↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/3

第一話 臨終

 美奈子はベッドに横たわる老女をじっと見下ろしていた。蛍光灯の灯りの下、血の気の無い肌がロウのように青白い。清拭を終え、洗いたての浴衣に着替えていても、もう彼女の目は二度と開かない。穏やかな笑みを浮かべて、「看護婦さん、ありがとう」と、感謝の言葉を述べることもない。ましてや、嫌悪感たっぷりの表情で、美奈子のがさつさをたしなめることすらもないのだ。

 老女の亡骸だけを残したまま、美奈子は処置室のドアを開けた。母親の急変を聞いて駆けつけた家族五人が、処置室の外に待っていた。

 老女の息子と思われる中年の男性が美奈子に問いかけた。

「あの、看護師さん、母は?」

 美奈子は背後のドアにちらりと目をやって言った。

「明け方に息を引き取られて、こちらにいらっしゃいます。今、担当の医師を呼んでまいりますので、処置室の中でお待ちください」

 事務的に言って頭を下げる美奈子の横を、家族らが慌ただしく行き過ぎた。処置室のドアが開くと同時に、女性のすすり泣きが耳を打つ。美奈子は足早にその場を立ち去った。俯いたまま、内科病棟の長い廊下を歩いて行く。閉じ込めておいた涙が、とうとう溢れ出してしまい、廊下の中ほどにある患者専用のトイレに駆け込んだ。


 看護師の仕事について、もうすぐ三年になる。特に末期の患者さんが多い内科病棟の担当になって丸二年が経とうとしているというのに、それでも、お世話をした患者さんが亡くなったときは、いつも動揺してしまうのだ。

 ――どんなときにも冷静に、努めて明るく。

 看護師長の口癖を思い出して、美奈子はトイレの個室でため息をついた。トイレットペーパーで鼻をかんで目元を拭うと、何とか感情を抑えられそうだった。早く担当の先生を呼んでこなければいけない。当直明けだから、担当の佐藤医師はきっと自席に居るはずだ。

 ――また、泣いているの?

 からかうように言う、若い男性医師の顔が脳裏に浮かび、美奈子はぐっと唇を噛みしめた。

 トイレから廊下に出たとき、目の端に赤いものが映った。何気なく振り返ると、廊下の向こう、先ほどの処置室前に赤いワンピースを着た少女が立っているのが見えた。少女は処置室の閉じられた扉をじっと見つめている。ノースリーブの肩口から出た腕が細い。背格好から考えて、年齢は小学校高学年か中学生くらいに思えた。亡くなった患者さんの家族かもしれない。美奈子は少女の方へ一歩、二歩と戻りかけた。すると、少女がこちらに気付いて振り向いた。

 小ぶりの顔の周りを、漆黒の髪が縁取っているが、廊下の薄暗がりで表情がはっきり見えず、美奈子は目をすがめた。

「川辺さんのご家族のかたですか?」

 大きめの声で問いかけると、少女は一歩、二歩と後ずさりをはじめた。美奈子が足を踏み出すと、少女は逃げるようにして廊下の角を曲がって走り去った。長いさらさらの黒髪が、華奢な赤い背中で揺れていた。

「瀬戸さん、またこんなところでぼーっとして、どうしたの?」

 背後から男性の声がして、美奈子は振り向いた。男性は、レモンイエローのYシャツにノーネクタイで白衣を羽織っている。下がり気味の目がいつも笑っていて優しそうだと皆は言うが、美奈子にとっては、ドジな自分の事を小バカにしているように見えるのだった。

「あ、佐藤先生。川辺さんのご家族が到着されました。ご家族は今、処置室に……」

「そう。じゃあすぐに行かなきゃね。瀬戸さんさあ、ナースステーションに戻ったら、川辺さんのカルテ持ってきて」

「はい、わかりました」

 一礼して立ち去ろうとする美奈子に、佐藤医師は柔らかな声で言った。

「当直ご苦労さまでした。引継ぎしたら、早くあがってください。とても疲れた顔をしているよ。まあ、昨夜は本当にきつかったよね。僕もまさか川辺さんが……」

 立ち止まって振り向いた美奈子に、曖昧な笑みを浮かべると佐藤医師は手をひらひらと振った。それは、「なんでもないよ」というゼスチャーだったが、どこか力なく見えた。

 どうにも、いつもの彼らしくない。

 美奈子は白衣を翻して大股で歩き去ってゆく佐藤医師の背中を見送って、小声で呟いた。

「佐藤先生、なんでもないよって顔じゃ、ないじゃん……」


 引継ぎを済ませ、畳敷きの更衣室で白衣から私服に着替えると、ようやくホッとする。昨夜一緒の当直だった先輩看護師の真弓が、慌ただしく更衣室に駆け込んできた。

「美奈ちゃん、お疲れさまね」

「真弓さんこそ。私が川辺さんにかかりきりだったから、他の患者さんのお世話で大変でしたよね」

「うん、でもほら、泌尿器科の山下さんが一時的にヘルプに来てくれたから」

 看護師の人数不足はどこの病院でも深刻な問題になっていて、それを解消するためにこの病院では他科へ手伝いに行ったり、来てもらったりすることがある。ただし、他科の看護師が手伝えることは、それぞれの科でごくわずかなことに限られている。医療ミスやその他、責任を問われることを防ぐためだ。でも、たったひとりであたふたするよりも、誰かに来てもらえると思うだけで心にゆとりが出来るものだ。美奈子も当直のときに、何度か他の科に手伝いに行ったことがある。

「でも、正直言ってさすがに疲れたから、早く帰って、子供が学校から帰ってくるまでの間に寝るわ」

 真弓はすごい早さでTシャツとジーンズに着替えると、化粧直しもせずに更衣室を出て行った。働く主婦はパワフルだ。真弓を見るといつも思う。きっと彼女は、目の前で患者さんが亡くなっても、自分のようにぐずぐずと泣いたり、いつまでも気にしたりしないのだろう。昨夜、川辺さんの最後を看取ったのが美奈子ではなく真弓だったとしても、彼女はきっと同じように家に帰って、子供が帰宅するまで熟睡するに違いない。

 美奈子は後ろでひとつに束ねていた髪を下ろすと、カバンを手に更衣室を出た。

 スタッフ専用の通用口から表に出ると、灰色の空が広がっていた。梅雨時特有の湿気を含んだ風が吹いてきて、美奈子の白いプリーツスカートを揺らした。今にも泣き出しそうな空の下、病院の裏手にある看護師寮に帰ろうと思ったが、体はとても疲れているのに、眠れそうもない気分だった。美奈子は寮とは反対の、商店街へとつづく正門のほうへ向かって歩き始めた。

 敷地内に植えられた桜の巨木を見上げながら、記憶の中へと迷い込む。今は頭上いっぱいに緑の葉を茂らせているけれど、春は見事な花を咲かせていたっけ。その、薄紅の桜を見ながら、亡くなった川辺さんと散歩をした。ゆっくりと車椅子を押して歩く美奈子に、何度もお礼を言う老女。

 ――これが最後の桜かもしれないわねえ。

 そう言って見上げた白い顔は、全てを受け入れた者の穏やかな顔つきだった。

でも、昨夜臨終の間際に見せた表情は……。美奈子は歩きながらふるふると頭を振った。

 末期の胃癌は激しい痛みとの戦いだ。川辺さんは、延命治療よりも痛みを和らげることを望まれた。だから、最後は意識が混濁していたのだろう。

「だから、あんなふうに……」

 美奈子は独り言を呟いた。佐藤医師が駆けつけるまでの間、美奈子と老女は病室に二人きりだった。発作に見舞われた老女は、苦悶の表情を浮かべて涙を流した。彼女は、枯れ枝のようになってしまった手で、自身の口を覆った酸素マスクをがっと剥ぎ取った。制止する美奈子の手を振り払い、歯の無い口を金魚のように開け閉めする形相は、正直言って戦慄を覚えるほどに恐ろしかった。それでも美奈子はなんとか冷静さを保ち、苦しげな息の下の、最後の言葉を聞き取ろうと彼女の口元に顔を寄せた。饐えたような加齢臭に混じって、死の匂いが美奈子の首筋辺りにまとわりついてきた。

 ぜいぜいという呼吸音しか聞き取れず、あきらめかけた時だった。血走った目をカッと開き、苦しんでいた老女がいきなり上体を起こしたのだ。そんな体力がいったいどこに残っていたのだろう。今思い返しても、有り得ないことだと思う。そのとき美奈子は驚いて、手にしていた酸素マスクを取り落としていた。透明のチューブにつながって、ベッドの脇にだらりと下がったマスクが揺れる。患者はひきつけたように痙攣したかと思うと、声を発した。

「この小娘は……。遅い、何故もっと早く来なかったんだい。まったく、本当に……なんて役立たずな子……」

 呻るような野太い声で言って、老女はにたりと笑った。彼女がはっきりと言った言葉を聞いて、美奈子は動くことが出来ず呆然と立ち尽くした。地獄の底から聞こえてくるような声は、優しい老女の声ではなかった。老女は言い終わるや否や、どさりと枕に沈んで動かなくなった。

 ――今のは、なに?

 サンダル履きの足音と共に佐藤医師が駆けつけてきたとき、美奈子は汗だくになって震えていた。

「せ、先生、川辺さんが……」

 動揺してしまい、うまく今しがたの患者の様子を説明できなかった。美奈子は仕方なく、チアノーゼが出ていることと、意識混濁を告げたのだった。その後懸命に手を尽くしたものの、意識は回復することなく川辺さんは息を引き取った。

 鬼のような形相で発した言葉がいったい何だったのか、もう知るすべは無い。小娘とは、いったい誰のことなのだろう? 美奈子のことを指したという可能性もある。川辺さんから見れば、自分は間違いなく小娘だ。

でも……。美奈子は立ち止まった。昨夜のことを詳細に思い出そうと、ぎゅっと両目を閉じて、右手の指で目頭のあたりを揉んだ。

 川辺さんは確かに「遅い」と言った。でも、自分はナースコールが入ったとき、すぐさま駆けつけたはずだったから、「遅い」と罵られてもどうしようもない。自分に落ち度はないはずだと、美奈子は自身に言い聞かせた。

 ――きっと患者さんは苦しかったから、一秒が、まるで一分のように長く感じたのかもしれない。

 病院の正門を出て、ゆるい坂を下っていくと、ぽつりぽつりと雨が降り出した。傘のない美奈子は、歩みを速めて目的地を目指した。『市立総合病院前』のバス停を通り過ぎて数十メートルのところに、レンガ造りの紅茶専門店がある。その店は、『紅茶館』という、ごくありふれた名前だが、店長の手作りケーキが絶品で、病院の看護師たちの行きつけになっていた。

 もしも『紅茶館』で知り合いの病院スタッフに会えたら、このモヤモヤする胸の内を聞いてもらいたいと思った。できれば気心の知れた看護師がいい。

 そんな都合のよいことを思いながら木枠のはまったガラス扉を引き開けた。スポンジの焼ける甘い香りが鼻をくすぐる。カントリー調に統一された明るい店内は、店長の奥さんの趣味でパッチワークキルトがあちこちに飾られている。美奈子は素早く店内に視線を走らせた。木目の美しいカウンター席には、誰も居ない。三つある白木のテーブル席のうち、一番奥に、黒っぽいスーツを着た女性客が一人で座っているだけだった。

 美奈子は落胆して、大きく息を吐いた。どっと疲れが襲ってきた。彼女は高さのあるカウンター席によじ登ると、奥に向かって声をかけた。

「こんにちは。お客さんですよ~」

カウンターの奥から、エプロン姿の中年男性が顔を出した。

「やや、いらっしゃい。今ちょうどケーキのスポンジをオーブンから出したところでね。手がふさがってて」

 小太りの店長は、メガネの奥の目を細めるようにして、人懐っこい笑みを浮かべた。やはり「マスター」というよりは「店長」という呼び方が似合うな、と美奈子は思う。店長は美奈子の前にメニューを押しやりながら尋ねた。

「降ってきた?」

「へ?」

「雨だよ、雨」

 ああ、と頷いて、美奈子は自分の前髪をかきあげた。細かい雫でしっとりと湿っている。

 店長はメニューを渡しておきながら、注文も聞かずに勝手に紅茶の茶葉をブレンドし始めた。

「疲れてるときは、香り豊かなロイヤルミルクティーがいいんだよ」

 美奈子はクス……と笑ってメニューを返却する。さっき佐藤医師にも言われたが、そんなに疲れた顔をしているのだろうか。

「昨夜ね、患者さんが一人、亡くなっちゃって……」

「そっか、看護師さんも辛い仕事だね」

 店長は湯気を立てているティーポットを手に取った。甘い焼き菓子と紅茶の香りが混ざり合い、美奈子の首筋にまとわりついていた死の匂いを消し去ってゆく。

 末期の患者さんも扱う病棟だからといって、毎日のように誰かが亡くなるというわけではない。元気になって退院してゆく人だって、たくさん居る。人が亡くなるという感覚に慣れたくないし、患者さんはどんな病気であろうとも、命があるかぎり、ぎりぎりまであきらめないで欲しいと思う。そのことを店長相手に口にしようとしたときだった。

 美奈子の視界の端に、赤い色が横切った。ふと入口近くのガラス窓に目を向けた美奈子は、バス通りを挟んで反対側の歩道を歩く、赤いワンピースの少女を見つけた。今朝、川辺さんの処置室前に居た少女に違いない。長い黒髪を肩まで垂らした少女は、自然光の中で見るととびきりの美少女だった。小さな顔に、大きな黒い瞳がとても印象的だ。

 美奈子はカウンター席から滑り降りると、通りが良く見える四人掛けの座席に移動した。赤い服の美少女は、一人ではなかった。黒のタンクトップに迷彩柄のボトムズを腰ではいた男の子と一緒だ。美奈子はふっと微笑んだ。男の子の後を、一歩下がってついてゆく少女がとても初々しくて微笑ましい。絹糸のような銀色の雨の中で、傘も差さずにゆっくりと歩いて行く二人は、どこかメルヘンチックだ。

 彼らに重ねて、自分の少女時代のことなどを心の中で振り返ってみる。初めてのデートは、中学二年生のときだったっけ……。

 男の子は高校生くらいだから、あの女の子は中学生かな。雨の中の二人から目をそらしたときだった。

 大きなブレーキの音が響き渡った。ほんの一瞬の出来事だった。美奈子が再び目を向けたときには、通りの中央、赤い軽自動車の前に、男の子がうつ伏せで倒れていた。美奈子と店長は同時に店のドアに飛びついた。交通事故だ。

 赤い軽自動車の運転席から中年の女性が降りてきた。女性は腰が抜けたようによろめいて、倒れた少年にとりすがった。

 美奈子と店長がバス通りを横切って近づいたとき、少年がゆっくりと上体を起こした。美奈子はほうと息を吐いた。

 ――死んでなかった。

 それでもケガをしている様子で、少年は一度上体を起こしたものの、すぐにくず折れてしまった。彼は苦痛に顔を歪めて、濡れたアスファルトに横向きで転がり、えびのように身を縮めた。美奈子は冷静さを取り戻すと、少年に駆け寄った。

 蒼白な顔で少年に取りすがっている女性ドライバーに、救急車と警察を呼ぶように声をかけた。すると少年が呻いた。

「お願い……。警察は、呼ばないで……」

 女性ドライバーはどうしていいかわからないと言った様子で美奈子の顔を見上げる。

「警察は呼ばなくていいから……。オレ、大丈夫だから。お願い……。五万円くれたら、それで病院に行くし……」

 少年は口からごぼりと血を吐いた。もしかしたら内臓が傷ついているかもしれない。

「五万円なんて、今、持ってないの。さ、三万円しかない」

 そう言って、女性ドライバーはどこからか財布を取り出して三枚の紙幣を少年の手に押し込んだ。美奈子はキッと女性を睨んだ。

「なにしているんですか! そんなことよりも、早く救急車と警察を」

「やめて! お願いだから……」

 少年は美奈子の手を振り払おうとして顔をしかめた。背丈が大きかったから高校生かと思ったが、良く見ればまだあどけない顔をしている。もしかしたら、少女と同じくらいの年齢なのかもしれないと、関係のないことが頭をよぎる。

 あれ……?

 美奈子は周囲をぐるりと見回した。赤いワンピースの少女が居ない。彼氏が事故にあったというのに、彼女はどこへ行ってしまったのだろう。

周囲がざわつき始めた。道路を塞ぐようにして止められた赤い軽自動車を、後続車が追い抜いてゆく。美奈子はイライラしてきた。誰も警察や消防に電話をしていないのだろうか。また一台、黒いスカイラインが徐行して追い越してゆく。少年は相変らず転がったままで「警察はやめて」と繰り返している。

 今、追い越したスカイラインがハザードを点灯して、すぐそばの路肩に停車した。黒光りするドアが開き、運転席から黒いスーツの女性が降りてきた。美奈子は、その女性がさっき店のテーブル席に居た人だと気付いた。

 スーツの女性はワンレングスの髪を揺らして駆けてきた。走りながら大きなよく通る声で言った。

「私の車に乗せましょう。とにかく病院はすぐそこなんだから、救急車より早いわ。みんなでケガ人を運びましょう」

 美奈子は大きく頷くと言った。

「私、そこの病院の看護師です。ご案内しますので、救命の搬送口へ車をつけてください」

 女性は、集まり始めたやじうまの男性たちに向かって、テキパキと指示を出した。

「頭側に二人ついて。腰の部分を支えてね。そっと、ゆっくり運んでちょうだい」

 少年をリアシートに乗せると、美奈子は助手席に乗り込んだ。携帯電話で病院の救命に直通電話を入れる。

 スーツの女性は、店長と事故を起こした女性ドライバーに向かって大きな声で言った。

「とにかく、警察に電話して事情を説明しなさいよ、わかった?」

 スカイラインはUターンして走り出した。

「お願い……やめて」

 後部シートで呻く少年の声がかすかに聞こえて、美奈子は助手席から振り向いた。少年はぐったりと目を閉じたまま動かない。雨に濡れた右手に、さっき女性ドライバーが押し込んだお札がぎゅうと握られていた。


 救命の搬送口では、男性看護師と医師が待っていた。スーツの女性と美奈子が手伝って、四人で少年をストレッチャーに載せた。

「今、ちょうどオペが終わったところだ。手が空いていて、よかったよ」

 色黒の救命医は、白い歯を見せてにまっと笑う。彼は、ストレッチャーの横に付き添う美奈子を、まるで値踏みするみたいな視線で見ながら言った。

「キミ、内科の子だよね? このボウズと知り合い?」

「あ、内科の瀬戸と言います。この男の子は、私が見ている前で偶然交通事故にあったので連れてきました。知り合いではないです」

 言いながら、美奈子は色黒医師の名札に目をやった。『救命救急・医師 浅川』と書かれている。浅川医師は「ふうん」と言って、今度は少年を見下ろした。美奈子の逆側に付き添っていた男性看護師が言った。

「浅川先生、この子って……」

 二人は目と目を見交わして、複雑な表情をした。美奈子は二人の様子から、病院内の暗黙のルールを思い出した。救命はとても忙しいと聞いている。飛び込みで急患を連れてきたからには、それなりに感謝の意を表さなければいけないのだろうか?

 難しい顔つきの浅川医師に、美奈子は恐る恐る尋ねた。

「あの、私、当直明けなんですけれど、何かお手伝いできることがあればおっしゃってください」

 浅川医師と男性看護師は再び顔を見合わせたが、そのまま何も言わずに患者を処置室に運び入れた。

 何か手伝おうかとカバンを下ろした途端、美奈子は処置室の外に追い出された。彼女は狐につままれたように、ぼんやりと閉ざされたドアの前に立っていた。さすがに、救命にヘルプに来たことはないから、あの二人がどんな人間なのかよくわからないけれど、締め出されたということは、美奈子に手伝えることなど、何もないのだろう。

 カバンを肩に掛けなおし、どうしたものかと廊下をうろついていると、男性看護師が処置室から出てきた。美奈子は無意識に彼のニキビ面から胸の名札へと目線を走らせた。

『救命救急・看護師 宮下』とある。宮下は美奈子のそばに来ると言った。

「さっき、何か手伝うって言ったよね? じゃあさ、さっきの男の子の身元、調べてよ」

「へ?」

 何でそんなこと? と、問いかけるような表情になっていたのだろう。宮下が上からモノを言った。

「病人の世話だけしてりゃいいってもんじゃないんだよ、救命は。搬送されて治療してやっても、どこの誰とも名乗らずに、無銭飲食ならぬ無銭治療で消える不届き者がいやがる。だから、早めに患者の身元を確認しなきゃいけないんだ」

 そんなことまで気にしなければいけないのだろうかと、美奈子はぼんやりした顔で宮下を見た。彼はイライラしたように言った。

「さっきの男の子だけど、半月ほど前にも運び込まれたんだ」

「え?」

 宮下は、何が言いたいのだろう? 美奈子が問いかけるような眼差しを向けると、彼は吐き捨てるように言った。

「打撲による内臓損傷で腹ん中縫ったってのに、二日後に病院から消えたんだ」

 美奈子は大きく目を見開いた。なんてムチャなことをするんだろう。どんなに宮下たちが心配して探したことか、目に見えるようだった。

「交通事故なら、警察に聞けばいい。救急車は呼ばなかったみたいだけど、警察には連絡したんでしょう?」

 ――警察を呼ばないで

 呻くように言う少年の言葉が、美奈子の脳裏に甦る。

 バタンと背後でドアが開閉する音がした。振り向くと、処置室の向かいにあるオペ室から、ストレッチャーに乗った患者が運び出されてきた。ブルーの手術着スタイルの看護師が二人、付き添っている。廊下に立ちふさがる形になってしまった美奈子は、慌てて宮下看護師の隣に身を寄せた。ストレッチャーの一団は、ガラガラと大きな音をたてながら、美奈子の前を通り過ぎた。ちらりと患者に目を落とすと、小学生くらいの女の子だった。ずれた毛布から、首や胸に当てられたガーゼや包帯が見える。何本ものチューブが彼女の体から伸びていた。

 ICUに運び込まれる女の子を見送っていると、隣の宮下がぽつりと言った。

「さっき運ばれてきたんだ。あの子、大やけどを負っていてね。かなり厳しい」

「え?」

 美奈子が振り向いた時には、宮下はもう踵を返して処置室に入ってしまった。


 夜勤明けの疲れで頭痛がする。美奈子は暫くの間、救命の廊下をうろうろと歩きまわっていたが、入口に一番近いソファに腰を下ろした。少年を運んでくれたスカイラインの女性は、いつの間にか居なくなっていた。

「みんな、忙しいのね……」

 ぽつりとつぶやくと、また目の端にすうっと赤い色がよぎった。そちらに顔を向けると、廊下の突き当たりに、赤いワンピースの少女が立っていた。美奈子は目をしばたたいた。いつの間に来たのだろう。しかも、入口付近に陣取っている自分の前を、いつ彼女が通ったのか、わからなかった。どこかに別の出入り口でもあるのだろうか。

 美奈子は立ち上がると、少女に近づいていって声をかけた。

「彼氏、今治療しているから。心配しないで」

 少女はつぶらな瞳を大きく見開いて後ずさった。なんだか気の毒なくらいに怯えている。とうとう背中が壁にぶつかった。

「交通事故見ちゃったんだもんね。怖かったよね」

 そう言って笑顔を向けると、少女が囁くような声で言った。

「あなたは……誰? どうして私に話しかけるの?」

 美奈子は笑顔のままで言った。

「私はこの病院の看護師なの。だから、あなたの彼氏を助けようと思って、ここへ連れて来たのよ」

「彼を、助けてくれるの?」

 大きく頷くと、少女は安心したように笑みを浮かべた。まるで花が咲いたように可愛らしい笑顔だ。

「ねえ、彼氏は前に内臓損傷で手術をしたんですって?」

 尋ねると、少女は笑顔を引っ込めた。花がしぼんで、悲しい顔になる。美奈子は自分のデリカシーの無さを呪った。

「あの人は、……また体が傷ついたの?」

 少女は泣きそうだった。「また」というフレーズが気になったが、とりあえず少女を安心させようと思い、美奈子は「大丈夫よ」と言って少女の肩をポンと叩いた。手のひらの下にある、その華奢な骨格にちょっと驚く。

「お願い、あの人を助けて。私にできることは、何でもする」

 美奈子は彼女が可哀想になってしまった。一刻も早く、安心させてやらなくてはいけない気がしたので、処置室を覗いてきてあげると請合った。

 ノブに手をかけて、そっと処置室のドアを開けると、ちょうど手当てが済んだところだった。

 振り向いた色黒医師が、マスクを外しながら言った。

「左腕を骨折してるね。あとは、全身を強打したときに、前回やられた脾臓の傷から出血したみたいだ。でもまあ、微量だから、とりあえず応急処置はこれまでだね。後は様子を見て精密検査に回すかどうかって感じかな。どちらにしても、数日入院して安静にしていれば大丈夫だよ」

 美奈子はぺこりと頭を下げた。目を閉じて横たわる患者を見ていると、背後から宮下が小声で囁いた。

「警察に、聞いてみた?」

 美奈子はビクンとして振り返ると、宮下を睨み付けた。ケガをした少年を悪者のように扱う彼が、なんだか気に食わなかった。もともと彼のニキビ面も美奈子の趣味では無い。

「大丈夫です。彼のお友だちが駆けつけてきましたから。ご心配には及びません」

 ややつっけんどんに言うと、宮下は「そう、よかった……」とマスクの中でもごもご言って、気弱そうに目を伏せた。


 美奈子は看護師寮の自分の部屋に戻ると、どさりとベッドにひっくり返った。もうすでに三十時間以上起きている。そろそろ体が限界だった。

 うつらうつらする頭で、赤いワンピースの少女のことを考えた。

 美奈子が少年の容態を見て処置室から戻ったとき、少女の姿はどこにも無かったのだ。あれほど心配していたから、まさかいなくなるとは思っていなかったので、かなり焦った。後から廊下に出てきた宮下に、思い切り嫌味を言われてしまったことも、気分が悪かった。

 ――で、男の子の身元は確認できたんだよね? え? まだ聞いてないって、どういうこと? しっかりしてよ!

 紅茶館の店長が警察に連絡しているはずだから、万が一あの少女と会えなくてもきっとなんとかなるだろう。

 考えることに疲れてしまった美奈子は、頭の中で勝手に解決させると気だるい眠りの中におちていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。