空回り(二十二)
二〇三号室の雄大は、赤い鉛筆を見ただけで削ることもなく、電話の横に放り投げていた。
その時雄大は、確かに『友香里を舐めていた』ことを後に告白する。それは彼が『いささか世間知らずのボンボンだった』ということだけでは、説明が付かないだろう。
雄大はその時もその後も、この赤い鉛筆を使うことはなかった。
アパートに引っ越した初日は、既に十六時間が経過している。
雄大は一日八時間、ピアノに向かうと決めていたのだ。それが友香里の邪魔にあって、もう余裕がない。
雄大は師匠斉藤の『鋭い目』を、忘れてはいなかった。
これから受験までを『ピアノ漬け』で暮らす。その決意で、家族と別れて住むことにしたのだ。
雄大は、ピアノの蓋を開けた。
ピアノの蓋を開けたとき、先ずすることがある。それは挨拶だ。
「AKIKOさん、よろしくお願いします」
別に雄大が『変態』という訳ではない。
このピアノは斉藤の妻、亜希子が嫁入り道具に持参したもので、斉藤が愛する妻の名前をピアノに命名しただけだ。
斉藤がピアノに挨拶する所を、雄大は見たことがない。
しかし、今は亡き亜希子夫人に敬意を込める意味で、雄大は小さく、とても小さく呟く。
雄大自身も『ピアノに声を掛ける』なんて、とても恥かしいことだと思っていたからだ。
蓋を開けたら次にすること。それは全音チェック。
斉藤に従事していた時は、斉藤自らが行っていた。
一日一回行えば良い。もしそこで『不調な音』があったら、その音を使わない曲を探す。
斉藤は自分で調律をしていたが、雄大にそこまでする腕はない。
今日はオーバーホールをしたので、ハンマーの位置、ペダルの踏み込み具合、鍵盤の戻り具合等、キリッと締まって良い感じである。
しかし、雄大は不満だった。
それはこのピアノが、斉藤のピアノなのに、別人がオーバーホールをしたからだ。
医者の嫁を、別の医者が診る様なものだ。
仕方がない話ではあるが、それはもう気にしてはいられない。
雄大はピアノを弾きながら、今度はいつ『ヘソを曲げるか』と、ヒヤヒヤしている。
このピアノは『弾く人』を選ぶのだ。
舐められたらどうなるか。その曲の『肝心な音』が、出なくなってしまうのだ。まるで『間抜けな演奏』になってしまう。
だから、密かにこのピアノは『生きている』と思い、大切にもする訳である。挨拶だけで済むなら気楽なものだ。
きちんと掃除をしなければならないし、たまにはお供えや、お花も飾ったりしてあげないと。
もちろん何より、心を込めて『丁寧に』弾かないと。
時計が二十三時五十九分を回った所で、雄大は曲のペースを猛烈にアップさせる。そして秒針が真上を指した時、雄大はフィニッシュポーズも短く決め、トイレに駆け込んだ。
弾き始めた曲を『途中で止める』ことなど、斉藤の教えにはない。
雄大の長い一日は、トイレの中で終わった。
夜空にきらめく星を結んで『ピアノの形』に出来るとしても、トイレの窓から眺める夜空では少し足りない。
雄大は大きくあくびをする。今日は泥の様に眠りたい。
一方、隣の部屋では友香里が詩を一つ完成させて、気分良く眠りについていた。
今日は何だか長い一日だった。
それでいて『あっという間』だった気もする。
目を閉じると、巨大なステージに現れた自分を思い浮かべる。
するとテンポ良く曲がスタートし、大勢の観客が歓声をあげて踊り出す。
友香里は微笑んで、そのまま『夢の続き』を楽しむことにした。




