空回り(二十)
時として人は、目の前にある現実から目を背け、勝手に空想の世界へと逃げ込む。『これは夢だ』と、人の頬っぺたをつねるあれだ。
この時増田は余りの恐怖により、いつもの現実逃避をしていたに過ぎなかった。実際には二〇四号室の前、廊下の行き止まりに追い詰められていただけなのに。
しかし折角現実逃避をしても、追い込まれてしまうとは。
追い込まれただけではない。一片の『優しさ』をも有していた。
足元の植木鉢を蹴っ飛ばさない様、下を見たその時、友香里の放った追撃のアイスが増田の口を捉える。
「んぐっ」
衝撃で少し鼻に入ったが、明らかにレモン味だと判った。
「やーい、変な顔!」
友香里は言い返してスッキリしたのか、満面の笑みだ。
足元の植木鉢を自分で揺らしておきながら、そのまま放置して立ち去る辺り、どんだけ『変な顔』に拘っていたのかが判る。
増田は『もう変な顔と言うまい』と思う。少なくとも『こいつ』には。例えそれが『真実』であったとしてもだ。
手で顔に付いたアイスを拭き取って舐める。
確かに、甘酸っぱいレモンの味がした。
もう友香里が攻撃して来そうになかったので、増田は自分の部屋に向かう。
友香里もそれを妨害しようとはしない。一歩下がって道を譲る。
「間接キスなんかしちゃったぜ」
増田はすれ違いざまに言った。友香里は増田を指さすと「ケケケ」と、まるで他人事の様に笑い飛ばす。
友香里はご機嫌だった。『嫌味が通じない』と思っているのだろう。増田の顔は渋いままだ。
そのまま二〇四号室の前を通り過ぎた所で、友香里が追い打ちの『ベー』すると、無視を決め込んで前を向く。
友香里もそのまま増田の後姿を追って、自分の部屋へと戻る。
増田は作ってもらった『ネームプレート』を袋から出していた。
友香里は少し変形したアイスを左手に持ち替えると、スカートで右手を拭いて鍵を開ける。
二人はほぼ同時に、増田も鍵を開けた様だ。友香里は右手でノブを持って左を向くと、増田と目が合う。
「勝負、忘れるなっ!」
友香里は左手に持った『食べ掛けのアイス』を増田の方に向ける。
増田は薄笑いだ。本来ならそれは『鉛筆であるべきだ』と思う。
友香里を睨み返したが、薄笑いで『自信』だけを覗かせる。一言も発することもなく、ドアを開けると先に部屋へと消えた。
その様子を笑顔で見ていた友香里だったが、二〇三号室の扉に張られたネームプレートを見て笑顔が消える。
そこには忘れもしない名前、『増田雄大』と書かれていたからだ。
友香里は二〇四号室のドアを開けっ放しにしてツカツカと歩くと、二〇三号室の扉の前に立つ。歯を食いしばり、左手に持ったアイスをポンと投げると、右手に持ち替えた。
そして、拳銃を回すように手の平でクルリと逆手に持つ。
『ドンッ』
右手を真っ直ぐ後ろに引くと、躊躇なくアイスをネームプレート目掛けてぶち込んだ。鈍い音がして、友香里の髪が左回りに揺れる。
アイスのコーンにとって、その日は厄日だったに違いない。かつてないパワーで握り締められ、そして何か硬い物にもぶつかった。
進行方向、横方向、あらゆる角度から力を加えられては、最早『原型』を留めてはいない。
雄大は『勝負用の鉛筆』を、電話の横に放り投げていた。
そこにあるのはメモ帳、正しくは『広告の裏』である。まるで『そこが相応しい』とでも、思っているのだろう。
その時、後ろで扉を叩く音が聞こえて足が止まる。
ノックなら二回鳴る筈だ。しかし、鳥が当たった様にそれは一度だけだった。ならば用はない。
もう、ピアノを弾く邪魔はして欲しくない。うんざりだ。
「Es、いや四分の一低い」
小さく呟いてピアノに向かう。絶対音感の持ち主は、あらゆる音を『正しく評価してしまう癖』がある。しかし増田は、そんな癖を理解して『共感してくれる人』なんかを、別に求めてはいない。
友香里は『子供の様なことをした』と思っていたが、真っ直ぐに前だけを見ていた。
正しいことをした。正義を貫いたとさえ思っている。思おうとしている。思うことにした。
それに、二〇三号室の扉に叩き付けたアイスを、別に惜しいとも思わなかったし、垂れていく先を追おうともしなかった。
久し振りに『誰かと食べた』アイスなのに。その最後がコレか。
それでもあの野郎に『悪い』なんて思わない。
友香里の右手は、再びアイスの味がしたに違いない。
ドアノブも同じ味になった。
電気のスイッチも、右目の下も、靴のかかとも、洗面所の扉も、ちょっと触ったタオルも、左耳も、その後ろの髪も、みんな甘酸っぱいレモンの味になった。
最後にレモン味となったのは、水道の蛇口だった。
友香里は手を洗い、両手で水をすくうと蛇口に掛ける。そして手を振りながらタオルを見ると、そこからレモンの香りがした。
反射的にスカートで手を拭くと、洗ったはずの手から、またレモンの香りがする。
友香里は奇声をあげた。




