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第三話  命というもの

 ナースステーションに戻ると、もう夜勤の引継ぎ時間になっていた。今夜の担当は、ベテランの看護師長と新人のでこぼこコンビだ。小柄な新人ちゃんは、何かヘマをやらかしたらしく、看護師長のお小言を喰らっている最中だった。にもかかわらず、彼女は美奈子を見つけると、「あ!」と言って、お小言を遮った。看護師長の目が大きく見開かれる。新人はそのことに全く気付かず、美奈子に駆け寄ってくるとそっと耳打ちした。

「瀬戸さん、さっき彼氏が来ましたよ。紅茶館で待ってるからって」

 ニッと白い歯を見せて、彼女は看護師長の元へ帰って行った。美奈子は唖然として新人の背中を見つめた。看護師長のお小言を遮るなんて、すごい。すごすぎる。小柄だけど、かなりの大物だと思った。

それにしても、彼氏って誰だ? まさか、二年前に別れたアキラくんが来たとか?

 仕事を片付けて廊下に出ると、ちょうど佐藤医師とすれ違った。彼は両腕一杯に難しそうな本を抱えている。

 お先に失礼します、と声をかけると、彼はくるりとロボットのように回れ右をした。そのままつかつかと歩いてくると、いきなり大きめの声で言った。

「在宅医療について、どう思う?」

「へ?」

 美奈子は首をかしげた。まったく何の前触れも無しに、いったい何なのかと、眉をしかめていると、佐藤は言った。

「他の病院じゃ、もう当たり前だけど、ここではまだ訪問看護の準備がないでしょう?」

「はあ、まあそうですけど……」

「松谷さんを、自宅に帰してあげたらどうかなって思うんだよね」

 ああ、と美奈子はようやく話の内容が飲み込めた。さっき佐藤医師に松谷さんのメモを渡したからだと気付いた。

「医療費が高いということだから、入院費削減で在宅に切り替えたらどうだろう。患者さんのもろもろの負担を考えて、自宅でケアできないのかという取り組みが、地域ぐるみで進められているんだよ。特に末期の患者さんは、最期は自宅で家族に看取られたいという希望が多いんだって。だから、瀬戸さんはどう思う?」

 ――最期は自宅で、か。

 美奈子は病室での松谷さんの様子を思った。

 常に家族のことを気遣う患者さんの顔が浮かぶ。松谷さんの様子を見ていると、とにかく家族を心配させたくない、そういう気持ちを強く感じるのだ。とても痛むはずなのに、面会時間はまったくそんなそぶりを見せないで、家族が帰った後にぐったりしているのを、美奈子は知っている。そんな彼が、在宅医療をどう思うだろうか?

 美奈子がそのことを話すと、佐藤医師はがっかりしたように肩を落とした。

「そっか……。実は、松谷さんのこともあって、病院側にも在宅医療の必要性を提案してみようかと思ったんだけどね……。そんなふうに家族でお互いのことを気遣っているのなら、松谷さんに関しては、無理か」

 佐藤医師はぽりぽりと頭をかいて、立ち去った。美奈子は、ふと川辺さんの最期のときの様子を思い出した。

 そうだよね。患者さんは、とても苦しいもんね。苦しくて、どうしようもなくて、必死の形相で迎える最期であったなら、愛する人には見せたくないよね。特に、一家の主であるお父さんは、そういう姿って、きっと子供たちには見せたくないんだろうなあ……


 美奈子は急いで着替えると、紅茶館への坂道を降りて行った。誰だかわからない人物の元へ向かうのは、ちょっと不安だったが、紅茶館なら店長がいるから安心だ。それに、もしも昔の彼氏だったら、当時手ひどく振られたお返しに、今こそこちらの言いたいことを言ってやる。

 鼻息も荒く紅茶館に突入した美奈子は、待っていた人物を見てコケそうになった。

 間接照明の灯された店内、窓際のテーブルに、救命救急の男性看護師・宮下が座っていた。他に客の姿は無い。彼は、ニキビ面にはにかんだ笑みを浮かべて紅茶をすすっていた。なんとなく似合わない。

 美奈子は会釈して彼の向かい側に座った。

「お疲れのとこ悪いね、呼び出して。今日、警察へ行ってきたから」

 ああ、と彼女は思い出した。救命から脱走した少年の件で、宮下は身元を調べてもらおうと、警察に行ったのだ。

「で、どうでした?」

 尋ねると、彼は顔をしかめた。

「名前も住所もわからなかった」

 そっか……と、美奈子が手元のメニューに目を落とすと、彼は言った。

「でも、嫌な情報を耳にした」

「情報って、なんですか?」

「最近、この辺りで『当たり屋』が居るって」

「なんですそれ?」

「車にわざとぶつかって、その場で金を請求するやつのことだよ」

 美奈子が当たり屋を知らないと勘違いしたのか、宮下は丁寧に教えてくれた。

 当たり屋といえば、運転中にわざと急ブレーキを踏んで、追突した後続車に法外な請求をするのが常套手段だ。その場合、警察は呼ばずにその場でドライバーに示談を迫る。警察を呼ばないと事故証明がとれないから、保険も降りないし、その後厄介なことになる。

 なんだか物騒というよりも、ひどい話だなと思った。だけど、それがいったいどうしたというのだろうか?

 黙って話を聞いているが、釈然とせぬ様子が見て取れたのだろう。宮下は美奈子に向かって声をひそめた。

「どうも、その当たり屋ってのが、あの少年みたいなんだよ」

「ええ?」

 大きな声が出てしまい、美奈子は思わず口元を押さえた。宮下は険しい顔で続ける。

「主婦の運転する軽自動車を選んで飛び出しては、治療費をその場でもらっている男の子が居るんだって。ハッキリ断定は出来ないが、背格好も彼によく似ているみたいなんだ」

「……まさか、そんなことって!」

 美奈子の頭では、当たり屋とは車同士の設定だ。人対車でそんなことをしていて、大ケガしたらどうするのだ。ケガで済めばいいが、当たり所が悪ければ死んでしまう。

 客が居なくてヒマのだろう。店長がカウンターから出てきて話に加わった。

「おいおい、それ本当かい?」

 宮下は頷くと言った。

「子供だから、考えもなしにやってるんでしょう。信じられないけど、ホントみたいだよ」

 美奈子と店長は顔を見合わせた。なんてムチャなことをするのだろう。そんなことを繰り返していたら、いつか取り返しがつかないことになる。

「警察のほうに、少年をはねたドライバーから数件の問い合わせがあって、探してるって言ってた。みんな心配していて、治療費を払いたいそうだ」

 宮下はそう言って、ため息をついた。美奈子は眉根を寄せて言った。

「バカね、その子。例えわざと飛び出したって、人対車なら、車のほうが悪いんだから、きちんと名乗って堂々と治療費請求したらいいのに」

 紅茶館の店内に、沈黙が降りてくる。何だか信じられない話だった。

「まさか、次また運ばれてくるようなことは無いと信じたいけど、もし来たら、すぐ警察に知らせるよ。瀬戸さんも、彼のことで何かわかったらそうしてくれないかな」

 宮下の言葉に、美奈子は頷いてぼそりと呟いた。

「親や、周りの大人はどうなっているのかしら」

 すると店長が寂しげに言った。

「見て見ぬふりか、あるいは親がやらせていたりして……」

 美奈子は「まさか」というように店長を見つめた。命に触れる職場にいるものにとって、お金のために、そんなふうに自分を傷つける少年のやりかたは許せない。ましてや、親公認など、ありえない。

「お金と命と、どっちが大事かなんて、誰にだってわかるのに」

 腹が立つと同時に、胸の奥がひどく寒くなった。


 憂鬱な気分で紅茶館を出ると、宮下がついてきた。

「あの、宮下さん、看護師寮はすぐそこですから、送っていただかなくても大丈夫ですよ」

 すると彼は慌てたように言った。

「あ、いや。ぼく、職場に……。気になる患者さんが居るので、ちょっとそちらを見てから帰りますから」

 病院は闇の中に白い外壁を浮かび上がらせていた。普段はタクシーが待機している正面玄関は、明かりが消えて真っ暗だ。坂道を登りきって、建物全体が見えると、左端の奥にある救命救急センターの灯りが眩しく見えた。

 じゃあ、と手をあげた宮下を見送っていると、救命の灯りの中に赤いワンピースの少女を見つけた。美奈子は声をひそめて宮下を呼び止めた。

「宮下さん、あの子。逃げた少年の友だちよ」

 少女はしばらく救命の搬送口付近をウロウロしていたが、やがて建物の中に消えた。

 二人は闇の中を走って行った。走りながら、美奈子の心臓がドクンと跳ねた。少女が、また先日みたいに、跡形もなく消えていたらと思うと妙に背筋が寒い。搬送口の灯りに向かって走りながら、奇妙な妄想が美奈子の脳裏をよぎる。

 瀕死の病人のそばに、ひっそりと佇む赤い服の美少女。彼女の唇に笑みが形作られ、甘い言葉が囁かれる。

 ――痛みも苦しみもない世界へ、行きたいでしょう? 

 弱々しくうなずく患者の顔が、いつの間にか亡くなった川辺老婦人になっている。

 ――じゃあ、今すぐ連れてゆくかわりに、残り一か月分の命をちょうだい……。どうせ死ぬんだから、同じことでしょう?

 美奈子はあらぬ妄想を必死で打ち消した。死神少女なんて居るはずがない。

 息を切らして救命の入口に駆け込むと、意外にも少女はそこに居た。振り向いた彼女は、大きな目を見開いて固まっている。

「ここで何してるの?」

 少年のことで、思うところがあるのだろうか。宮下がちょっと厳しい声を出した。

 少女は泣きそうな表情になり、美奈子の顔をじっと見上げた。

「あ……もしかして、彼氏がまた運ばれてきた、とか?」

 チラリと横目で処置室のほうを見て尋ねると、少女は違うというように首を左右に振った。

「ここは緊急の患者さんを運び込む場所だから、用のない人は入っちゃいけないんだよ」

美奈子がなるべく優しい声で諭すと、彼女は俯いて、消え入るような声で言った。

「……カイを、見てやってもらえませんか?」

「カイって、この間の男の子?」

 美奈子は近づいて、少女の腕を捕まえた。ビクと震えた腕は、細くてひんやりしている。

 少女はつかまれた腕に目を落としながらしばらく逡巡していたが、やがてはっきりと言った。

「看護師さんですよね。お願いします、ちょっとでいいからカイを見てもらえませんか? 今朝から、様子がおかしいんです」

「おかしいって、どんな?」

 少女は腕を捕らえた美奈子の手首をもう一方の手でぎゅっとつかまえると、表に向かって走り出した。

「ちょっと、待って!」

 ミュールを履いた足がもつれそうになった。背後にいた宮下が、慌てて支えてくれたので、間一髪転ばずに済んだ。宮下は少女を怒鳴りつけた。

「待てって、言ってんだろ! 危ないじゃないか!」

 彼の声に驚いた少女は、飛び上がって振り向いた。目に涙をいっぱい溜めている。

「あ、ごめ……なさい。あの、お願いします。カイが、死んじゃう」

「わかったから。どこに行けばいいのよ」

 美奈子は背後の宮下に目配せした。彼も察したらしく頷く。これで少年の身元がわかる。

 二人は少女に連れられて、今帰ってきたばかりの坂道を下っていった。

 三十分ほど歩いただろうか。シャッターの下りた下町風の商店街を抜けると、高速道路の高架下に出た。

「このへんって、浮浪者が多いんだよな」

 宮下が顔をしかめた。さっきから下水の臭いがするのだ。

 少女は高架下をくぐってすぐのところにある、小さなカラオケスナックとシャッターの下りた弁当屋の間の路地に入って行った。

 体を傾けるようにして進むと、まるで梯子のように急な角度の鉄階段が前方を塞いでいる。少女はするすると音も立てずに上ってゆく。美奈子は背後の宮下を振り返った。

「あ、大丈夫だから。目、つぶってるから」

 美奈子のスカートをチラリと見やって、宮下が真っ赤になる。美奈子は牽制の意味で宮下をひと睨みすると、ミュールを脱いで裸足で階段を上がった。

 どうやらカラオケスナックのある建物の屋根裏らしいと気付く。無理矢理つけたようなドアから入ると、下手くそな男性の歌声がガンガン響いていた。

 少女がスイッチを入れると、古い電気が点灯した。裸電球ではなかったが、小さな傘がついた照明は、物置の電気に似ている。実際、物置として使われているのだろう。天井の低い八畳ほどのスペースは、コンクリート打ちっぱなしで、隅の方に酒瓶のケースや灯油のポリタンクなどが乱雑に置かれていた。その一画に安物のカーペットが敷かれ、スチール製のベッドが一台置かれている。少年はそこで体をエビのように丸めて横たわっていた。下水の臭いがこの室内にもこもっているようだった。

 辺りを見回していると、鼻の頭にシワを寄せた宮下がようやく室内に入ってきた。

 少女が駆け寄って、少年の耳に何かを囁いた。途端に彼は勢い良く身を起こして少女を突き飛ばした。少女はベッドサイドに尻餅をついた。黄色い灯りの中に、ホコリがぶわっと舞い上がる。

 少年は、聞きなれない言葉で少女を怒鳴りつけた。少女の顔が可哀想なくらいに蒼ざめてゆく。さらに罵る少年を見て、美奈子はハッとした。

 照明のせいだけではなく、彼の顔色はとても悪かった。少年は美奈子と宮下を見て、口をぱくぱくさせたが、苦痛に顔をゆがめると再び倒れるようにして横たわった。

 床にぺたりと座り込んだまま、少女が喚く。

「カイのバカ! 今、看護師さんたちに見てもらわないと、死んじゃうよ! おなかの中、ぐちゃぐちゃになって、死んじゃうんだよ」

 美奈子は少女のそばに行って、彼女を助け起こした。宮下は二人にうなずくと少年の傍らに行って毛布をめくった。少年が呻く。

 下血があったようで、少年のグレーのスウェットパンツとシーツがどす黒くなっている。

「やっぱ、内臓の傷口が開いたんだな。下手したら癒着をおこしてるかも。感染症も気になる」

 救命の看護師で、オペにも入っているので、宮下はずいぶんと詳しかった。

「一刻も早く病院に連れて行ってみてもらわないと、本当に命にかかわるぞ」

 少女の大きな目から、ぼろぼろと涙がこぼれた。救急車を呼ぼうと携帯を取り出した宮下のズボンを、少年がむんずとつかんだ。

「ダメ……。病院も、警察もダメだ」

「何言ってんだよ。死にたいのか?」

「金がない」

「そんなこと、言ってる場合か!」

「オレが入院したら、ヒエンが一人に……」

 ごぶっと小さく血液の塊を吐くと、少年は動かなくなった。

「いやあああああああ!」

 ヒエンと呼ばれた少女が悲鳴のような声を上げた。宮下は少女を手で制し、小さく頷いた。

「気を失っただけだ。大丈夫だから」


 ほどなくして到着した救急車に乗せられた少年を見て、ヒエンは大きく安堵のため息を漏らした。美奈子は少年の顔を覗き込んだ。救急車の狭いベッドに括りつけられたカイは、ぐったりしている。

「心配いらないよ。あなたが退院するまで、この子は私が面倒みるから」

 意識のない彼の口元に、笑みが浮かんだように見えたのは気のせいだろうか?

 付き添いで宮下だけが救急車に乗り込んだ。彼は、救急隊員に市立総合病院へ運ぶようにと告げた。美奈子はヒエンと共に、タクシーを拾って後から追いかけた。


 タクシーの後部シートに崩れるように座っているヒエンに、美奈子は声をかけた。

「ねえ、どうして彼はあんなムチャなこと、しているの?」

 ヒエンはぽつりと言った。

「お金がないからです」

「だからって、あんなこと……。死ぬようなマネができるんだったら、死ぬ気で働けば何とかなるでしょう?」

 ヒエンは悲しそうな目で美奈子を見つめた。

「働くところが、ないです。外国人は、見つかると日本に居られなくなるって、カイが言います」

「でも……。親……保護者とか、誰か大人の知り合いは居ないの?」

 美奈子の問いには答えず、ヒエンはタクシーの車窓から夜の街を眺めた。言いたくないのかもしれない。悪いことを聞いてしまったなと、少々反省していると、ヒエンが口を開いた。

「カイが私の親で、兄だと思ってます。私は気付いたらカイと一緒に暮らしていました。大人の人たちと同居していた時期もあったけど、どれも長くは続かなくて、結局私とカイはいつも二人でした」

 少女の細い肩先が不安げに震えていた。美奈子は果てしなく落ち込んでいた。自分の理解を遥かに超えた世界が、こんなにも間近にあったということに、ショックを隠せない。医者や看護師では治せない、現代社会の闇を見たような気がする。

「ねえ、ひとつだけ、教えてくれないかな」

 美奈子はヒエンの瞳を見つめて問いかけた。

「どうして、事故のときに現場を離れたの? カイがのたうちまわっているのに、どうして?」

 ヒエンは長い睫毛をそっと伏せた。

「カイがそうしろと、いつも言うから。万が一、相手が警察を呼んだ場合、私が捕まらないようにするためだそうです」

 伏せた睫毛の先から透明な涙があふれ、少女のなめらかな頬を伝う。

「カイは悪くないです。お金はもらったものです。私たちは悪いことはしていません」

「でも……」

 でかかった言葉を美奈子は飲み込んだ。

 ――不法滞在。たぶん、そうなのだろう。それは、明らかに違法だ。

「悪いことしてないのに、なぜ警察を避けるの?」

 意地の悪い言い方だと思ったが、きちんと教えてやったほうがいいと思い、美奈子はヒエンの顔を覗き込む。少女はうつむいたまま小さな声で言った。

「警察は私たちを捕まえます。それは、私たちがどこにも存在しない人間だから。私たちは、ゴーストなんです。ゴーストは嫌われる。警察以外の人は、私たちがまるで存在しないかのように、通り過ぎてゆきます。私たちには祖国もなく、親もなく、……希望もない。ただ、毎日を生きるだけなんです」

 タクシーが市立総合病院に到着した。救急車はまだ搬送口に駐車していたが、カイと宮下の姿はなかった。

 救命センターの中に入ると、背の高い救命医がブルーの手術着を身につけてオペ室に消えたところだった。

 美奈子は廊下の片隅にあるソファにヒエンを座らせた。彼女は両手を膝の上で組み合わせて、じっと俯いている。

 尋ねたいことがたくさんあったが、とても話しかけられる雰囲気ではなかった。

 三十分ほど経過したころ、ふいにヒエンが呟いた。

「死神は、いらない命をもらいに来るんだって」

 美奈子はどきりとして隣に座る少女を見つめた。

「死神って、何の話?」

 ヒエンは膝の上で組んでいた手をほどくと、自分の目元をこすった。彼女は思い出すかのように虚空を見つめて言った。

「前に一度カイがこちらに運ばれたとき、病棟で会ったお婆さんが言ってたの。死にたくない人間もいるけど、逆に死にたい人間もいるんだよって。そういう人はお願いすると、死神の女の子が命を早めにもらいに来るの。それで、残りの命を、死にたくない人間に分けてあげるんだって」

 美奈子の脳裏に、優しい老婦人の顔がクローズアップされる。しわがれた声が頭の中に響いた。

 ――この小娘は……。遅い、何故もっと早く来なかったんだい。

 パズルピースがはまったように、美奈子の中で、カチリと音をたてて何かがつながった。

 川辺さんは、死神の女の子を待っていたのだろうか。

「……バカなカイ。オレはいつ死んでもいい、なんて言うから、死神が勘違いしたんだよ」

 少女は鼻をすすった。小さな花のような唇から、切ないささやきが漏れる。

「死神さん、お願い。カイにいらない命を分けてあげてください。カイは、本当は死にたくないんです……。お願い……」

 少女の肩をそっと抱き寄せて、美奈子も生まれて初めて死神に祈った。

 ――この世に、いらない命というものがあるのなら、どうかあの少年に……。



 梅雨が明け、連日猛暑が続いている。当たり屋の少年・カイは一命を取り留めて、美奈子の勤務する内科病棟に移された。

 美奈子が病室に顔を出すと、彼は笑顔で話しかけてくるようになった。検温を済ませて病室を出た美奈子を、カイが点滴スタンドを引きずりながら追いかけてきた。

「あの……ヒエンは、元気にしてる?」

「大丈夫よ。昨日会ったけど、元気そうだったよ」

 カイは安心したように大きく頷いた。ヒエンは今、隣町の児童養護施設で暮らしてる。

「あさって、お見舞いに来るそうだから、なにか欲しいものがあったら、連絡してあげるけど?」

 彼は要らないというふうに、首を横に振った。やはり、お金のことが心配なのだろう。でも、こればかりはどうすることも出来ない。宮下の話では、彼らの親は不法滞在で本国に強制送還されてしまったらしい。別れるのはつらいけれど、日本に残してやったほうが、カイたちにとって幸せだとでも考えたのだろうか? いくら考えても、結局他人の事情はわからないのだけれど。

 カイの体調が戻ったら、二人は親元へ強制送還されることが決まっている。

「ほら、ベッドに戻って。また出血したら大変よ」

 美奈子は追い立てるようにして彼をベッドに戻らせた。

 腕時計に目をやり、慌ててナースステーションに駆け込むと、看護師長に叱られた。

「瀬戸さんっ! 走らないの。何度言ったらわかるの?」

「あ、でも、これから訪問看護の当番なんですよ」

「え、まあ! 大変。早く仕度しなさい。まったくあなたは、どうしてこう慌ただしいのかしら」

 いつものお小言をやりすごし、美奈子は医療キッドの入った大きな黒いバッグを提げて、駐車場に向かった。

 空調の効いた建物から一歩出た瞬間に、くらりとする。眩い夏の陽射しが照りつける駐車場で、佐藤医師が待っていた。彼の横には、『市立総合病院訪問看護サービスカー』と書かれた軽自動車が停まっていた。

「瀬戸さん、五分の遅刻」

「すみません、先生」

 佐藤はふうとため息をついて、白衣姿のまま運転席に乗り込んだ。シートベルトを締める美奈子に、佐藤がぶつくさ文句を言う。

「まったく、市立総合病院の記念すべき第一回訪問看護だっていうのに、遅刻かよ。先が思いやられるな」

 ちらりと横目で見ると、佐藤の目が笑っていたので、美奈子は言い訳せずにぺろりと舌を出すだけに留めた。機嫌は悪くないらしい。

 以前、末期がん患者の松谷さんのコメントを読んだ佐藤医師が、末期の在宅医療を提案し、即採用されたのだ。

 最期のときは、自分の家で家族に見守られながら……と願っている患者さんはやはり多い。それに、入院費の心配をしながらでは、なかなか治療自体に対して積極的になれないこともあり、訪問看護の導入を、佐藤医師が中心となって、強く病院に交渉したらしいと聞いている。

 ハンドルを握りながら佐藤医師が言った。

「もっと前から計画だけはあったみたいなんだけどね、看護師と医師の体制ができていなかったんだ。まあ、今もボランティアみたいなもんだけどね」

 訪問看護に携わる看護師や医師は、病院内で立候補が採られた。その結果、医師は四人、看護師は七人しか集まらなかったのだ。スタッフを訪問看護に出すほうの係も、人員が不足していて厳しいというのがその理由だった。

 内科からは、佐藤医師ともう一人、研修医の先生がメンバーになっており、看護師は美奈子と例の大物新人ちゃんだった。彼女の言い分が、またすごすぎたから、先日ひと波乱が巻き起こった。

「研修医の鳴沢先生って、超美少年系だし、佐藤先生は癒し系でしょう? どっちにするのか選ぶなら、もっと仲良くならないとね」

 なんて不純な動機なのかと、看護師長がキレそうになったのは言うまでもない。余談だが、救命の宮下看護師も、訪問看護のメンバーに立候補したと聞いている。しかし、彼は救命スタッフから猛反対をくらってしまったらしい。美奈子はそれを聞いてもっともだと思った。気持ちは嬉しいが、救命はただでさえ忙しいのに、そんなことをしたら彼の体が持たないだろう。

 佐藤医師の運転する車は閑静な住宅街に入った。これからトップで訪問するのは、松谷さんのお宅だ。

 彼にはまだ告知はしていない。けれど、入院費のことが気になっていたようだったので、美奈子が試しに在宅看護の話をしたところ、二つ返事で了承し、昨日退院したのだ。

 庭先で洗濯物を干していた奥さんが、にこやかに出迎えてくれた。

 一階の入口に近い部屋に、松谷さんは居た。

 清潔な室内は、とても日当たりが好くて居心地が良さそうだ。窓際にたくさんの観葉植物が置かれており、天井からは子供たちの作った折り鶴が下がっていた。

「妻が、電動式のベッドを手配してくれたんですよ。レンタルでこんな立派なものがあるなんて、知りませんでした」

 佐藤医師はにっこりして言った。

「本当だ。こりゃ、病院のベッドなんかより、百倍寝心地が良さそうだ」


 診察を終えて玄関を出ると、奥さんが追いかけてきた。何事かと振り返ると、冷たい缶コーヒーを二本差し出された。

「先生、看護師さん、ありがとうございます。昨夜、主人とゆっくり話しました。結婚して以来、あんなに真剣に心の内を見せ合ったのは初めてでした」

 よかったですね、と美奈子が言うと、奥さんはぺこりと頭を下げて言った。

「……あの人、自分の病気、正確に知ってたんですよ」

「え?」

 やっぱり、と言う顔で佐藤が美奈子のほうをチラリと見た。美奈子はプルプルと小刻みに首を振った。どんなことがあったって、患者さんの前で病名を言ったりはしていない。

 奥さんはその様子に「違うんです」と言った。

「彼、インターネットを使って自分で調べたんですって。点滴に使われている薬品とか、自分の自覚症状とかで、素人でもわかるみたいですね」

 二人は黙り込んだ。奥さんは美奈子の手にひんやりした缶を握らせると、やわらかく微笑んだ。

「私たちは大丈夫です。こうして、先生たちのおかげで、家族の時間が持てたのですから。これからの時間を目一杯、家族で大切に過ごします」

 車に戻ると、二人は冷えた缶コーヒーを一気に飲んだ。ほろ苦い味が広がって、胸がじんとした。

 佐藤医師は車を発進させると、ちょっと寄りたいところがある、と言った。

 美奈子は無言で頷いて、助手席の窓から外へと目を向けた。ガードレールに沿って、真っ赤なカンナの花が延々と続いている。まるで、ヒエンのスカートみたいだと思った。

 あの日、松谷さんの病室から出たときに見た後姿は、果たしてヒエンだったのだろうか? ロビーで忽然と姿を消した少女は、本物の死神だったのかもしれない。もしもあのまま松谷さんが生きるのをあきらめてしまったら、きっと彼女はその先のいらない命をもらいに来ていたのかもしれない。訪問看護によって、ちょっぴり生きる希望を取り戻してくれた松谷さんには、もう死神少女は近づかないだろう。

 物思いに耽っていると、車が止まった。立派な日本家屋が目の前にある。緑濃い生垣から覗いた瓦屋根が、夏の陽を浴びて艶めいて見えた。

「瀬戸さんも、一緒に来る?」

 美奈子は助手席から乗り出すようにして表札を見た。『川辺』と書かれているのを見て、彼女は気付いた。

「ここって、あの、川辺さんの?」

 佐藤医師は頷くと言った。

「一度、お線香をあげたいなと思っていたから」

 美奈子も頷き返して車を降りた。あの夜の、苦い思いが込み上げる。何度経験しても、慣れることのない臨終の場面。美奈子は隣に立って呼び鈴を鳴らす佐藤医師を盗み見た。彼の心の器には、自分よりも、きっと、ずっと多くの思いがしまいこまれているのだろう。

 立派な門構えの引き戸を開けると、犬の鳴き声と共に川辺さんの息子さんが姿を見せた。

 佐藤医師が挨拶すると、息子さんは笑顔を見せて、すぐに二人を仏間に案内してくれた。

 仏壇の前で手を合わせ、美奈子は遺影を見上げた。写真の中の川辺さんは、桜を見たころの穏やかな表情で微笑んでいた。

 次の患者さん宅へ向かうため、いとまごいすると、少々お待ちください、と言って、息子さんが風呂敷に包まれたものを持ってきた。

「これは、母の遺品なんですが、『看護婦さんへ』っていう手紙が添えてあったので、母の担当だった方にお渡しいただけないでしょうか」

 佐藤医師に促されて、美奈子は包みを受け取った。

「あの、ちょっと中を拝見してもよろしいですか?」

 高価な物だったら困ると思い、美奈子は了解を得てから包みを解いた。中から白い封筒に入った手紙と、一冊の絵本が出てきた。絵本の表紙には、可愛らしい女の子が描かれている。手にとって開こうとすると、息子さんが言った。

「実は、これ、母が書いた童話なんですよ」

「え? 川辺さんは、作家さんだったんですか?」

 目を丸くする美奈子に、息子さんは「違いますよ」と、手をあげた。

「母は小学校の教員でした。この絵本も、何年か前に、クラスの生徒さんのために書いたらしいです。自費出版ってやつですよ」

「へえ、とても教育熱心な方だったんですね」

 佐藤が言うと、息子さんは曖昧に笑って言った。

「実は、母のクラスの生徒さんが突然お亡くなりになって、そのときに書いたみたいです。ぼくは良く事情を知らないんですけれどね」

 美奈子と佐藤は目を見合わせたが、とりあえず絵本をいただいて帰ることにした。

「そうですか。じゃあ、遠慮なくいただきます。入院している子供たちに見せてあげよう」

 美奈子と佐藤医師は川辺さん宅を辞した。

 車の中で、美奈子は封筒を手に取った。

「困りましたね、先生。『看護婦さんへ』って言っても、誰宛てなのか、わかりませんよ」

「看護師たち全員へのお礼か何かの手紙じゃないのかな。俺も大学病院時代に、よく『先生へ』っていう手紙、子供からもらったよ」

 佐藤医師はたいして気にも留めない。

「でも、仮にも元教師ですよ? 確かに私たちって、あまり名前で呼ばれたりしないけど、こんな宛名って……」

「でもさあ、担当だったのって、瀬戸さんか真弓さんなんじゃないの? それなら、二人で開けて読んでみなよ」

「う……苦情だったらどうしよう」

 気分が良いときはにこやかだったが、川辺老婦人はけっこう気難しいところがあったのも確かだ。

「後で何が書いてあったのか、教えてね」

 にやりと笑って、佐藤がトドメを刺す。美奈子は手紙と絵本を元通りに包み直した。


 昼の休憩時間になると、美奈子は真弓を誘って屋上へ向かった。万が一、苦情だったりしたら、他の看護師たちにはあまり知られたくない。

 二人で足早に階段を上がり、屋上への鉄扉を押し開けた。

「うわあ、いい天気」

 真弓が歓声を上げた。真っ青な空が、迫ってくるようだ。二人は何台も並んでいるエアコンの室外機の脇を通り抜けて、色の剥げ落ちたベンチに座った。

 美奈子が包みを解いて封筒を抜き出すと、真弓がごくりと唾を呑み込んだ。

「手紙、何て書いてあるんだろうね。ちょっとドキドキする」

 真っ白な便箋を開くと、美しいペン字が目に飛び込んで来た。二人は、顔をくっつけ合うようにして、文章に目を走らせた。


 ――看護婦さんへ

 これを読まれるときには、私はもう死んで肉のかたまりとなっていることでしょう。

 最期のときに、自分の口から直接お礼を言いたいと思っておりますが、きっとその場になったら、自分の意思は保てないのではないかと懸念し、こうして文章にしたためておきます。

 余命いくばくもなく、ただ死に逝くのみとなり、生死について考えました。

 理想では、残り少ない日々を出来るだけ穏やかに笑顔で、いままでお世話になった人たちへの感謝の気持ちだけを胸に、最期まで精一杯生きてゆこう、そんなふうに決めていました。でも、実際に病の苦痛に襲われたときは、早く死んでしまいたい。この苦しみから逃れられるのならば、今すぐ悪魔に命をくれてやってもいいと思う自分が居ることも否定できません。

 そんな暗い気分のときには、一生懸命看護してくださるあなたの笑顔さえも、受け付けることができない。せっかく差し延べてくれた介抱の手を、振り払ってしまったこともありましたね。許してください。

 私は教師として何百人もの生徒を教え、導いてきました。生徒たちに、えらそうなことをたくさん言いました。生について、死について、多くを語りました。人生の終焉を迎えるにあたって、私なりの幕引きを思い描いたりもしました。けれども、そんなものは何の役にも立たない。私の思いは落ち着きなく日々揺れ続けていました。あなたの笑顔に励まされたときには、もっともっと長く生きたいと思い、病の痛みに苦しめられたときは、早く死んだらもうあなたの眩しい笑顔を見なくて済むのだと。

 それでもやっぱり、最後には生きていたい。生きていて、笑顔に見守られていたい、そう思うのでしょうね。

 とりとめのないことばかりですみません。

 末筆になりますが、看護婦さん、ありがとう。あなたと一緒に見た、最期の桜を忘れません。           川辺しず子


 便箋に、どちらのものともわからぬ涙がはたりとこぼれ落ち、インクの染みが広がった。

 桜を見上げて微笑む老婦人の顔が、美奈子の脳裏に鮮明に甦って来た。

 隣で鼻をすすりながら、真弓が妙に明るい声で言った。

「なんか、最後でちょっと拍子抜けしちゃったな。私、川辺さんと桜を見てないもの。これって、きっと美奈ちゃんへの手紙だよね」

 美奈子も慌てて目元をぬぐうと、手紙をかさかさと折りたたんだ。川辺さんの手紙はとても嬉しかったが、真弓に悪いことをしてしまったかな、という気もしていた。美奈子はわざとふざけたように言った。

「実はさあ、川辺さんの最期の言葉があまりに不気味で、ずっと心が重かったんだよね。今、この手紙を読んでようやく気持ちが軽くなった気がするよ」

「ええ? 川辺さん、最期になんておっしゃったの?」

 美奈子は真弓に老婦人の言葉をそのまま伝えた。

 ――この小娘は……。遅い、何故もっと早く来なかったんだい。まったく、本当に……なんて役立たずな子……。

「それはきっと美奈ちゃんのことだよ」などと、からかわれるかと思ったが、真弓は真面目な顔つきで美奈子の手元の包みを見つめている。

「真弓さん……どうかした?」

 真弓は、美奈子の手から風呂敷包みを取り上げた。

「あの話ね、実は川辺さんから聞いたんだよ」

 美奈子は首をかしげた。あの話って、なんだろう?

 真弓は包みの中から絵本を取り出して、膝に乗せた。

「死神の女の子の話、あれ、いつか川辺さんが話してくれたのよ」

 美奈子は真弓の膝に乗せられた絵本を見て、あっと声を上げた。

『いらない命』というタイトルだった。


『いらない命』


 暑い夏が遠ざかり、入れ替わりに秋がやってきました。秋は澄んだ空と爽やかな風をお供に連れています。

 風が森を通り抜けたとき、木の幹からぽとりと蝉が落ちました。

 風は言いました。

「もう夏は行ってしまったよ」

 蝉は仰向けになったまま、六本の足を弱々しく動かしました。

 そこへひとりの少女がやってきました。少女は地面に落ちた蝉を手のひらに乗せて言いました。

「蝉さん、もう、死んじゃうね」

 蝉は頷きました。

「秋が来たんだ。私の命はあと半日もないよ」

「じゃあ、その半日を私にちょうだい」

「どうせ死ぬんだ、いいよ」

 蝉は死にました。死んだ蝉は、少女の手のひらで、一粒の薬になりました。


 道端で、車にはねられた野良猫が息絶えようとしていました。

 猫は痛みに顔をしかめながら呟きました。

「私のお腹には赤ちゃんがいるの。どうか後もう少しだけ生かしてください」

 そこにさっきの少女が通りかかりました。少女はポケットから一粒の薬を取り出して言いました。

「猫さんに、半日ぶんの命をあげる。そのかわり、もし余ったぶんがあれば、わたしに返してくれる?」

 猫はうなずくと、薬を受け取ってにっこりしました。

 薬を飲んだ猫は、半日たたずに三匹の仔猫を産みました。元気な子供たちの様子を見届けた母猫は、少女に向かって言いました。

「私はもう助かりません。子供の無事も見届けました。残りの命はあとわずかですが、お約束を守ります」

 猫は死んで、少女の手のひらにまた一粒の薬が残りました。


 秋が駆け足で通り過ぎ、やがて冬がやってきました。

 少女はたくさんの出会いと別れを経験しました。死にゆく者たちから、残りの命をもらい集めるのが、少女の望みだったのです。

 少女は病院の前に立っていました。

 この病院には、少女の大切なお友だちが入院しています。

 お友だちは、とても重い病気にかかっていました。春が来るまでに死んでしまうと、お医者さまから言われているのです。

 少女はどうしてもお友だちを助けたいと思いました。だから少女はお友だちのために、半年かかって命の薬を集めたのでした。

 お友だちは、少女の顔を見ると、うれし涙を流しました。

「どこに行っていたの? とても会いたかった」

「あなたが長く生きられるよう、いらない命をもらって歩いていたの」

 そういって、少女は小瓶に詰めたキラキラ光る薬の粒を見せました。

「これだけで、あと半年は生きられるよ。よかったね」

 笑顔を向けた少女に、お友だちは寂しそうな顔で言いました。

「それでも、半年したら、わたしは死んでしまうのでしょう?」

「大丈夫よ、それまでにまた半年かけて、私が薬を集めてくるから」

 お友だちは悲しい目で少女を見て言いました。

「ねえ、あなたの手元の美しいもの。それは本当に、いらない命なのかしら?」


 翌朝、お友だちは一粒の輝く薬になっていました。自分で自分の命を絶ったのです。

 少女は薬の粒をそっと拾って小瓶の中に入れました。

 涙があふれてきて止まりませんでした。いったい自分は何のために旅をしてきたのか、わからなくなってしまいました。

 なぜ、お友だちは薬を飲まなかったのでしょう? 少女は小瓶の中の輝きに向かって叫びました。

「飲めばよかったのよ。生きていたいって、言ったじゃない。満開の桜が見たいって、言ったじゃない!」

 空のベッドに突っ伏して、少女は泣きじゃくります。

「飲めばよかったのよ。だってこれは、いらない命のかたまりなんだよ? 大事なものを、簡単に人にあげてしまうわけが、ないじゃない。ねえ、そう思わない? みんな、いらないからくれたんじゃないの? これは、いらない命なんじゃないの?」

 ――じゃあ、私の命も、いらない命なのかしら? 

 少女はハッとして、小瓶の中を覗きこみました。透明なガラスの中で、光の粒たちがまるで星のように明滅していました。

「じゃあ、この粒は、いったい何なの? 何のために、あるの?」


 答えを見つけるために、少女はまた旅に出ました。小さな胸に、たくさんの光の粒を抱えて。

               おしまい



 美奈子はかぶっていたナースキャップをとると、泣き顔を隠すように目元に当てた。

「きっと、川辺さんは、この少女が現れるのを待っていたんだよ」

 真弓の言葉に、美奈子は何度も頷いた。川辺さんは、自分の生み出した少女に、精一杯の愛情を込めて「小娘」と呼んだのだろう。

「そうだ、美奈ちゃん知ってた?」

「なに?」

「川辺さん、ご自分の遺体を検体としてS大学附属病院に提供したんだって」

「え?」

 医学のために、自分の体を差し出すのは、医療現場に居るものでさえ、なかなか出来ることではない。切り刻まれて、ばらばらになってしまうかもしれないといって、なかなか家族の理解を得られないのだと聞いたことがある。

「あ、だから、肉のかたまりって書いてあったんだ!」

 美奈子は手紙の冒頭を読み返した。止まっていた涙が再び溢れてきた。

 美奈子は手紙と絵本をぎゅうと胸に抱きしめた。

この本の中の二人の少女は、きっとどちらも川辺さん自身だったのかもしれない。

「ねえ、真弓さん。前に、真弓さんが私に言ったこと、覚えてますか?」

 うん、と真弓は頷いた。

 ――つらい治療に堪えている患者さんに対して、美奈ちゃんみたいに心の底から素直に『ガンバレ』なんて、言えないときがあるよ――

「私、あのときはわからなかったけれど、今ならその意味がわかります。でも……」

 美奈子は絵本の包みを抱きしめたまま、懸命に笑顔を作った。

「でも、私はやっぱり応援したい。最期まで、命をあきらめないでと言い続けます。だって私は、死神少女じゃないから」

 真弓がクスッと笑って、美奈子の手からシワになったナースキャップを取り上げた。丁寧に形を整えると、真弓は美奈子の頭をくしゃりとひと撫でしてから、キャップを留めつけた。

「これからも、命に対して様々な考え方に出逢うでしょう。でも、私たちは看護師であることを忘れてはいけないよね」

「うん。それに、この世に『いらない命』なんて、絶対に無いんだから」

 湿った風が、二人の白衣をふわりと撫でた。空を振り仰ぐと、さっきまで雲ひとつなかった夏空に、積乱雲がもこもこと集まっていた。

 ふと耳を澄ますと、下界から救急車のサイレンが聞こえてきて、二人ははじかれたようにベンチから立ち上がった。

「さあ、美奈ちゃん。仕事しなくちゃ」

「そうですね、先輩。患者さんが待ってる」

 二人はサンダルの音を残して、慌ただしく屋上から出て行った。

                   了


お読みくださいまして、どうもありがとうございました。

何でも良いので感想などいただけるとうれしいです。 冴木 昴

 

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