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偽りの胸の内

私の心臓は不規則に、そして暴力的なまでに早鐘を打ち鳴らしていた。


───先程のルーカス先生の言葉。

『お嬢様の危うさに気づいておいででしょうか』。

彼の穏やかな、けれど全てを肯定するように柔らかいその響き。

それが耳を抜けた瞬間、私は公爵令嬢“レティシア”であることを一瞬だけ忘れてしまった。


視界の端に、幻影が重なる。

豪華な薔薇が咲き誇る庭園ではない。

狭くて少し油の匂いが染み付いた、あの賃貸アパートの小さなキッチンだ。




まだ新婚の頃。

仕事で疲れ果て足を引きずって帰宅した私。

玄関で靴を脱ぐ気力もなく立ち尽くす私の背中に、温かい蒸気の匂いと共にかけられた声。

『お帰り、お疲れ様。今日も頑張りすぎじゃない?とりあえずこれでも飲みな?』

そう言って笑いながら鍋から掬ったばかりの温かいスープを差し出してくれた、彼。


大きな背中。

包み込むような少し低くて安心する声。

私がどんなにボロボロで不格好な姿をしていても、世界でただ一人、私をそのままでいいと肯定してくれた最愛の夫。




───やめて。

その声で喋らないで、先生。


目の前にいるのは、ルーカス・エディ。

私の夫ではない。

髪の色も、瞳の色も、身分も、住む世界も。

何もかもが違う、別人。


分かっている。

嫌というほど分かっているのに。

私はルーカス先生が微笑むたびに、その所作の端々に、死んでしまった彼の面影を必死に探してしまう。


ルーカス先生は私が彼の中に“誰か”を投影していることにきっと気づいている。

気づいた上で、あえてその役割を演じるように私を優しく包み込んでくれている。

それが彼の献身なのだとしても、私にそれは身を切られるような毒でもあった。




──最低だ、私。


目の前で生きているルーカス先生を、死んだ彼の代わりの器として見ている自分。

そして死んだ夫を差し置いて、その温もりを別の男性の中に求めて安らごうとしている自分。

それは先生に対する侮辱であり、夫に対する醜い裏切りだ。


けれど、それでも。

足元から崩れ落ちてしまいそうなこの“レティシア”という重圧の中で。

私は誰かに「頑張らなくてもいい」と言って欲しかった。


人柱として死ぬことを決めて。

ソフィ様を救うために心を殺して演じ続ける日々。

その限界の淵に立っている時。

ルーカス先生が見せるあの温度はあまりにも魅力的で、抗いがたい。





本当はこの仮面をかなぐり捨てたい。

淑女としての礼儀も、罪悪感も全部捨てて。

子供のように泣きじゃくりながら「疲れた」「もう頑張れない」「本当はずっとあなたの隣にいたかったの」と夫に叫びたい。

あまりにも醜い未練。


アパートへ帰りたい。

あの温かいスープの匂いがする場所へ帰りたい。

叶わぬ逃避。

その逃げ場を、私はルーカス先生という他人の善意の中に無理やり作り出そうとしているのだ。




───私は、弱い。


光と影。

過去と現在。

私は夫への謝罪を心の中で何度も繰り返す。

ごめんなさい、ごめんなさい。

私は決してあなたの代わりを探しているわけじゃないの。


私は早鐘を打つ鼓動を宥めるように、ドレスの胸元をぎゅっと握りしめた。

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