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エピローグ:春

北方にも、ようやく遅い春が訪れる。

古城の石造りの回廊には、雪解けの雫が静かな、けれど確かなリズムを刻んでいた。


長い冬だった。

空を低く覆っていた重い灰色の雲は少しずつ薄れ、凍りついていた庭の隅々にも、ところどころ黒い土の色が見え始めている。

それでも、吹き抜ける風は依然として冷たい。

北方の春とは、冬の厳しい名残をその身に抱いたまま遠慮がちに訪れる季節なのだ。


暖炉の火が穏やかに爆ぜる居間で、私はいつものように窓辺へ腰掛けていた。

白銀の髪。

紅い瞳。

触れればすべてを凍てつかせる呪われた身体。

それらは、今も変わらない。

変わらないはずなのに……昔ほど、その事実に絶望していない自分がいた。


「……また届いていますわ」


机の上には、数通の封書が置かれている。

フレデリックが紅茶を淹れながら、苦笑まじりに肩を竦めた。

「今月は一段と多いな」

「春ですもの。皆、浮き足立っているのよ」

私は小さく笑う。


春になると、どうして人はこれほどまでに筆まめになるのだろう。

ソフィ様は新しく咲いた花の話ばかりだし、エレノアは毎回、便箋の半分を埋めるほど執拗に私の体調を気遣ってくる。

まるで、離れている距離を埋め尽くそうとするかのように言葉を重ねてくるのだ。


私は、その中から一番小さな封筒を手に取った。

丸みのある一生懸命な文字。

ソフィ様からだった。


『レティシアお姉様へ

今年は温室のお花がたくさん咲きました。

白い薔薇がとても綺麗だったので、今度押し花にして送ります。

それから、ちゃんと暖かくしてくださいね。

フレデリック様もです。』


読み終えた瞬間、思わず口元が綻んだ。

「……あの子、まだ私を凍死寸前の病人だと思っているのね」

「半分くらいは事実だろう?」

「失礼ですわ」


穏やかな、他愛のないやり取り。

王都にいた頃の私たちには、到底考えられないほど静かな時間だった。

あの頃、私たちはいつだって目に見えない何かに追い詰められていた。

壊れる恐怖、失う恐怖。

近づきたいと願うほどに募る、近づけないことへの絶望。

かつてのフレデリックは、まるで光そのもののようだった。

真っ直ぐで、眩しくて、そして、あまりにも熱かった。


けれど、今の彼は少し違う。

穏やかになった。

いや、きっと彼は、穏やかになろうとしてくれているのだ。

私を壊さないために。

私という氷を、溶かしきってしまわないために。


私は視線を落とす。

隣には、淡い金色の護符が置かれていた。

エレノアから届いたものだ。

柔らかな光魔法が編み込まれており、指をかざすとほんのりとした温もりが伝わってくる。


『最近は冷気が安定していると聞きました。でも無理はしないでくださいね。北方の春はまだ寒いでしょうから』


その文字をなぞりながら、私は静かに目を伏せた。

遠い。

もう、以前のように簡単には会えない。

王都と北方。

あまりにも隔たった、二つの世界。

それでも……私たちは、確かに繋がっている。


あの日、私は世界から切り離されたのだと思っていた。

誰にも受け入れられず、怪物としてこの地の果てに隔離されるのだと。

けれど、本当にすべてを失ったわけではなかった。

ソフィは今も変わらぬ純粋さで笑いかけてくれる。

エレノアは相変わらず心配してくれている。

そして───フレデリックは、今もここにいる。

私という存在を選び取ったまま。


その時、廊下の向こうでかすかに扉の閉まる音が響いた。

フレデリックがわずかに眉を寄せる。

「……また来ていたのか」


私は視線だけを向けた。

いつの間にか、机の端には新しい術式札が置かれている。

緻密に組まれた魔力制御式。

そしてその隣には、無言で置かれた琥珀色の薬瓶。

思わず、くすりと笑みが漏れた。


「相変わらず、挨拶くらいしていけばいいのに」

「ルーカスですもの。彼にそれを求めるのは酷ですわよ」


今も彼は時折こうして影のように現れる。

発作の兆候があれば術式を鮮やかに書き換え、必要な薬だけを置いて、また音もなく消える。

深入りはしない。

けれど決して、完全には離れない。

それが、彼なりの不器用な距離の取り方だった。


私は時々、不思議に思う。

この人は、一体何を支えにしてここまで通い詰めているのだろうか。

想いが報われるわけでもない。

何かが手に入るわけでもない。

それでも彼は、黙って私をこの世界に繋ぎ止め続けている。

まるで消えかけた小さな灯火を守るように、静かに手を添え続けるみたいに。


窓の外では、屋根から滑り落ちた雪解け水が薄い陽光を反射してキラキラと輝いている。

長い冬は、まだ完全には終わらない。

けれど。

その冬はもう、以前のような孤独なものではなかった。


私は静かに、フレデリックを見つめた。

彼もまた、穏やかな眼差しでこちらを見ていた。


「……フレデリック」

「何だい?」

「少しだけ、こちらへ」


彼が、一瞬だけ息を止めた。

ほんの僅かに、その端正な表情が強張る。

期待と、恐怖。

そして祈るような切実な感情が、その瞳の奥に滲んでいた。

それでも。

彼は迷うことなく、静かに歩み寄った。




一歩。

二歩。

三歩。


いつもの境界線で、彼は足を止める。

私は、椅子からそっと彼の方へ手を伸ばした。


冷気が微かに揺れる。

白銀の光の粒子が、淡く宙を舞った。

昔の私なら、これだけで周囲のすべてを白く凍らせていた。

今でも、完全に制御できているわけではない。

けれど。

少しだけ……本当に少しだけ、私は変わることができた。


指先が、重なる。

ひやりとした感触の向こう側に、フレデリックの確かな体温を感じた。

生きているという、力強い温かさ。


私は、思わず息を呑んだ。

凍らない。

壊れない。


フレデリックもまた、目を見開いていた。

その瞳が、奇跡でも見ているかのように激しく揺れる。

ほんの数秒。

たったそれだけの、短く、儚い接触。

やがて冷気が抵抗し始め、彼が慈しむようにそっと手を離した。




沈黙。

静かな沈黙。

けれど、そこにはかつてのような絶望の色は微塵もなかった。


私は、幸せを噛みしめるように小さく笑う。

「……成功、ですわね」

「……ああ。そうだな」




フレデリックは絞り出すようにそれだけを呟いた。

けれど次の瞬間、感情を堪えきれないように深く目を伏せる。


「……そんな顔をなさらないでくださいな」

「無理だ」

彼は、愛おしそうに静かに笑った。

「君に……触れられたんだぞ」


その声は、泣きそうなほどに優しかった。


私はしばらくの間、何も言えずに彼を見つめていた。

胸の奥が、じわりと柔らかな熱を持っていく。

昔の私なら、この幸福が怖くなって逃げ出していたかもしれない。

けれど今は、少しだけ願うことができる。




───いつか。

本当に、分かち合える日が来るのだろうかと。


窓の外では、春の光がゆっくりと雪を溶かしている。

白銀の箱庭。

閉ざされた冬の世界。

それでも確かに、ここには消えることのない温もりが灯っていた。

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