sideルーカス②
「……お嬢様の家庭教師、ですか」
さすがに、一度聞き返さずにはいられなかった。
宰相閣下はどこまでも満足げに頷いている。
どうやら冗談を言っている風ではないらしい。
「そうそう。君にぜひお願いしたくてね」
軽い。
一国の政を司る男とは思えないほど、その物言いは軽やかだった。
だが、事の重さは正反対だ。
イーデン公爵家からの直々の依頼。
それは実質的に私に拒否権など残されていないことを意味していた。
「……宮廷魔術師の方々では、力不足なのですか」
「力不足というか、駄目だったんだ」
「皆、すぐに辞めてしまう」
嫌な予感しかしない。
私は手にしていたティーカップを静かにソーサーへと戻した。
「差し支えなければ、理由を伺っても?」
「レティが優秀すぎて、皆、心が折れるんだよ」
「はあ」
「あと……怖いらしい」
「怖い、ですか」
「うん」
意味が分からない。
十歳そこそこの、愛らしいはずの令嬢に対する評価ではない。
すると宰相閣下はどこか困り果てたような、複雑な笑みを浮かべた。
「あの子はね、放っておくとずっと魔法のことしか考えないんだ」
「熱心なのは、魔術師として美徳では」
「限度というものがあってね」
そこで一度、閣下は言葉を切った。
「……あの子は時々、自分が壊れることに頓着がなさすぎる」
その声音だけが、一段低く響いた。
先ほどまでの能天気な親馬鹿の空気が一瞬で消える。
私は黙ったまま、続きを待った。
「だから、ただ才能があるだけじゃ駄目なんだ。あの子を止められる人間じゃないと」
───止める。
その表現が、妙に喉に引っかかった。
教育というよりは、今にも暴走しかねない危うい何かを管理するような言い草だったからだ。
「……随分と、私を買い被りではありませんか」
「いや。君くらい図太い方が、ちょうどいい」
「褒めていらっしゃいます?」
「褒めてる、褒めてる」
適当な返事だ。
だが、次に続いた言葉が私の魔術師としての好奇心を否応なく刺激した。
「ちなみに、レティは四属性持ちだよ」
思考が、一瞬だけ停止した。
四属性。
それはもう、歴史の教科書に載るような伝承級の存在だ。
希少な属性を二つ持っているだけで国家レベルの囲い込みが始まるこの世界で、四つ。
そんな存在、古びた魔導書の記述の中でしか見たことがない。
「……本当に、おっしゃっているのですか」
「私が君に、そんな嘘をつく意味がないだろう?」
確かにその通りだ。
私は小さく、長い息を吐き出した。
断るべきだ。
面倒そうで厄介そうで、既に破滅の予感すら漂っている。
だが同時に。
どうしようもなく、その深淵に触れてみたいという欲求が湧いてしまった。
四属性を宿した子供。
名だたる教師たちが逃げ出すほどの才能。
そして、自分を壊すことに躊躇いのない歪な天才。
──最悪だ。
関わるべきではない匂いしかしない。
「……分かりました。お引き受けします」
気づけば、そう答えていた。
宰相閣下が今日一番の明るさで嬉しそうに笑う。
「助かるよ!」
閣下は助かるだろうが、私は全然助かった気がしない。
むしろ、人生の大きな分岐点を全力で間違った方向へ踏み出した気しかしなかった。
──そして、その予感は驚くほど正しかったのだ。
実際にレティシアと対面した瞬間。
最初に抱いた感想は「綺麗だ」でも「可愛い」でもなかった。
危うい。
その一言に尽きた。
流れるようなバターブロンドの髪に、吸い込まれそうなペリドットこ瞳。
人形じみた、完璧に整った顔立ち。
だが、彼女を取り巻く空気そのものが異様だった。
静かすぎるのだ。
十歳の子供が持つはずの未熟さや感情の瑞々しい揺らぎが、驚くほどに欠落している。
代わりにそこにあるのは、ひどく鋭利に研ぎ澄まされた緊張感だった。
「よろしくお願いします、ルーカス先生」
完璧な礼。
完璧な笑顔。
どこにも、付け入る隙がない。
だからこそ逆に、こちらまで息苦しくなるような圧迫感を覚えた。
───なるほど。
教師たちが逃げ出す理由が、少し分かった気がする。
その後始まった講義でも、彼女の在り方は異常だった。
魔力制御、術式理解、演算速度。
そのすべてが常軌を逸している。
一度説明したことは呼吸をするように吸収し、次の瞬間には応用まで形にしてみせる。
「……本当に、十一歳ですか」
思わず漏らした一言にも、彼女は曖昧に微笑むだけだった。
「でも先生は、十七歳で留学先の首席だったのでしょう?」
「どこでそんな情報を」
「お父様が、それは誇らしげに語っていらっしゃいましたから」
容易に想像がついてしまい、私はこめかみを押さえた。
「……比較対象がおかしいんですよ、あなたは」
「そうでしょうか」
自覚が薄い。
いや、薄いというよりは興味がないのだ。
己が持つ比類なき才能に対して、彼女は驚くほど執着を持っていなかった。
褒められても喜ばず、成功しても達成感に浸る様子もない。
まるで、ただ「必要だからこなしているだけ」という冷めた顔をする。
それが、どうにも気にかかった。
ある日、私は半分ほど呆れを込めて言った。
「ここまで出来てしまうのなら、以前の教師方が匙を投げたのも頷けます」
すると。
レティシアはふっと視線を落とし静かに、本当に静かに笑った。
「……そう、ですよね」
その声に、温度はなかった。
諦念にも似た、凪いだ海のような響き。
その瞬間。
私の背筋を、嫌な冷気が走った。
この子は、自分の未来を見ていない。
もっと正確に言えば。
“どこかで終わること”を、最初から当然の帰結として受け入れている。
そんな、絶望を通り越した無風の空気が彼女の中に巣食っていた。
だからこそ、私は初めて宰相閣下が言った言葉の真意を理解した。
──放っておくと、勝手に壊れる。
なるほど。
確かにこれは、あまりにも危うい。




