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オールトの宇宙  作者: ぬっさん
第一章 オールトの欠片
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第2話 観測何から?

2030年5月21日 相模原キャンパス

 2030年6月5日、相模原キャンパスでは「第一次オールトの雲観測準備等会議」が行われることになっていた。

 会議まで、残すところ二週間。


 キャンパス内は慌ただしい空気に包まれていた。会議で使用する資料の作成、これまで蓄積されてきた研究データの整理と処理、観測機器の確認など、やるべきことは山積みになっている。


 研究員たちはそれぞれの仕事に追われ、研究室のあちこちでキーボードを叩く音や、資料について話し合う声が飛び交っていた。


 しかし、そんな状況にもかかわらず


「ついにオールトの雲を本格的に観測できるんだ!」


 伊勢は、相変わらず嬉しそうだった。


 今回のプロジェクトにおける伊勢の役目は、宇宙望遠鏡などを用いたオールトの雲の観測研究を中心に、若い研究員たちの統率や研究方針の取りまとめを行うことだった。


 責任は決して軽くない。


 だが、本人はその重責すら楽しんでいるようだった。


 ただし。


 肝心の仕事が進んでいるのかといえば、そうでもなかった。


「……まあ、二割くらいは終わってるし」


 伊勢はパソコンの画面を眺めながら、苦笑いを浮かべた。


 厳密に言えば、全体の二割ほどは完成している。


 問題は、残りの八割だった。


 そこから先は、ほとんど進んでいない。


 いや進んでいないどころか、本人の感覚では一ミリほどしか進んでいなかった。


「これ、間に合うのかな……」


 そう呟いた直後だった。


 机の上に置かれていた端末が鳴った。


「ん?」


 表示された名前を見て、伊勢は少しだけ目を見開いた。


川村惇。


 伊勢の旧友であり、現在は【JAXA・第一宇宙技術部門に所属している人物だった。


 【伊勢とは学生時代からの付き合いで、大学院の研究室が同じであり、JAXAに入ってからは地球観測用人工衛星の管理を行っていた。】


 伊勢は電話に出た。


「もしもし?」


『よう、伊勢。久しぶりだな』


「川村か。どうしたんだ?」


『どうしたも何もない。お前の同僚から頼まれたんだよ』


「同僚から?」


『ああ。「伊勢がちゃんと仕事をするように話してくれ」ってな』


「……」


 伊勢は黙った。


 どうやら、周囲にも自分の仕事の進み具合は把握されていたらしい。


『お前、オールトの雲を一刻も早く見たいんだろ?』


「もちろん!」


『だったら、その前に自分の目の前を見ろ』


「……目の前?」


『そうだ。目の前の仕事を片付けろ。そうすれば、オールトの雲を少しでも早く見つけるための方法が見えてくる』


 川村の声は、電話越しでも妙に落ち着いていた。


『遠くばかり見てたら、足元にあるものを見落とすぞ』


「……」


 伊勢はしばらく黙り込んだ。


 そして――


「なるほどな」


 小さく笑った。


「川村、お前に言われるとは思わなかったよ」


『俺だって言いたくて言ってるわけじゃない。お前の同僚に頼まれたからな』


「それでも助かったよ」


『なら、さっさと仕事しろ』


「了解!」


 通話が切れた。


 伊勢はしばらくスマートフォンを見つめていた。


 先ほどまでの浮ついた喜びとは、少し違う感情が胸の中に湧き上がっていた。


 使命感。


 自分は、本当にオールトの雲を見たい。


 ならば、そのために今できることをやらなければならない。


「……よし」


 伊勢は椅子に座り直した。


「まずは目の前からだ」


 翌日から、伊勢の仕事ぶりは明らかに変わった。


 簡単な資料の作成やデータの整理などは後輩たちに任せ、自分は会議の中心となる資料の作成と、必要な研究データの収集・分析に集中した。


 それまで散らばっていたデータを一つずつ確認し、過去の観測結果と照らし合わせていく。


 時間は瞬く間に過ぎていった。


 気がつけば、会議まで残り五日。


「……七割」


 伊勢は進捗状況を確認した。


「いや、八割くらいか」


 後輩たちが手伝ってくれた分まで含めれば、完成度はほぼ十割に近づいていた。


 ようやく、終わりが見えてきた。


 しかし、そのときだった。


「……ん?」


 伊勢の手が止まった。


 画面に表示されていた一枚の資料。


 それは、現在から遥か昔20世紀に提唱された、ある天文学者の予想図だった。


 ヤン・オールト。


 オールトの雲という名前の由来にもなった、オランダ出身の天文学者。


 その資料には、太陽系を遥か遠方から取り囲むように存在すると予想された天体群の分布が描かれていた。


 伊勢は、その図から目を離せなかった。


「……これが、オールトの予想した雲……」


 それは、現在の研究者たちが観測しようとしているものの原点だった。


 そして伊勢は、ふとあることに気がついた。


「待てよ……」


 画面を拡大する。


 さらに拡大する。


 そこに描かれているのは、単なる過去の予想図ではない。


 この古い予想図が、別の意味を持ち始めているように伊勢には思えた。


「……もしかして」


 伊勢は、再びデータを開いた。


 会議まで、あと五日。


 オールトの雲を巡る研究は、まだ始まったばかりだった。

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