眼前の壁(十八)
友香里の表情は『何もしていません』だ。いやバレてるって。
何もしていないのだとしたら今、手で丸めているビニール袋には、『何が入っていたのか』を問うてみたい。
「勝手に人のパンツを見るなよぉ。しょうがねぇなぁ」
「そんな所に置いておくのがいけないんだろー」
言い返されると思っていなかった雄大は驚くばかりだ。そもそも箪笥に下着を入れて『何処が悪い』と言うのか。当然だろうに。
それとも『出しっぱなしの方が良かった』と言うのか?
まさか友香里に聞いてみる訳にもいかぬ。面白がって、更に色々と言って来るだけだ。あの表情を見れば明らかではないか。
表情一つ変えないくせに、その裏では『何を言われるのか』と待ち構えているのだ。絶対『自分は悪くない』との『強い信念』が、にじみ出ている。全く。どういう神経をしているのやら。
「意味判らん」「フフンッ」「たく。今度……」「なぁにぃ?」
ほら。言い掛けの言葉にさえ、食い付いて来たではないか。
友香里だって当然『冗談だ』と判っているのだ。強く言って見ただけ。雄大が『冗談の判る奴か』を試したに決まっている。いや違うな。『判る奴に成長したか』だ。冗談じゃない。
幾ら友香里が『笑い出しそうな顔』に変ったとしても、雄大は油断せず気を引き締めた。仕返しに『友香里の引き出しだって、勝手に開けるからな』と言うことは出来ない。
言ってしまったら、決して『冗談』では済まされないから。
「何でもないよっ!」「フッ。何だぁ」
何が正解だなんて判らん。結局友香里はその表情のまま、いや『正論』に満足したのか、少々得意気に雄大の目の前を通り抜けた。
そのまま帰るのかと思いきや、立ち止まったのは台所の前。
「お帰りはもうちょい右ですよぉ」「コーヒー淹れてよ」
友香里を無視するつもりはない。友香里だって、明日が受験日だと判っているしはずだし、だから目覚まし時計を持って来てくれたのだ。それを何処かに設置し終えたのだから、もう帰るかと。
雄大は部屋を見回して『目覚まし時計がありそうな場所』を探していた。友香里の奴、上手く隠しやがったようで、何処にあるのかさっぱり判らないではないか。回収計画は早くも頓挫だ。
「ねぇ、コーヒー淹れてよぉ」「眠れなくなるだろうがぁ」
一般論を言ってみた。明日に備えて十分な睡眠を採る。それは受験生にはとても大切なこと。まぁ、呑気な歌手には判らんだろうが。
「私が飲むんだよ」「はぁ? 何だよそれ。じゃぁ知らねぇ」
何と言う自己中心的な考え。雄大の顔には苦笑いも無い。
「だったら、一緒に飲んでやっても良いぞ?」
「だから試験の前日に、そんな興奮するようなものを飲んだらなぁ」
「どうせ興奮して、眠れないんでしょぉ?」
今日『友香里が言うこと』が、何故か『全て正しい』と思える。
雄大は否定したい。しかし心の何処かで『助けが欲しい』と思う自分が許せない。雄大をピアニストにするために、周りの人が『どれだけ尽力してくれているか』を知っている。試験の前日に、こんなに『のんびりしていて良いか』なんて、聞くまでも無い。
「まぁ、そうなんだけどさぁ」「おねーちゃんが受験した時はねー」
実際雄大は、受験に対しては『絶対の自信』を持っていた。
もちろん受かるつもり。卒業もする。しかし大学卒なんて『箔』に過ぎないのも承知済。目指すは誰もがひれ伏す『トッププロ』だ。
雄大はコーヒーの準備を始めた。友香里の話を参考とするために。