後日談 ライネルの一日 後編
王太子を気分不良に、王宮内を不安に、平然と落としてくれた目の前の人物は今日の報告にふむふむと頷いた。
「もうちょっと加減するか……。錆びを取るにも時間がかかるから、日中に魔力を意識する訓練も始めるぞ」
「分かりました」
厳しい人だということはもう知っている。しかし、これでも自分に合わせて優しいのだということも知っている。
「ま、初回はどうせ倒れるのは分かってたんだ。今後もおまえが下手に倒れると大騒ぎだからな。倒れて訓練が遅れても困るし」
「……初回に追い打ちかけたあれは?」
「俺は計画通りに事は進める」
「今後も倒れられんっ……!」
問題諸々はギルヴァも承知している。だからこそライネルの訓練は慎重に進めるしかない。……いや。ちょっと無理やり感もあるけれど。仕方ない。そんなに悠長にしていられないのも事実だ。
ギルヴァは手に触れていると徐々に体の奥から気持ち悪さが発生しだす。「うっ…」とそれに堪える。
(大丈夫だ。ギルヴァ殿が触れている間はかなりマシだ。離れた後が辛い)
それは経験済みだ。
魔力についてよく知るギルヴァはなにかしらの操作も上手い。だから、気分こそ少し悪くても、触れ合っている相手はギルヴァは助けてくれるようで思考も回る。助けがなくなった後が怖い。
「よし。いいか。今おまえの体内で魔力がギシギシ音立てながら動きを取り戻そうとしてる。集中してその感覚を探れ。まずは少々の手助けはしてやる」
「分かりました」
ふっと息を吐いて、今夜の魔力訓練が始まった。
そして一時間もせず、ライネルはソファに突っ伏した。それを見遣るギルヴァはため息をひとつ。
「――魔力のまの字も知らねえ素人が訓練を始めるとこうなるのか。……おい。おまえ婚姻までにやれよ?」
「し、死ぬ……」
「まだ下準備だ。まだ死ぬな」
剣術の鍛錬、知識の勉学。これまで経験したどれとも違う。どれよりも進まない。どれよりも体が酷使されている。
一向に進歩している気がしない。
大きな疲労の息を吐きながらソファに仰向けになるライネルを見て、ギルヴァは問いをかけた。
「例の婚約者、どうなってんだ?」
「……茶に誘ったり社交会で声をかけたり竜の区域で声をかけたり……」
「――してるが、反応に手応えなし、ってところか?」
口端を上げて言うから少々むっとしてじたりと視線を向けてしまうけれど、ギルヴァは喉を震わせている。
足を組んでソファにゆったり腰掛けている姿。それはラウノアのそれなのに、言葉遣いか空気のせいか、重なって見えるのは一度だけ視た彼の姿。
「……アドバイスいただけませんでしょうか?」
「アドバイスねえ……。一つ、攻めの手は緩めるな。一つ、接触を図りすぎて鬱陶しがられないように相手にも余裕を与えろ。一つ、相手の話はなんであってもちゃんと聞け」
「至極まっとうですね」
「下手なことすると逆効果になりかねねえし、今やりすぎると婚約後が面倒だろ。いつだって態度と空気は変えるな。それにおまえは事情がある。それを優先しすぎて相手をなしがしろにするのは愚行であり、相手に対して生涯無礼であり続けるってことだ。気をつけろ」
もともと、ふらふらと遊ぶこともあった身だ。本気の恋などしたこともない反面、逃がしてはならない相手にどうしたものかと攻めあぐねてもいる。
(事情ばかりで考えるな、か……)
もっともな言葉だ。頭の中ではどこかそれを優先している自分がいて、振り払って追い払う。
なんとかソファから起き上がろうと……したがやっぱり無理だ気持ち悪い。そのままライネルは視線だけを動かす。
「ギルヴァ殿はどう攻めたのですか? 参考までにお聞かせ願います」
「攻めて攻めて攻めた」
「……」
「普段は押しに弱い奴だったからな」
……なぜだろう。ギルヴァの女性に対する攻めの姿勢がありありと想像できてしまうのは。
しかし攻めると言いつつも、相手にはちゃんと余裕を与えることも考えていた様子。自分勝手ではないようだ。
「その副団長は見たことねえからなんとも言えんが、強い奴が好きなんだろ? 剣術の鍛錬でもつけてもらったらどうだ?」
「!」
「王太子殿下も剣術くらいは習うだろ?」
「無論幼い頃から。……レリエラ嬢に教わったことはなかったな」
「しっかり鍛錬つけてもらって強くなる男をアピールしつつ、普段や社交会でさりげなく攻めてけ」
「さりげない攻め……」
遊びとはまた違う方法だ。逃がせない恋を掴み取るとは難しい。
(ギルヴァ殿の教えはすべて事情を一切加味していない、あくまでただレリエラ嬢を振り向かせるための方法だ)
王太子としての事情はギルヴァも深く理解している身だ。それでもそんなアドバイスが出てくるということは、ギルヴァの経験によるのかもしれない。
どんな人が相手だったのかは知らないが、不敵で横柄なギルヴァが愛した人ならば相当に惚れこんでいたのだろう。
気分は悪いままだがなんとか堪えて身を起こしたライネルは、座るギルヴァに向けて身を乗り出した。
「経験を踏まえ、ご教授願いたい」
「おい王太子……」
「なんとか! 俺は彼女に向き合い、叶うならば末永く笑い合えるように在りたいし、恋もしてみたい」
ギルヴァの眉がぴくりと動いた。そしてなにかを考えるように天井を仰ぐと、ふぅっと大きく息を吐く。
その姿勢のまま、ぼそりとこぼされた音が聞こえた。
「……昔、弟に似たような相談をされた。初恋を経験して、振り向いてもらいたいって」
「……どういうアドバイスを?」
「今言ったのを同じこと」
「……結果は?」
「実った。バレたら周りが煩くなったがな」
想像できて苦笑いが浮かんだ。しかし、ふと思う。
ギルヴァに同じ相談をしたという弟。自分も本来は同じ立場だったが、今は「兄」になっている。
兄弟というものは分からない。幼い同士ならばどういう遊びをするのだろう。成長するにつれどういう話をするものなのだろう。
兄のことは口にしない。母も父も悲しむだろうし、幼かった兄を知る者は多いわけではない。
(俺は、兄だ……)
グレイシアが産まれて、そうなった。
もう一つあったはずのものは、産まれたときに消え去った。
――どうしてだろう。口許が緩んでしまうのは。
「頼む兄上! 俺を助けてくれ!」
「誰が兄だ。てめえみたいな成人済みのめんどくさそうな弟なんざごめんだ」
「そこをなんとか! 俺より遥かに年も上だ!」
「生きてる誰よりも上だわ! いい度胸だなおい。そうふざける余裕があるなら今夜の訓練続行だ」
それは勘弁したい。にやりと意地悪く笑うギルヴァがいるのに、どうしてだろうか。笑ってしまうのは。
――もう、誰にも言えない唯一の言葉。
――だけど今、兄が弟に勉強を教えるように、知らないことを教えてくれる人がいる。厳いけれど、世間話にも応じてくれるような、国を恨んでいてもおかしくない、本当なら関わることのなかった人。
誰にも言えない。
誰も知らないからこそ、言える言葉。
どうしてだろう。――泣きそうなほど、笑いたくなるのは。




