亡命
馬車が断続的に揺れている。
石畳を叩く車輪の規則的な振動だけが、辛うじて今の私を現実という場所へ繋ぎ止めていた。
窓の外は深い夜。
低く垂れ込めた雲から、絶え間なく雨が降り注いでいるらしい。
分厚い硝子を叩くその水音が、今の私にはどこか別の世界の出来事のように妙に遠く響いていた。
私は膝を抱えたまま、膝の上で組んだ自分の指先をぼんやりと見つめる。
白い。
あまりにも、生気を感じさせないほどに。
あの夜以降、私の身体からは色彩が抜け落ちていた。
艶やかだった髪は透き通るような白銀へ、肌は凍てつく雪のような白へと変わり始めていた。
まるで、人間としての輪郭そのものが少しずつ削れてこの世界から消えかかっているみたいに。
そして、瞳だけは血のように真っ赤に染まっていた。
───寒い。
ふとそんな思考が脳裏をよぎる。
けれど、実際には外気が冷たいわけではない。
私の内側から溢れ出す魔力が無意識のうちに周囲の熱を執拗に奪い取っているだけだ。
足元の床には、不気味なほど美しい幾何学模様の霜が広がっている。
御者台の方からは、異様な冷気を感じ取った馬が怯えたような高い鼻息を漏らすのが聞こえた。
「……一度、馬車を止めましょうか」
向かいの座席に座るルーカス先生が、感情を読み取らせない声で静かに言った。
私は小さく首を振る。
「大丈夫ですわ。このまま進んでください」
それは、自分でも驚くほど乾いた嘘だった。
全然、大丈夫なんてことはない。
あの夜から一分一秒たりとも深く眠れてなどいないのだ。
重い瞼を閉じるたび、網膜に焼き付いた光景が鮮明に蘇る。
崩壊していく時計塔。
自分の内側から溢れた冷気に飲み込まれ、白く凍りついていく廊下。
鋭い音を立てて割れる窓硝子と、逃げ惑う生徒たちの恐怖に染まった悲鳴。
───そして。
『レティ!!』
最後に鼓膜を震わせた、あの人の絶叫。
胸の奥が物理的な痛みを伴って激しく軋んだ。
その感情の揺らぎに呼応した瞬間、馬車の窓硝子を一筋の白い霜が鋭く走った。
「っ……」
私は慌てて呼吸を整え、息を止める。
駄目だ。
思い出すだけで制御を失った魔力が外へ出ようと暴れ出してしまう。
「レティシア」
ルーカスの声はどこまでも平坦で静かだった。
私の醜態を責めることもなければ、安っぽい言葉で慰めることもしない。
ただ、昏い眼差しでじっとこちらを見ている。
それだけのことなのに、不思議と喉のつかえが取れて少しだけ呼吸が楽になるのを感じた。
「追手はまだ、十分な距離があります」
「……そう。王都の方は、どうなっているかしら」
「混乱の極みにあるようです。無理もありませんが」
私は静かに目を伏せた。
混乱。
当然だ。
由緒あるアカデミーの半壊。
史上例を見ない災厄級の魔力暴走。
そして、その当事者である公爵令嬢レティシア・トムソン・イーデンの失踪。
きっと今頃、王都の至る所では私の名前が底知れぬ恐怖や憎悪と共に囁かれているはずだ。
『あの怪物め』
『王国の平和を脅かす災厄だ』
『第一王子を狂わせた、稀代の悪女』
そんな呪詛のような言葉が、容易に想像できた。
───それでいい。
むしろ、そうでなければ。
怪物として忌むべき存在として定義されなければ、フレデリックはどこまでも私を追い続けてしまう。
私は自分の指先を、痛いほど強く握り締めた。
爪が手のひらに食い込む。
けれど、返ってくる感覚はひどく鈍い。
まるで、自分自身の身体が自分とは無関係な異物に成り代わってしまったかのようだった。
不意に、馬車が大きく傾くように揺れた。
外で馬が激しく嘶き、御者が必死に手綱を引く音が聞こえる。
「……追手ですか」
「ええ」
ルーカスは表情を変えず淡々と窓の外の闇を見やった。
「王宮の騎士団でしょう。動きが早い」
「……殿下、かしら」
「おそらくは。まぁ、撒きますが」
その言葉を聞いた瞬間、心臓を直接握りつぶされたような衝撃が走る。
胸が痛い。
苦しい。
本当は、今すぐにでもあの温かな腕の中へ帰りたい。
───けれど、決して会ってはいけない。
感情が激しく揺れた瞬間、馬車内の温度が急激に氷点下へと叩き落とされた。
壁に掛かっていたランタンの火が凍りつくようにして消える。
完全な暗闇。
私は耐えきれず、咄嗟に口元を両手で押さえた。
「……っ、ぁ……、はっ……」
冷気が肺を焼き、うまく呼吸ができない。
魔力が私という器を内側から食い破ろうと猛り狂っている。
その時。
冷たく、けれど確かな重みを持った手がそっと私の額へ触れた。
暗闇の中でも迷いなく差し伸べられた、ルーカスの手だった。
「呼吸を整えて」
耳元で、低い声が響く。
それは慰めではなく、明確で静かな命令だった。
「吸って。吐いて。自分を保ちなさい」
私は震える肩を抑えながら、彼の声に従ってゆっくりと絞り出すように息を吐く。
すると、身体の奥で暴れていた魔力の拍動が少しずつ、凪ぐように静まっていった。
この深い暗闇の中ルーカスだけが、まるで最初からこの結末を知っていたかのように冷静だった。
「……ルーカス」
「はい」
「私、本当に……あちら側の世界には、もう戻れなくなってしまったのですね」
短い沈黙。
降りしきる雨音だけが、馬車の屋根を叩き続けている。
やがてルーカスは冷徹なまでに静かに答えた。
「ええ。もう戻れません」
そこには一切の否定もなかった。
甘い希望も、一欠片の気休めもなかった。
ただ、残酷なほど穏やかで絶対的な肯定だけが夜の馬車の中に重く落ちた。
私はそっと目を閉じる。
相変わらず眠ることはできない。
けれど、今の私には泣くことすら許されないのだ。
馬車は深い闇の中を、なおも走り続ける。
思い出が詰まった王都から。
多くの時間を過ごしたアカデミーから。
そして、私を愛してくれたフレデリックから。
私という“日常”が存在したすべての場所から逃げるように、遠ざかるように。




