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第二話 死神

 翌朝申し送りのあとで、美奈子は看護師長に呼ばれた。

「瀬戸さん、すぐに事務局まで行ってもらえないかしら」

 美奈子は首をかしげた。本館にある事務局へは、この病院に勤務したときと、看護師寮に入所したときにしか足を踏み入れていない。もの問いたげな美奈子に、看護師長が低い声で言った。

「昨日、救命にお世話になってしまったんでしょう? あなたが飛込みで患者を連れてきたって、あっちの師長に言われたんだけど」

「でもあれは……」

「とにかく、なんか知らないけれど行ってらっしゃい」

 美奈子は正規の手続きに従って、救急車を呼べばよかったと後悔した。目の前に病人が居て、いちばん早い方法をとっただけなのに、何がいけなかったのだろう?

 不満を抱えたまま、本館五階の事務局に行った。ドアを押し開けると、フロア内は別世界だった。男性はスーツにネクタイで、女性はベストにタイトスカートというかっこうで仕事をしている。その中で、たった一人だけ、白衣姿の宮下看護師は浮いていた。

 彼はフロアの壁際に押し付けられた応接セットに、背筋を伸ばして座っていた。こちらに向けられた背中が緊張しているのがよくわかる。彼の肩越しに、事務局長の険しい顔が見え隠れしていた。細面の顔に銀縁メガネをかけているが、美奈子にはインテリというより何故かカマキリに見えた。

 フロアの入口で突っ立ったままの美奈子を見つけて、カマキリが手招きした。

 事務局長の仕草を見て、宮下が振り向く。

 美奈子が会釈をして宮下の隣に腰を下ろした途端、彼は苦々しげに言った。

「瀬戸さん、やっぱりあいつ、消えたよ」

 唇を噛む宮下に問い返さずとも、美奈子はすぐに事態を理解した。あいつとは、いわずと知れた例の少年だ。

 まさか、そんなことになるとは思っていなかったので、今日仕事を終えてから警察へ問い合わせてみるつもりだった。

「消えたって……そんな……」

 救命医の浅川医師の診断では、安静が必要だったはずだ。

「まったく、二度も踏み倒されるなんてごめんですからね」

 宮下と美奈子は、事務局長から散々嫌味を言われてしまい、事務局を出た時にはとても嫌な気分だった。

 まったく関係ないが、自分が連れてきた少年がしたことに対して、なんとなく宮下に謝罪しなければいけないのかな、と思った。

 エレベータを待って、険しい顔で佇んでいる宮下に、美奈子は小さな声で謝った。

「宮下さん、ごめんなさい。あたしが昨日のうちにしっかり身元を聞いておけば……」

「ええ? なんで? 瀬戸さんが謝ること、ないよ」

 宮下は驚いたように言って、隣の美奈子を見つめた。

「でも、怒っていらっしゃるでしょう?」

 彼の眉間のシワが気になって、そう言うと、

「いや、悪いのは僕です。あんなことになるなんて……」

「え……?」

 エレベータが到着して、会話が中断された。背広姿の男性が二人降りてくると、中は無人になった。美奈子と宮下は二人きりでエレベータに乗った。

 ボタンを操作する宮下に、美奈子は続きを促した。彼は寂しげな笑みを浮かべると、ぽつりと言った。

「昨夜、やけどの女の子が亡くなったんだよ」

 美奈子は大きく目を見開いた。昨日オペ室から運び出されてきた少女のことだとすぐにわかった。危険な状態だと言っていたが、ダメだったのか。あんなに幼くて、まだまだこれから楽しいことが待っているはずだったのに。黙り込んでしまった美奈子に、宮下が言った。

「ぼくがもっと早く、あの子の急変に気付いてあげていたら……」

 美奈子はなんと言葉をかければいいのか思いつかなかった。目の前で命が消えてゆくことの衝撃と辛さはよくわかる。

「でも……キケンな状態だったのでしょう? 宮下さんのせいじゃないですよ」

 かろうじてそう言葉をかけたが、宮下は背をまるめたまま俯いているだけだった。

 エレベータが一階に到着した。救命と内科は本館を挟んで正反対の場所に位置している。もう少し、宮下についていて話を聞いてやりたいという衝動にかられたが、お互いもう仕事に戻らなくてはならない。

 エレベータを降りて、一歩二歩と歩き出したとき、前をゆく宮下が急に立ち止まって振り向いた。彼の目が潤んでいる。

「ぼく、職場を離れてしまったんです。あのとき……。あの少年が消えたことに気付いて、病院の外を探してた。看護師長は急患で処置室に入ってて、浅川先生ももう一人の看護師と一緒に別の患者さん見てて……」

 宮下の目に涙の膜が盛り上がって、今にも溢れてきそうだった。

 美奈子は慌てて目を伏せた。なんということだ。彼がちょっと目を離した隙に、あの、やけどを負った女の子の容態が悪くなってしまったのだ。

 どのくらい放置したのかわからない。でも、救命は一階にあり、宮下が外に出るのにたいして時間はかからない。看護師長に正直に報告したと彼は言っており、それに対して何も咎められなかったところを見ると、おそらく、ごくわずかな時間だと思う。厳密に調べるならば、バイタルチェックの機械と照合すれば放置時間は正確にわかるはずだ。

 でも、問題はそこじゃない。彼は美奈子と同じだった。肝心なときに、いつもと違う動きをしていたとか、精一杯の対応が出来なかったとか、そういうことなのだと感じた。そして、そのことで自分を責めているのだ。

 黙って俯く美奈子に「ごめん」と言って、宮下は救命のある別館に走って行った。


 川辺さんの居なくなった病室には、もう別の患者さんが入っていた。ベッドの空き待ちはものすごい件数だと聞いているから、病院側にしてみればどんな形にしろ動きがあったほうが儲かるのだろう。こんなふうに、病院経営を損得勘定で見たことは今まで一度も無かった。ここは市立の病院だから、積極的な経営をしてはいない。けれど、さっき事務局に行って思い知った。あそこに居るのはみなお役人なのだと。だから、とりそびれた治療費のことをとやかくつつくのだ。宮下の気持ちなんかまったく考えてやらないで、文句ばかり言う事務の担当者に腹が立った。

 憂鬱な気分のまま職場に戻ると、すぐ近くの病室から出てきた真弓が心配顔で寄って来た。

「看護師長に呼ばれてたけど、何かあった?」

 美奈子は廊下の隅に真弓を引っ張っていくと、昨日の事故のことからさっきの事務局のことまですっかり話した。真弓は顔をしかめて聞いていたが、特に宮下に同情するでもなく、事務の男性に怒りを向けるでもなかった。彼女の反応に、ちょっと拍子抜けした美奈子は、気になっていたことを尋ねてみた。

「真弓さんは、目の前で患者さんが亡くなることが、嫌じゃないんですか? それとも、もう慣れっこになってしまったとか?」

 最後のセリフは、八年も内科に居る彼女に対して、かなり嫌味が入っていると思ったが、口から出てしまった以上、とりかえしがつかなかった。真弓は曖昧な笑みを浮かべると、声のトーンを落として言った。

「さすがに……『慣れっこ』と言われると傷つくけど」でも……と、彼女は続けた。「もう治らないとわかって、それでもつらい治療に堪えている患者さんに対して、美奈ちゃんみたいに心の底から素直に『ガンバレ』なんて、言えないときがあるよ」

 美奈子は真弓の顔を、まじまじと見た。

 ――どんなときでも冷静に、努めて明るく。

 看護師長のお決まりのセリフが美奈子の頭の中でぐるぐるする。明るく励ますことは、いけないことなのだろうか? 

 真弓は母のような笑みを浮かべて、ポンポンと美奈子の背中を叩いた。

「美奈ちゃんは、今のままでいいんだよ。患者さんが亡くなっちゃうたびに隠れて泣いてる、そんな優しい看護師さんだって、患者さんにはきっと必要なんだから」

「真弓さん……。知ってたんだ」

 美奈子は恥ずかしくなって俯いた。

「でもね、美奈ちゃん、覚えておいて。患者さんにとって、生きてること自体が地獄の苦しみだってこともあるんだよ。早く苦しみから解放されたいって、そう考えている人にとっては、周囲の笑顔が苦痛なときだってある」

 美奈子は自分の顔に手をやった。真弓の言葉は、深くて重い響きがあった。

「ある末期ガンの患者さんがね、ニコニコしながらこんなことを言ってた。早く死神に会いたいんだよって」

「死神なんて……」

 不吉な言葉に美奈子は眉根を寄せた。真弓はクスッと笑った。

「私もね、今の美奈ちゃんみたいな顔してたんだと思う。そしたらその患者さんがね、言ったの。余命ニヶ月と宣告された日に、夢を見たんですって」

「死神の?」

 美奈子の問いに、真弓は頷いた。

「死神が、いつ命をもらいに行けばいいですかって、言ったんだって」

「なんか、怖くないね」

「そう。死神はカワイイ女の子だったんだってさ。患者さんは、『いつでもいいよ』って言ったそうよ。すると女の子は、申し訳なさそうにこう言ったんですって」

「なんて?」

美奈子は興味をそそられて先を促した。

「予定より早いですが、一ヶ月後の何時何分に伺いますけど、いいですかって。あんまり詳しい時間を言うものだから、なんだか面白そうだと思った患者さんが、二つ返事で了承すると、死神がまた遠慮がちにこう言ったの。あまった残り一か月分の命を、他の人にあげてもいいですかって」

「はあ?」

 なんか、面白いでしょう? と笑って、真弓はナースステーションに戻って行った。

 真弓の後姿をぼんやりと見送りながら、美奈子はふと思った。

 本当に、死神の女の子は、一ヵ月後のその時刻に、命をもらいに来たのだろうか……?


 午後の回診に同行するためナースステーションを出ると、私服姿の宮下が訪ねてきた。

「ごめん、瀬戸さん、忙しかった?」

 美奈子は「大丈夫です」の意味を込めて笑顔を作った。宮下は、昨夜当直だったと言っていたっけ。それにしても、本当なら午前中に帰宅してよいはずなのに、もう午後三時になろうとしている。やはり救命は忙しいみたいだなと思った。

 宮下は、これから例の少年の件で警察に行ってみるつもりだと言った。

「昨日は瀬戸さんに嫌味なこと言っちゃったけど、結局あいつに逃げられたの、僕の責任だから」

 相変らず疲れたような微笑だったが、今朝会ったときよりは色艶が戻っている気がした。

 美奈子は帰ろうとする宮下に、真弓から聞いた死神の話をした。

「……だからね、とても苦しい状態の患者さんには、神様がその苦しみから解放してあげようとして、不思議な女の子を使わすんじゃないかって。そういう話」

 真弓の受け売りでそう言うと、宮下はニキビ面をくずして「あはは」と笑った。

「理沙ちゃんが、怖い死神に連れて行かれたんじゃなくて、よかった。可愛い女の子だったら、きっと今頃一緒に遊んでいるのかな」

 理沙ちゃんって言うのか。あのやけどの女の子。

 宮下を見送ってから、美奈子は佐藤医師に付いて各病室を回った。佐藤医師は丁寧に一人ひとりと会話をしながら診察してゆく。それは昨夜見たドラマの話だったり、世間を震撼させている連続殺人事件のことだったり、半分以上が雑談だ。彼曰く、このコミュニケーションをとりながらの診察は、とても大事な治療法のひとつなのだそうだが、美奈子にはイマイチよくわからない。けれども、どの患者さんも、佐藤医師の回診を心待ちにしていることだけは間違いなかった。回診は、美奈子にとっても一番楽しみな時間だ。

 美奈子は佐藤医師に続いてワゴンをがらがらと押しながら六人部屋に足を踏み入れた。

 病人とは思えないほどに元気のよい挨拶が、あちこちから上がった。

 この六人部屋のメンバーはいいキャラが揃っている。

「先生、尻が痛いんだよ。何とかならんかね」

 床ずれが痛いと毎回喚く寝たきりの平助おじいさんがいつもの文句を言う。佐藤医師は笑顔で対応し、平助おじいさんを横向きに転がすと、寝巻きの裾をめくった。

「ああ、またいつものところだね。床ずれになりかかってる。栄養のバランスが偏っていると治りが遅くなりますから、出された食事はきちんと食べてくださいね」

「あんな不味いもん、食えるかよ」

 美奈子は診察を終えた老人の体位を変換し、下着を整えると、一通りの悪態を聞き流した。隣のベッドに移動して、痰のからみやすい和久さんの喉を吸引し、加湿器をチェックしている間も、平助おじいさんはぶつくさ言っている。

「あー、家に帰りてぇなあ」

 おととい再手術を受けた患者さんの、尿と腹部の張りを確認していた佐藤医師が、おじいさんの声に思わず苦笑する。

 内科病棟は入院期間が長期の人が多い。ときおり一時帰宅を許されるが、この病室では長い人で、もう二年以上も入院している。

 美奈子は窓の外に目を向けた。向かいの病棟の窓枠が、初夏の陽を浴びてチカリと光っている。毎日同じ風景を眺めて過ごすのは、どんな気分なのだろうか。

 佐藤医師に呼ばれ、美奈子は我に返った。

「瀬戸さん、例のチェック、頼むよ」

 そう言って、佐藤医師はチラリと小太りの患者さんを見やった。糖尿の三俣さんの持ち物検査のことだと気付いた。彼はよく目を盗んではカロリーの高いお菓子やつまみを隠し持っていたりするのだ。先日など、ベッドの中にビールの空き缶を見つけて、美奈子は仰天してしまった。夜に眠れない小山さんは、今熟睡中だから邪魔をしないことにして、一番若いアツシくんのベッドに近づいた。ぐるりと閉められたカーテンをさっと開くと、彼は枕の下に慌てて何かを隠した。

「検温です」と言って、掛け布団をめくると、ばさばさとヌード雑誌が床に散乱した。

 そんなふうにして一時間ほどかけて、自分の持ち場を回る。残すはあと個室一箇所となった。フロアの一番奥にあるその個室には、川辺さんのように末期ガンの患者さんが入院している。

 美奈子は軽くノックをすると、病室のドアを押し開けた。白い室内に眩しい陽射しが溢れている。角部屋の個室は、入って正面と左手に二箇所の窓があるので、他の病室よりも明るい。梅雨の晴れ間で青空が覗いている本日は、窓を大きく開け放つと、桜の葉のそよぎが爽やかに聞こえるだろう。美奈子は患者さんに声を掛けてから、ベッドのまわりをぐるりと取り囲んでいる白いカーテンをそっと開けた。患者さんは四十代の男性だ。彼は目を開けると、浮腫んだ顔をこちらに向けた。奥さんの、たっての希望で本人には病気の告知をしていない。

「松谷さん、今日はとてもいい天気ですよ。気温も暖かだから、ちょっと窓を開けてみますね」

 美奈子は患者さんに風の当たらない箇所を選んで、窓を細く開けた。淀んだ室内の空気がすうっと表に流れてゆくのがわかる。空気と一緒に、病気も流れて行けばいいのに、そう思った。

「……だったんですね」

 ふいに松谷さんがぼそりと呟いた。聞き取れなくて、急いでそばに歩いて行くと、彼はにこりと笑って言った。

「さっきのは、看護師さんだったんですね。いいですよ、ぼくはもう……。治療費も高いし、妻と子供に負担をかけたくないから……」

「え?」

 美奈子は首をかしげた。きっと夢でも見ていたのだろう。痛みを和らげるために、松谷さんの点滴の中にはモルヒネのような成分が入っている。頭が朦朧として、そばに居るものの顔を見間違えたり、ふいに意識が途切れたりするのは、よくあることだ。

「もうすぐ面会時間になりますからね。そうそう、この間、上のお嬢さんが私の顔を描いてくれたのよ。本当に上手ですよね」

 美奈子はそう言って、枕もとの壁を見やった。大きなコルクボードが貼られており、たくさんの写真と「大好きなパパ」とタイトルがつけられた似顔絵が飾られている。松谷さんは満足気にボードを見やると目を閉じた。

 容態は安定しているようだが、さっきの発言が少しだけ気になる。

 後で佐藤先生に報告しておこう。

 美奈子は検温のページに走り書きをして病室を出た。出た途端に、美奈子の心臓がドクンと鳴った。

 廊下の向こう、二十メートル先に赤いワンピースの後姿があった。短めのスカートからのぞく、細くて長い足がふわふわと軽やかに、床を蹴る。思わず見とれていると、彼女はふわりとスカートを揺らして、風のように階段を駆け下りて行った。

「あ、待って!」

 女の子を捕まえれば、あの男の子の消息がわかる。美奈子はここが病院の廊下だということを頭の中から追い出して、猛然とダッシュした。足には自信がある。これでも高校のときは陸上部だったのだ。手すりをつかんで階段を一段抜かしで駆け下りる。下のほうから軽やかに走る靴音が響いてきた。きっとあの少女に違いないと確信した。

 靴音は、まるでリズムを奏でるように美奈子を誘う。三階から一階まで一気に駆け下りて廊下を見やると、赤いスカートが残像を残して渡り廊下の方へと曲がってゆくのが見えた。

 美奈子は躊躇わずに追いかけた。渡り廊下の先は本館のロビーだ。午後四時を回った今の時間帯は、外来が終わってメインのガラス扉は鍵が閉まっている。メインの扉の脇に、緊急用の出入り口はあるが、そこには警備員が立っているので、表に出てゆくためには、必ず一旦そこで立ち止まらなくてはならない。

「てゆうか、ロビーの手前で追いつくわ」

 誘うような足音は、渡り廊下の角の先、ごく近いところから聞こえてくる。

 あたしの勝ちだ。

なんの勝負かよくわからないが、美奈子はにんまりと笑みを浮かべて、がらんとした本館のロビーに足を踏み入れた。

「え……なんで?」

 ロビーは無人だった。美奈子はぺたりと床にはいつくばって、規則正しく並んだソファの下を見渡した。ひょっとしたら陰に隠れているかもしれないと思ったのだ。でも、少女は見当たらない。まるで煙のように消えてしまった。

「どこに居るの?」

 大きな声で呼んでみたが、その声は広い建物内にわっと広がって、すぐに静けさに飲み込まれた。

 ガラス扉の前に立っている警備員の、不審な眼差しと出会ってしまい、美奈子は急いで立ち上がった。

「あの、今ここに赤いワンピースを着た女の子が来たと思うんですけど?」

 おずおず尋ねるが、警備員は無表情に首を横に振っただけだった。

 

 床を這いずり回ったので、すっかり白衣が汚れてしまった。美奈子は更衣室で着替えると、持ち場に戻った。内科病棟の廊下には、大きな配膳台がセットされており、夕食を載せたトレイを運ぶ患者さんや食事介助のヘルパーさんたちが賑やかに行き来していた。

「瀬戸さん、いったいどこへ行っていたの?」

 看護師長に叱られてしまったが、本当のことなど言えるはずもなく、美奈子はひたすら謝罪した。

「まったく、瀬戸さん。あなたは少し落ち着きがありませんね。さっきもあなたが廊下を走っていたと、患者さんから苦情が来ましたよ。だいたい、あなたは……」

「瀬戸さん、ちょっといいかな」

 まだまだ続きそうな看護師長の小言が、男性の声で遮られた。

「佐藤先生!」

 楽しい六人が居る病室から顔を出して、佐藤医師が手招きをしていた。美奈子は看護師長に向かって深く一礼すると、逃げるように佐藤のほうへと走って行った。

「瀬戸さんっ! 走らないの!」

 看護師長の声にドキリとしたものの、病室に逃げ込んでしまえばこちらの勝ちだ。美奈子は転げるようにして六人部屋に入った。

 静かにドアを閉めて、振り向いた途端に大爆笑された。

「美奈ちゃん、また怒られてたね」

 手術したばかりの沢田さんが、腹を押さえて笑いながら苦しんでいる。笑われるのは不本意だが、一応、看護師長の攻撃から逃れられたから、まあいいか、と美奈子はペロリと舌を出す。すると隣で佐藤医師が声を殺して笑っているのに気付いた。患者さんならいいけれど、自分と四つしか歳の変わらない佐藤医師に笑われるのは、どうにも納得がいかない。美奈子は急に恥ずかしくなってきた。

 真っ赤な顔を隠すために俯くと、佐藤医師が真面目な顔になって言った。

「瀬戸さんを呼んだのは、本当に用事があったんですよ。この走り書きのことを聞こうと思って」

 何かと思い彼の手元を見ると、検温のシートがあった。走り書きとは、そのシートに美奈子が書いた末期ガンの松谷さんの言葉だった。

「ああ……」

 美奈子は声のトーンを落とした。

「治療費が高い」「妻と子供に負担をかけたくない」松谷さんが言ったとおり、メモにはそう書かれている。

「そっか……。まいったな」

「すみません、私、何か余計なこと、したでしょうか?」

「いや、そういう意味じゃないよ、ごめんね。少し考えたいことがあるから、失礼するよ」

 佐藤医師は頭をかきながら病室を出てゆく。その様子を患者さんたちが心配そうに見つめているので、美奈子は話題を変えるように大きめの声で言った。

「あの、ちょっとお聞きしたいんですけど、最近病院で、赤いワンピースの女の子を見かけた方はいらっしゃいませんか?」

「白いワンピースなら目の前にいるけどなあ。あ、でももう、女の子じゃねえな」

 平助おじいさんがにやりと笑いながら言ったので、皆が笑った。病室が明るいムードになったので、そろそろ立ち去ろうとすると、喉に痰を詰まらせながら、和久さんが美奈子を呼んだ。

「和久さん、どうされました? 痰をとりますか?」

 ベッドの脇に行くと、和久さんは掠れた声で言った。

「見たよ、俺、赤い服の女の子」

「え、どこで?」

「川辺さんと、談話室で話してた」

 美奈子は考え込んだ。川辺さんは、もうひと月以上前から寝たきりだ。和久さんはいったい、いつの話をしているのだろう。

 いつ見たのかと尋ねると、彼は桜の頃だと答えた。およそふた月前である。その頃ならば、まだ車椅子で散歩が出来たなと、美奈子は合点がいった。でも、美奈子が聞きたいのは、そんな前の話ではない。

 和久さんは美奈子の落胆した表情には気付かず、頷きながら言った。

「そうそう、可愛い子でさ。きっとあれはお孫さんだな」

「へえ、どんな子だい? うちの孫より可愛いかね?」

 隣のベッドから平助おじいさんが尋ねる。

「長い髪で、目の大きな女の子だった」

 和久さんの言葉に、美奈子の心臓が大きく打った。

「和久さん、あ、ありがとうございます……」

 かろうじてそれだけ言って、彼女は病室を後にした。

 ドクンドクンドクンドクン

 歩くたびに、心臓が暴れ、血液が上昇するように感じる。

 赤い女の子と川辺さんは、知り合いだったのだろうか? でも、川辺さんはもうお亡くなりになっている。それなのに、今日また病院で見かけたのは、いったいどういうことなのだろう? 

 和久さんの見た少女と、私の見た少女は同一人物ではないのかもしれない。けど……。それにしては特徴が一致している。これは単なる偶然? 自分は、何か大事なことを見落としていないだろうか。

 疑問符だらけで頭の中が整理できない。

「ああ、わかんない」

 美奈子は立ち止まって廊下の窓を見た。紫色に暮れてゆく空は、美奈子をひどく落ち着かない気持ちにさせる。

「こんなときに相談できる彼氏でもいればいいのに」

 ぽつりと声に出して呟くと、頭の中に佐藤医師のとぼけたような顔が浮かんでしまった。美奈子は慌てて佐藤のヴィジョンを頭の中から追い出した。

「いかんいかん、あんな忙しい人は絶対にあたしを不幸にする!」


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