戻れない方へ
夜が明けて、朝になっても私の身体を重たいままだった。
シナリオ通りに進むのなら今日は彼女、エレノアと会うことになるだろう。
アカデミーのメインストリートを歩きながら、私は周囲の視線を扇子で遮る。
このアカデミーのどこかに、ストロベリーブロンドの髪を持つ彼女がいる。
ゲームのシナリオ通りなら今日この場所で。
私は彼女と運命的な、あるいは絶望的な対面を果たすはずだった。
その時、視界の端に見覚えのある人影が映った。
講師として歩く端正な背中。
ルーカス先生だ。
特に意識したわけでもない。
けれど彼は歩調をわずかに緩め、結果として私と同じ速度で歩く形になった。
並んでいるというより、同じ流れに乗ってしまった、という方が近い。
───近い。
触れてはいない。
それでも昨夜の彼の気配が消えない。
「顔色が優れませんね」
視線は前を向いたまま穏やかな声が落ちてくる。
「無理はなさらないことです。新生活は思っている以上に負担になります」
「……問題ありませんわ。ご忠告感謝いたします」
即答する筈だったのにわずかに遅れたのが自分でも分かった。
ルーカス先生のことだ、その事実に気づいただろう。
でも彼は「そうですか」とだけ答え、それ以上は踏み込んでこなかった。
彼はただ、私と歩幅を合わせただけだった。
───その時だった。
「あの……すみません! 落とし物をされましたよ!」
背後から響いたのは、噴水の水しぶきのように澄んだあまりにも澄んだ無垢な声だった。
振り返った瞬間、私の思考は停止した。
陽光を浴びてキラキラと輝くストロベリーブロンドの髪。
春の空を切り取ったような曇りのないアクアマリンの瞳。
そこに立っていたのはまだ制服に着慣れない様子の、けれど圧倒的な光を纏った少女、エレノアだった。
彼女の手には私が落としたのであろう、夫との思い出の刺繍を模して作らせたハンカチが握られている。
「これとっても綺麗な刺繍ですね!大切にされているものだと思って、つい追いかけてしまいました」
エレノアは屈託のない笑みを浮かべ、私にハンカチを差し出した。
眩しいというより、何も濁っていない彼女に、胸の奥がざわついた。
直視できなかった。
彼女の瞳には、私のような前世の未練も何1つ映っていない。
ただ純粋な善意だけがそこにある。
彼女がヒロインとしてフレデリックを始めとする攻略対象達を“浄化”していくのだとしたら、私の居場所は、やはりこの光の届かない泥濘の中にしかないのだ。
「……ありがとう」
彼女の光に呑まれ、気づけば小さく言葉が出ていた。
ほんの一瞬私の仮面が、揺らぐのを感じた。
───いや、ダメだ。
私はラスボス悪役令嬢なのだから。
指先に触れかけたその手を、わずかに止める。
「……拾っていただいたことには、感謝しますわ」
私は冷淡に言い放ち、彼女から視線を外してハンカチを奪い取るように受け取った。
エレノアは一瞬、私の冷たい態度に戸惑ったように瞳を揺らしたが、すぐにまた柔らかな微笑みを浮かべた。
「あの、私はエレノアと申します! 特待生として入学して……もしよろしければ、お名前を──」
「名乗る必要はありません。身分の差を弁えなさい、平民」
私が言い捨てると、周囲の生徒たちがざわめき出した。
アリシアは悲しげに眉を下げたが「失礼いたしました」とだけ言って小さく頭を下げた。
その瞳に嫌悪の色も反発の色もなかった。
ただ少し戸惑っているようだった。
それは私を責めるわけでも拒むわけでもなく、むしろ、私の内側に潜む何かを感じ取ったかのような表情だった。
私は視線を切り、そのまま歩き出した。
そうして背後に残る気配を全て振り払おうとしたのに、足音が一拍遅れて重なる。
「…今のは随分と手厳しいですね」
少し遅れて私の隣に並びそう言うルーカス先生の声は、少し愉しげですらあった。
「当然です。秩序を守るのは貴族の義務ですもの」
前だけを見据えて答える私に「ええ、そうですね」と同意する先生。
彼には何もかも見透かされているような気さえしてくる。
「…先程からずっと私の近くにいらっしゃいますけど、講師が生徒に不用意に近づくものではありませんわ」
牽制のつもりだった。
「失礼しました」
そう言いながらも先生は距離を変えない。
そして一瞬だけ、ほんのわずかに彼の指先が手袋越しに触れる。
意図したのか偶然なのか分からない程のかすかな接触。
「しかし彼女は特待生。…少々強く出すぎたのでは?」
「……そうかしら」
問い返しながらも自分の中の答えは変わらない。
違う、あれは正しい距離だ。
そうでなければならない。
そうでなければ───
だって私はラスボス悪役令嬢なのだから。
「いいえ、先生。やはりあれでよろしいのです」
言い聞かせるように私は答えた。
ルーカス先生はそれ以上何も言わなかった。
ただ、わずかに口元を歪めるだけ。
その意味を問いただす勇気はなかった。
フレデリックの光、夫への追憶、そしてルーカス先生の深淵。
3つの熱に挟まれながら、私は少しずつ傾いていく。
「……そうよ。私は、これでいいの」
握りしめたハンカチの刺繍が、指に食い込む。
ヒロインが世界を救う物語の裏側で。
私はまだ“悪女になりきれていない”ままだ。
でも私は救いようのない悪女として、ここ迷宮を最後まで歩き抜いてみせる。
私は確実に、戻れない方へと歩き出していた。




