰も知らない乗り手を唯一だと心に決めた。――なのに、彼は残酷だ。
彼は誰よりも古竜のその心を知っているのに。
そして同時に分かっている。選択肢は他にもあるのだと。
それでも、その不敵な笑みを崩さない彼は、やはり彼なのだ。
いつだって、ただ一人を背に乗せて飛んだから。
背中から聞こえる笑い声と楽しそうな声は、あの時間は、今でも耳と記憶に刻まれている。
『だから――もう、俺を見るな』
古竜の黒い鱗に手が置かれ、そっと離れる。
そしてそのまま、その人は身を翻して檻を越えた。人間用の小さな扉の外へ出るとその気配はすぐに消え去ってしまう。
その人を止めることもできず、古竜は見つめるしかなかった。
彼は優しい人だ。そして――残酷な人だ。
分かっているのに突きつけてくる。疑問を問う暇さえ与えてはくれない。
去っていた背に乞うように、古竜は泣き出しそうに小さく声をもらした。
♢*♢*
『だから――もう、俺を見るな』
その言葉が、声が、何度も耳の奥で思い出される。その度に胸が痛む。
彼にとってもう自分はいらない存在なのかと悪い方向にまで考えてしまったけれど、何度も頭を振った。
いいや、きっとそうではないのだ。「今の空を飛べ」と彼は言ってくれたのだから。
彼はもう一緒に飛んでくれない。その理由だってちゃんと解ってる。それでも心はとても痛くて。
ラウノアに会って、知って。僅かな希望を抱いてしまったのだ。――そしてそれを彼は打ち砕いた。
頭を振って、悩む。そんなことをどれだけ繰り返しているだろうかは、古竜にも分からなくなってきた。
『飛べ。今の空を。おまえがこいつだと思える相手を見つけて飛べ』
だけれど、もう、他の乗り手を選ぶつもりなどない。選ぶことなどできない。彼でない人を乗せるなど古竜自身が想像できない。
彼以上に自分が乗せるに相応しい者はいない。騎士たちは乗せたくない。
だから、彼の願いは叶えてあげられない。
そう思って不意に思い出した。
『――……空を飛ぶことができる、あなたの翼が羨ましいです。同じように羽を持つ蝶や鳥を、大きなあなたが吐く息で飛ばしてはいけませんよ?』
空を飛べない人間は竜の背に乗ることに憧れる。人間が唯一持つ翼は、竜なのだ。
だから、その言葉に疑問はもたない。
だけど――後半の言葉は、違う。
古竜がそんなことをしたのは、そんなことをしていたと知っている者は、もういない。
竜の広場で過ごしていても鳥や蝶はどこにでもいる。広場の草花に止まることも、地面に降り立つこともある。けれど、ふんっと息を吹きかけるようなことはしていない。
それは、地面を覆い尽くさんばかりの小さな花が咲いていたあの場所で、あの人と一緒にいたときにしていた、まだ子どもだったころの話。
ふわりと、竜の広場に風が吹き抜けた。硬い竜の鱗も風に撫でられ、古竜は閉じていた瞼を開く。
視界に映るのは緑の一面。遠くに点在する竜舎。少し離れた場所では竜舎の世話人や乗り手が竜に水浴びをさせている様子も見られる。
古竜にとって、今の竜たちが乗り手を選び過ごせていることはいいことだと思えることだ。乗り手を選ばない竜に騎士が手を焼くことは知っているし、古竜自身がそうでもある。
仕方がないから手を貸すこともあるし、喧嘩の仲裁には入る。竜の長として下の者に気を配るのは当然のことだ。刷り込みで指示を聞くよう育てられていても成長した竜は危険であり、それによって誰かを負傷させ、竜に不利益があっても困る。
――乗り手を選ぶなど、できるわけがない。
そもそもに相応しい人間がいない。
改めてその結論に至ったとき、ふと浮かんだ。
選ぶとするならば一人だけいる。それも、彼と何か関わりがありそうな、彼女が。
彼女を選べば、もしかするとまた彼に会えるのでは……?
良案が浮かんで思わず心も明るくなる……と、彼の言葉がまた耳の奥に蘇る。
今の自分に彼女を選ばせるつもりはないと言った彼だ。こんな理由で選べば彼は怒るだろう。もしかすると、もう会ってくれないかもしれない。
そうなら、この人だと思える人を選ぶしかない。
だけどやっぱり、振り出しに戻っても頭に浮かぶのは、ただ一人なのだ。
彼女のことはよくは知らない。知っているのはその魔力と、ヴァフォルが話してくれること、そして、竜に拒絶の意思を持っていること。
拒絶されている相手に迫っても背に乗るとは限らない。なにより彼女が乗るとは思えない。
――自分は一体、どうするべきなのだろう。
そもそも乗り手をそうほいほいと変えるなどありえないし、まして自分は竜族の頂点である竜の王だ。そんなこと彼だって知っているし、解っていて乗っていたのに今更ひどい話だ。
――だんだん腹が立ってきたぞ。もう誰も乗せてなどやるものか。
ふんっと荒く息を吐いた古竜は不機嫌そうに尻尾を動かし瞼を落とした。
苛立ちを覚えても、心はやはり寂しさに埋め尽くされる。
――このまま、懐かしい場所へ行きたい。草原がどこまでも広がって、小川が流れる、あの場所へ。
いつもそこで彼と過ごした。彼を背に乗せて、降り立つその場所。たくさん遊んで、たくさん笑った。もちろん喧嘩もしたけれど。思い出してまた少し腹が立つ。
これまで過ごしてきた日々の中はこういうことばかりだ。
彼とは喧嘩をすることもあった。口を利かなくなったり、乗せなくなったり。だんだんとそういった日が続くと、不思議と彼ばかりを見て、伝えたくて、乗せたくなって。だけど、そういったことを素直に伝えるのはどうにも負けてしまうようで嫌で。だんだんと地団太を踏んでしまって。
『ふふっ。あなたたちは妙な意地を張って素直じゃないんだから。ね? どうしたいの? きっかけがあればお互いにちゃんと謝ることができるのが、あなたたちでしょう?』
古竜の耳が震える。そして瞼がゆっくりと開かれた。
ゆっくりと首を上げ、その頭が空を見上げる。
お互いさまなのだろう。これは昔からだから、きっと仕方ない。
居場所も、姿も、昔とは変わってしまった。彼も、古竜も、変わってしまった。
けれどきっと、変わらないものもある。
――きっかけを作るのは、いつも自分だ。




