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闇の中

テラスを包む夜の闇。

ルーカス先生の腕の中で、私の心臓は冷たい警鐘を鳴らし続けている。


私は、彼の胸を押し返す力を失っていた。

それどころか、無意識のうちに彼の服の裾を掴みその温もりに顔を埋めてしまう。

夫を裏切っているという激しい自責。

そして、フレデリックという光への恐怖。

その両方から逃げるための穴蔵が、今は彼の腕の中しかなかった。




───その時だった。

遠くで、靴音が響いた。

規則正しく、迷いのない足取り。

その歩き方をする人物を、私は1人しか知らない。




───来る。

背筋が、凍る。


「レティ……? そこにいるのか?」

聞き慣れた声が夜気を裂いた。


心臓が口から飛び出しそうなほど跳ね上がる。

フレデリックだ。

公務を終えて私を探しに来たのだろう。


「っ、先生……離して……殿下が……!」

私は今度こそルーカスを突き放そうとした。

けれど、先生は私の腰を抱き寄せる力を強めた。




足音が近づいてくる。

カチリ、カチリと。

殿下の靴が石床を叩く音がやけに大きく響き、まるで死神の足音のように聞こえる。

息をする音すら聞かれてしまいそうだった。


───お願い、気づかないで。

祈るしかない自分がひどく滑稽で。

私は必死にルーカス先生の外套の下へと身を寄せた。

もし今この姿を見られたら、すべてが終わる。

私の“死による救済”という計画が、全てが瓦解してしまう。




───足音が止まる。

ほんの数歩先。

気配が、近すぎる。


───見られる。

そう思った次の瞬間、ふわりとルーカス先生の腕の力が解かれた。

まるで魔法を解くように私を解放した。


「レティ、ここにいたのか。いたのなら返事をしてくれ。こんな時間に外にいると風邪を引くぞ」


彼はいつの間にか何事もなかったかのように私の数歩後ろへ下がっており、優雅な礼をとる。

「……これは、フレデリック殿下。レティシア嬢ならこちらにおいでですよ。新生活に不安を感じていらしたようで私が相談に乗っておりました」


テラスの角から現れたフレデリックは私たち二人の姿を見て、一瞬だけ瞳を細めた。

夜の闇の中でルーカス先生の落ち着き払った態度と、肩を震わせて立ち尽くす私の姿。

彼の鋭い洞察力が何を見抜いたのか。

私は生きた心地がしなかった。


「……そうか。ルーカス殿、レティの家庭教師として君が熱心だったのは重々承知しているが……夜風は体に毒だ。これからは、私が彼女の話し相手になる」

その言葉は穏やかなのに、明確な線引きがあった。


殿下は私の肩に手を置く殿下は私の元へ歩み寄るとごく自然な、それでいて強い独占欲を感じさせる手つきで私の肩を抱いた。

そして自らの豪奢なマントで私を包み込んだ。


「帰ろう、レティ。君の部屋まで送る。…ルーカス殿も夜道には気をつけることだ」

「……仰せのままに、殿下」

背後のルーカス先生の視線が、殿下の腕の中にいる私の背中に突き刺さっている。

まるで、目に見えない鎖を私の足首に繋ぎ直したかのような視線だった。




───……


フレデリックに導かれ、私は重い足取りで回廊を歩き出した。

彼石鹸の清潔な香りが伝わってくる。


「レティ。…あの男にあまり深入りするな。彼は有能だが、その瞳には底知れない深淵がある。君のような純粋な人間が、覗き込んでいい場所ではない」

「…殿下……」


彼の声は優しかった。

けれど、その優しさが今の私には刃となって突き刺さる。

“純粋な人間”?

私の実像とは程遠いその言葉に胸が軋むのを感じた。


「僕が君を守る。だから私だけを見ていてくれ。いいな?」

殿下が私の額に、そっと唇を寄せた。


夫を裏切り、ルーカス先生の影に沈み、そして殿下の光に焼かれる。

自身の心がひび割れていくのを感じる。




───狂ったシナリオは加速していく。

私がラスボスとして、この世界を、そして私自身を焼き尽くすその日まで。

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