零れ落ちる魔力
最近、時折ひどい頭痛に襲われるようになった。
それはズキズキと脈打つような分かりやすい痛みではない。
もっと鈍く重く、頭の芯へ冷たい鉛を直接流し込まれるような。
逃げ場のない不快な感覚。
視界の端が時折ちりちりと燃えるように歪み、思考の明瞭さを奪っていく。
その日も私は学生会室で山積みの書類へ目を通しながら、密かに眉を寄せて痛みに耐えていた。
羽ペンの先が、羊皮紙の上でわずかに躍る。
「レティ、無理をしていないか?」
机の向かい側からフレデリックが顔を上げた。
書類を置くその所作さえも、絵画のように洗練されている。
「先ほどからペンが止まっている。顔色もいつになく優れないようだ」
「……いいえ。問題ありませんわ。少し、考え事をしていただけです」
微笑みを作ってそう答えた瞬間だった。
ピシ、と硬いものがひび割れるような小さな音が鼓膜を叩いた。
私は目を瞬く。
見れば、机に置かれたティーカップの縁が薄く白く凍りついていた。
冷気さえもが微かに立ち上っている。
「……っ」
慌ててカップから手を離す。
心臓が警鐘を鳴らすように跳ね、指先に残る冷たい感触に血の気が引いた。
霜は春の陽気に当てられ、すぐに溶けて水滴へと変わった。
けれど、確かに。
今、私の制御を離れて魔力が外へと零れ落ちた。
「どうしたんだ、レティ?」
フレデリックが異変に気づき、椅子を蹴るようにして立ち上がる。
彼が私を案じて歩み寄ろうとしたその瞬間、私の身体の中で心臓が激しく暴力的なまでに跳ねた。
近づかれるだけで血流が逆流するような、得体の知れないざわめきが全身を駆け巡る。
「……っ、来ないでくださいませ!」
反射的に、拒絶の叫びが唇から飛び出した。
「……レティ?」
彼が足を止め、困惑と悲しみが混ざり合ったような眼差しを向ける。
私はすぐに視線を逸らし、震える手を机の下に隠した。
「申し訳、ありません。少し……立ちくらみがしただけですわ。驚かせてしまいました」
嘘だった。
本当は、彼が近づいてくるのがこれ以上ないほど苦しい。
彼が慈しみの瞳を向けるたび胸の奥が焼けるように熱くなり、魔力が暴発しそうなほどにざわめく。
まるで身体の内側で、長年信じてきた何かが、音を立てて軋み始めているみたいに。
───……
その夜、私はほとんど眠れなかった。
瞼を閉じるたび、昼間の光景が鮮明に蘇る。
殿下の優しい声。
私を救おうと伸ばされた手。
そして、その手が触れられそうになった瞬間に感じたあの異様なまでの動悸と動揺。
───どうして?
どうしてしまったの、私は。
昔は、こんなことなど一度もなかった。
最近、彼が近づきその甘い香りが鼻を掠めるたびに、身体の奥が過剰に反応して悲鳴を上げる。
熱い。
苦しい。
そして何よりも、怖い。
私は逃げるようにシーツを握り締めた。
するとぱきり、と深夜の静寂の中に乾いた音が響く。
視線を向ければ、ベッド脇に置かれた硝子瓶の表面に美しいけれど不吉な霜がびっしりと張っていた。
「……嘘、でしょう……」
息を呑む。
感情の微かな揺れに反応して、魔力が漏れ出している。
幼少期から厳しく訓練して完璧に制御してきたはずの私の力が、今の私には全く制御できていない。
私は震える指先を自身の肩に回し、自分を抱きしめるように押さえ込んだ。
胸の奥で、得体の知れない黒い不安が音もなく静かに広がっていくのを感じながら。
───……
その翌日、私は逃げるようにして北棟の旧図書室へ向かっていた。
頭痛は昨日よりもさらに酷くなり、視界の端が霞んで平衡感覚さえ怪しい。
重い扉を開けると、いつものようにルーカス先生が本から顔を上げた。
「……随分と、また酷い顔ですね。もはや病人というよりは、呪われた遺物のようです」
「先生まで、そんなことを仰るのね」
力なく返しながら、私は崩れ落ちるように席へ座ろうとした。
その瞬間、ふらりと激しい眩暈が視界を白く塗りつぶした。
「おっと」
倒れそうになった私の腕を、ルーカス先生が自然な動作で支える。
その瞬間。
驚くほど、身体の内側が静まった。
あれほど荒れ狂い今にも暴発しそうだった魔力が、彼の肌に触れた箇所からしっとりと凪いでいく。
私は、信じられない思いで目を見開いた。
「……あら」
「どうしました。やはり医務室へ行くべきでは?」
「いえ……なんでも、ありませんわ」
言葉を濁す。
殿下に触れられそうになると、あんなにも身体が拒絶し苦しかったというのに。
ルーカス先生の冷たくも温かくもないその手は、妙に私の身体を落ち着かせた。
その決定的な“差”が、今の私にはひどく怖かった。
ルーカス先生は手を離し、私の顔を静かに覗き込む。
「最近まともに眠れていないでしょう。目の下に隈が浮いていますよ」
「……少しだけ、眠りが浅いだけですわ」
「あなたの“少し”は、全く信用なりませんね」
いつもの淡々とした、突き放すような声。
けれど今の私には、その飾らない静けさがどんな甘い慰めよりもありがたかった。
私はゆっくりと、重い瞼を伏せる。
胸の奥で何かが少しずつ、けれど確実に壊れ始めている。
後戻りできない場所へ、足を踏み出している。
そんな暗い予感だけが、静寂に包まれた図書室の中で冷たく広がっていた。




