空回り(二十三)
明け方早く、友香里は飛び起きた。
その日は『少し遠い所で営業』があったからなのだが、早起きした理由はそれだけではない。
「よくある名前だよねぇ」
友香里は呟く。『増田雄大』という名前、『友香里の知っている人物』は一人だ。しかし世の中には、きっとよくある名前である。
もし『同姓同名の別人』だとしたら、第一印象は相当悪くなってしまうに違いない。既に悪いかもしれないが。
それでも友香里は、軽率なことをしたと反省していた。
大きな溜息を吐くと口をヘの字に結び、雑巾に水をしみ込ませる。
何となく牛乳の匂いがする。それでも我慢して硬く絞ると、サンダルを引っ掛けて二〇三号室へ向かった。
まだ朝の四時を回った所だ。
こんな時間に起きているのは、『昨日の夕刊』を配ってしまった新聞屋さんと、油揚げの中に『スライスした豆腐』を入れなければいけない豆腐屋さんと、『メロンパン』を焼くパン屋さんと。
それに、こっそりドアを掃除する売れない歌手位なものだろう。
友香里はそう思って、静かに微笑む。朝はまだ早い。
ふと朝食は、焼きたてのメロンパンと、いつもの保証牛乳にしようと思い、目が垂れた笑顔になる。
友香里のお気に入りである保証牛乳。どこのブランドなのかは知らない。ただ、牛乳キャップに大きく描かれた『保証』のマークが気に入っていた。
それが一体、何を保証しているのか。
友香里にはよく判らないが、これを飲めば『未来が保証される』と解釈している。随分と都合の良い話ではあるのだが。
いや多分、牛乳の品質を『保証』しているのであろう。薄々は判っていた。友香里だってそこまで間抜けではない。
しかし友香里に今必要なのは『輝ける未来』への希望なのだ。
友香里は二〇三号室の前に来ると立ち止まる。そこにはベットリと流れ落ちた、レモン味のアイスがあった。
「アイスって溶けると、こうなるんだ」
友香里は初めて見る光景に、しばし感慨にふけっていた。
しかしそんな暇はない。頭の中で朝のスケジュールが動き始める。
友香里は雑巾を広げると『増田雄大』の名前を観察し、ネームプレートが割れていないことを祈る。
無事だ。良かった。弁償も覚悟していただけに安堵する。
友香里が『牛乳の香り』がする雑巾で、『増田雄大』と書かれたネームプレートを拭こうとした時、それは少し右に曲がりながら近付いて来た。
まるでドアが、芳しい牛乳の香りに誘われて、優雅な朝の散歩へ出掛けるかに見える。なんて素敵なドアなんでしょう。さぁ、手を取り一緒に出かけましょう!
ドアは友香里に気が付いたのか、友香里の手を取った。そして親しげに、更に近付いて来る。
友香里は笑顔でそれを受け止め様としたのだが『ドアの愛』は思ったより重たくて、友香里には支えきれなかった。
「あっ、ごめんなさい」
ドアから謝られた気がした。なんて優しいドア。
友香里はなぜか『牛乳の香り』に包まれていて視界が暗い。
木漏れ日がキラリと友香里を照らすはずだった。しかしそれは、ドアに遮られ、押し出されもして手摺にもたれ掛かる。
雄大はコンビニに朝飯を買いに行こうとして、ちょっとドアを開けただけだった。
アパート暮らし二日目にしてクラッシュ。しまったと思う。
顔を出してヒョイと覗いて見ると、しかも相手は『因縁深い隣人』ではないか。小さく『ヤヴェ』と発音してみた。
こんな朝早くから、雑巾を顔に載せて何をしているのか。
それはきっと掃除だろう。しかし、顔の掃除ではないだろう。
雄大は手摺を見た。綺麗に掃除されている。廊下も階段も綺麗に掃除されている。
雄大はその一瞬の間に、自分が何をしてしまったのか悟る。それ位の観察力と推理力は、雄大にとって極普通のことだ。
そして隣人を、心の底から見直した。