空回り(十九)
酷い暑さで、マンションも街路樹も、遠くにある送電線までもが緩やかに波打つ。
暑さの余り、誰も歩いていない住宅街を、二人は奇声を上げながら笑顔で走り抜けて行く。
友香里の長い髪が、激しく左右に揺れている。それが路地を曲がって見えなくなった。
アパートに二人分の『カンカン』という音と、けたたましい叫び声が響く。その物音に、いつもより五割り増しのギャラリーが外に出て、鉄の階段を眺めていた。
一人は我らが共鳴館のアイドル。白い太ももが艶めかしい。
もう一人は一段飛びで先に行ってしまったが、知らねェ野郎だ。
友香里が階段を通り過ぎると、ギャラリー全員が部屋へと消える。
増田は廊下を走って、自分の部屋である二〇三号室まで来たが、鍵が掛かっていた。迂闊だ。
何しろ直ぐ後ろには、凶暴なアイドル『友香里ザウルス』が、アイスを突き出して迫っている。増田は絶対絶命だ。
焦ると左手の薬指が震える癖が増田にはあった。だから右手で鍵を探していたのだが、それはいつまでも見つからない。
「とりゃっ!」
友香里は左手のアイスを右手に持ち替えると、増田を目掛けて突き出す。
増田はドアノブから手を離して一歩後ろへ飛ぶと、右手で手すりを強く叩きつけてピョンと飛び乗る。
そしてそのまま長身を生かし、屋根の雨樋に左手を掛けると、左足を真っ直ぐ百八十度にまで開き、その勢いも加えながら右足一本で手すりを蹴った。増田の体が屋根を目指して躍動する。
「待てっ!」
友香里も負けてはいない。右足で廊下を蹴って左に飛ぶ。その勢いのまま左足で二〇三号室の扉を蹴ると、手すりの上に飛び乗る。
咄嗟の判断からの、一瞬の出来事。このまま増田を、みすみす逃がす訳には行かない。どこまでも追い掛けるのみ。
手すりの上に乗った友香里は、躊躇なくクルリと反転し、二〇二号室の前にある柱に向かって走る。
その時増田は、左足を屋根に掛け体を引き寄せると、体を捻り右手で屋根のトタンを叩いた。バン! という音がする。
増田は太陽を背にして、熱い屋根に着地した。
柱を蹴る音がして、友香里の右手が屋根に付くのが見える。
そして次に、右足を伸ばし左足を曲げた友香里が、逆さまになって現れた。長い髪が勢いで、真っ直ぐな棒にも見えるではないか。
左手は、もちろんスカートを押さえながら。
増田は左手と左足を前に出し、バランスを前後均等に掛けて戦闘態勢を取った。その目の前で友香里は、見えない様にクルリと回って屋根に着地する。
右足を後ろに引き、左足を前に出して膝を曲げるとポーズを取った。そして右手を真っ直ぐ横に伸ばす。
増田は『何かが足りない』と感じていた。それが何か。
「もう逃げ場はないぜ」
低い声で友香里は言い、口元を横に引く。友香里の八重歯が、太陽に反射してキラリと光る。増田は思わず目を細めた。
それと同時に、アイスが上から落ちてきて、友香里が伸ばした右手にすっぽりと納まったではないか。アイスも太陽の光を反射して、増田を照らす。
増田は足りなかった物が『何か』を、一瞬で理解する。
『やはり。しかし上からとは』
太陽を背にした増田の方が『戦術上有利』なはずだ。
それでも頭に血が登った友香里には、そうたいした問題ではなさそうだ。
それに、何をそんなに『眩しそう』にしているのか。
きらめく『何か』に戸惑っているのは、どちらかと言うと増田の方である。
「来る!」
短く呟いて、増田は身構えた。




