第二話 荷車の縁
春先の丘は、売り物の少ない季節である。
冬のあいだに蓄えを食い潰した家は、財布の口が固い。塩は要るだけしか買わず、反物は見るだけ見て、秋になったらね、と言う。だから春の荷車が積んで帰るのは、品物の利ではなく話である。どこの家に何が要るか、どこで祝いがあるか、どこの婆さまが冬を越せなかったか。話は目方がないから荷台を占めないし、夏の荷の積み方を決めてくれる。行商人にとっては、いちばん安く仕入れて、いちばん高く使える荷だった。
その朝、東へ下る道の先に人影を見つけたときも、モイラの目は人より先に籠を見た。
背中いっぱいの負い籠である。丘の者の背負い方ではなかった。荷を体に貼りつけ、腰で高さを支えて、揺らさない。壊れ物を運ぶ人間の背中である。
値の付く背中だ、と思った。
「声継ぎさん! 乗ってくかい」
振り向いたのは、思ったより若い娘だった。十九か、二十か。日に灼けていない顔で、目だけが、朝のわりに明るすぎた。
「ダンロッホまでなら、銅貨一枚でどうだい」
春の相場に、少しばかり色を付けた値である。壊れ物を負っている者は足を惜しむ。惜しむ気持ちには、たいてい値が付く。
「片道半日を一枚?」娘はにっこり笑った。笑ったが、足は緩めなかった。「あたしの足なら、ただで着くよ」
高いとも安いとも言い返してこない。値そのものを疑ってきた。
モイラは釣り針を替えた。
「その負い籠しょって、丘二つ越えて、器を大事に抱えて、かい」
「大事に抱えて、ね」
「途中でつまずいて落としでもしたら、銅貨一枚どころの騒ぎじゃなかろ」
娘の目のあたりを、狼狽が一つ、走って消えた。
掛かった、とモイラは思った。狼狽ほど確かな担保はない。
「ね。二枚だ」
「上がったよ、いま!」
「一枚半」娘は指を一本立てた。「そのかわり、荷の上げ下ろしは手伝う。その塩の袋、膝で押さえながらじゃ辛いでしょ。あと道々、あんたの荷の売れ口をひとつ教える」
「売れ口?」
「あたし、声継ぎだよ。丘じゅうの家の、どこが祝いでどこが弔いか、負い籠を見せりゃ道の人が先に教えてくれる。祝いの家は気前がいい。塩も余分に買う」
モイラは、たっぷり三つ数えるあいだ、娘を見た。
値切られたのではない。値を組み替えられたのである。足の代を一枚半に落として、落としたぶんの穴を、話で埋めてきた。しかもその話は、こちらの夏の荷をまるごと積み替えさせる種類の話だ。差し引きで得をしたのはこっちで、得をしたとこっちに思わせてから乗るのがこの娘のやり口である。丘を回りだしてこのかた、こういう客はそう出ない。
歯を見せて、笑った。
「……乗んな。あたしはモイラ。話のわかる声継ぎは、好きだよ」
荷台は、揺れるぶんだけよく喋る。
丘を一つ越えるあいだに、モイラは土地の噂を一荷ぶん並べ、娘はそれをぜんぶ面白がった。面白がる客は上客である。牛が双子を産んだ話でも、畑の境の石が夜のうちに動いた話でも、こっちが張った値のとおりに笑ってくれる。
「今年もね、忙しくなるよ」モイラは手綱を繰りながら言った。「年の締めに、寄り合いの月があるからね」
「寄り合い?」
知らないのかい、と口では言い返しながら、モイラは内心で首を振った。氏族長が集まれば供の衆も集まる。供が集まれば腹が減る。腹が減れば塩が売れる。それだけの算術は、坂の町の生まれなら鼻でも弾けそうなものだ。売れる月が年の締めなら、仕込みは春からである。行商人の一年は、いちばん遠い月から逆さに数える。この娘の算盤は、どうやら別の桁を弾いている。
丘二つ目の上りにかかったところで、娘が鼻歌を始めた。
モイラは行商人である。耳に入るものには、まず値を付ける癖がついている。
……値が、付かなかった。
「あんた」
「うん」
「その唄はね、荷に積んでも売れないよ」
「ひどい」
「ひどかないさ。売れないもんを売れないと言うのが、商いの親切だ」
轅の先で、耳が二つ、うしろへ倒れていた。モイラは顎でそっちをしゃくった。
「ほら。あっちのほうが、正直だ」
娘は声を立てて笑って、それきり歌わなかった。笑って引っ込める客は、扱いやすい。
昼を少し回って、荷車はダンロッホの谷へ下りた。
「あたしはこの先の村まで。あんたの詫びの家は、川をさかのぼった谷のいちばん奥だとさ」荷車を回しながら、モイラは川上を顎で示した。「三日はこのあたりをうろつくよ。帰りもこの道を通る。乗りたきゃ、川端で待ってな」
娘は荷台から飛び降りて、負い籠を担ぎ直し、革紐の掛かりを二度確かめてから、川沿いの道を上っていった。二度確かめる手つきだけは、値切りの上手な小娘のものではなかった。
銅貨一枚半を、モイラは前掛けの隠しへ落とした。
落としてから、なぜだか一度、掌の上で目方を確かめた。
*
谷の話は、三日でひととおり集まった。
行商人は、人の家の事情を仕入れる。仕入れるが、売り歩かない。訊かないことと、聞いても言わないことは、商いの徳のうちである。徳というより、これは元手だ。口の軽い行商人からは、誰も何も買わない。
だから三日のあいだに、谷奥のことも、モイラの耳には黙って溜まった。フィンタン爺の息が細いこと。丘の斜面で羊を飼っている弟が、二十年、その名を口に出さないこと。二十年前に何があったかは誰も知らないが、知らないなりに、みんなが決まった顔でその話をやめること。それから――そこへ声継ぎが上がっていったこと。
溜まったところで、値は付かない。人の家の二十年は、荷台に載らない。
三日目の夕、モイラは川端へ車を寄せて待った。
洗い物に来た女が、袖を絞りながら言った。
「谷奥の爺さまがね」
「ああ」
「けさ方から、息が遠うなってなさるって」
女はそれだけ言って、帰っていった。しばらくして、川上のほうから、村の子どもが二人、何か言い交わしながら駆け下りていった。子どもの足が速い日は、たいてい、報せが速い日である。
日が丘の背にかかるころ、坂の道に負い籠が見えた。
娘は、膝の上に素焼きを二つ抱えて乗ってきた。籠にも入れず、懐にも入れず、両手で。
行きは、一つだった。
一つが二つになって帰ってくる道理を、モイラは知らない。知らないが、訊かなかった。行きが一つで帰りが二つなら、増えたのは荷ではなく、この娘の内側に増えたもののほうだろう。そういう荷には値が付かないし、値の付かない荷のことを人に訊くのは、商いの作法ではない。
荷台は、しんとしていた。
行きにあれほど喋った娘が、丘一つぶん、何も言わない。車輪の音と、蹄の音と、遠くで鳴く鳥の声。同じ丘が、帰りは一つよけいにあるように思われた。荷が軽いほど道は短くなるはずなのに、この帰りは逆さまだった。
丘の上で、日が横から射した。
娘の膝の上で、二つの素焼きが夕日を返した。二つとも、なんの飾りもない、ただの焼き物である。役目の済んだ器は、ただの素焼きに戻る――それくらいのことは、丘の者なら誰でも知っている。知っているが、その二つがそれぞれ誰の何であったかは、この娘のほかに、この世に誰も知らないのだった。
モイラの口が、勝手に動いた。
「……あんたら声継ぎは、さ」
「うん」
「死に目の声ばかり運んで。よく、平気だね」
言ってしまってから、手綱を握り直した。
訊く筋合いではなかった。訊かないのが商いの徳だと、たったいま自分で数えたばかりである。それなのに、口のほうが先に出た。
娘は、笑った。
答えは、しなかった。答えるかわりに、膝の上の素焼きを、そっと撫でた。
その手つきを、モイラは横目で見ていた。荷を撫でる手つきではなかった。値の付いたものを撫でる手つきでも、なかった。
*
その晩、荷を解きながら、モイラは自分の口から出た問いのことを考えていた。
考えるまでもない。出所は分かっている。分かっているから、訊いてしまったのである。
うちの人が死んだのは、若い時分だった。
二晩である。
一日目の晩は、寝冷えだと思った。誰も坂の町のことなど考えない。寝冷えで声継ぎを呼ぶ家は、丘のどこにもない。
二日目の昼に、隣の婆さまが顔色を見て、首を横に振った。そこで初めて、モイラは声のことを思った。思ったが、坂の町までは半日、行って戻って一日である。そしてその時分にはもう、うちの人の口は、語れる口ではなかった。使いをやったところで、明くる日の昼に、間に合わない声継ぎが一人来るだけだった。
二晩目の明け方に、逝った。
子は、なかった。
最後に聞いたのは、その一日目の朝の一言である。
戸口で、行ってくる、と言った。それだけだ。行ってくる、の。何でもない朝の、何でもない一言で、値を付けろと言われたら、屑にもならない。
あくる年から、モイラは荷車を一つ持って、丘を回りはじめた。丘は広い。広いところを回っていると、家に据わっている時間が減る。それだけの話である。
声の稼業を軽んじたことは、いちどもない。値打ちのあるものだと思っている。ただ、自分の勘定にはその欄がない。頼んだことがないからではなかった。頼む宛てが、もうないからである。
値の付けようが、ないのだ。付けようのないものは、秤に載らない。載らないものは、いつのまにか、無いのと同じ顔をして胸の隅に据わる。
そこへ今日、あの娘が空の器を二つ抱えて乗ってきた。据わっていたものが、少し、動いた。
「……よく、平気だね、か」
声に出してみて、モイラは苦笑した。
平気かどうかを訊いたのは、あの娘にでは、なかった。
*
夏になると、丘の緑が濃くなって、財布の口が緩む。
荷台の中身も変わる。塩と鍋と反物の端切れに、油と、麦刈りの前の細かい金物が加わる。売れ口が増えれば、車を止める家も増える。春には昼までに済んだ巡回が、夏は日の暮れまで終わらない。
その日は、荷を積み替えるために家の前へ車を寄せていた。塩の袋を下ろしかけたところで、隣の戸口から姪の声がした。
「……どちらから」
顔を上げると、水車小屋の脇に、見覚えのある負い籠が立っていた。
モイラは塩の袋を、そのまま地面へ落とした。
「おや、声継ぎさんじゃないか! なんだいなんだい、うちの姪っこに、いったい誰が」
「モイラさん、久しぶり。……で、たぶん、あなたが荷車で繋いだ縁だよ」
「あたしの荷車が? ということは、クロスケリーの……あの、桶屋の、腑抜けかい」
合点が、音を立てて嵌まった。モイラは片手を打った。
「まあ! やっと言うてきたのかい、あの木偶の坊。去年からこっち、うちの荷を頼むたんびにメイヴは達者かの一点張りで、桶の値は上の空で――」
「モイラ叔母さん」
姪が、静かに遮った。
「聞かせて。……いま」
いま、という一語が、思いのほか強く出た。
モイラは口を閉じた。閉じてから、目もとを袖でひと拭いして、姪の後ろへ行儀よく座り直した。この子は昔から、いちばん言いたいことを、いちばん短く言う。長く喋る叔母の隣で育って、どういうわけか、そういう子になった。
座は、川端の日向に設えた。
敷物が一枚である。香も焚かず、灯も立てず、ただ声継ぎが膝を揃えて、掌ほどの素焼きを捧げた。それだけのことで、川の音が急に遠くなった。
「語り手はコナル、オーウェンの息子。宛て名はメイヴ、モイラの姪。――証しに立つは、わたくし、組合の声継ぎ」
古めかしい文句だ、とモイラは思った。古めかしいが、荷札を読み上げる声である。誰から、誰へ。それだけを、間違いのないように立てる。商いの荷札と、順が同じだった。
声継ぎを頼んだことは、いちどもない。刻み紐のほどける音を、こんなに近くで聞いたのも初めてだった。
――メイヴ。……おれだ。桶屋の、コナルだ。
モイラの背が、勝手に伸びた。
声だった。あの、樽ひとつぶんの肩をした腑抜けの声が、川端の日向に、そのままあった。荷を頼むたんびに聞いてきた、あの声である。低くて、朴訥で、言い出す前に必ず一つ息を吸う癖まで、そのままだった。
――樽なら、丈夫なのを作る。雨の漏らん屋根も、直せる。手は、悪うない。……じゃから、その。おれと、所帯を、持ってくれんか。
言えたじゃないか、とモイラは思った。思ったきりで、口は動かなかった。
――へ、返事は、急がんでええ。ほんとに、急がんでええから。……じゃあ。
じゃあ、と言ったきり、あとが続かなかった。続きを探しているのか、もう終わったのか、しまいのほうはよく分からなかった。分からないうちに、川のせせらぎと、水車のきしむ音だけになっていた。
半年のあいだ丘じゅうを腑抜けにさせた男の言い分は、締めて、それだけである。
姪は、動かなかった。
それから、両手を膝の上できゅっと握った。握った手の甲に、ひとしずく落ちた。落ちてから、顔を上げて笑った。泣きながら笑うという器用なことを、この落ち着いた子は、こともなげにやってのけた。
「……返しを、封じてもらえますか」
「もちろん。なんて、送ります?」
姪は、少し考えた。それから、新しい器を両手に捧げた。
声継ぎが膝を揃え、また文句を唱えた。
「わたくしは、ニーヴ・オケリガン。組合の声継ぎ。語り手はメイヴ、モイラの姪。宛て名はコナル、オーウェンの息子、クロスケリー在。――この座の、証しに立ちます」
名を聞いたのは、そのときが初めてだった。
荷札の文句のいちばん初めに、この娘は自分の名を置く。誰から誰へ、を立てる前に、まず自分の名を立てる。届けそこねたら、この名が残る、というふうに聞こえた。
長い長い文句のあとで、姪が器へ向かって言ったのは、たった、ひと言だった。
「はい」
迷いも、飾りも、前置きもなかった。
声継ぎは器の口を蜜蝋で塞ぎ、刻み紐を結った。結いかたは、モイラの見たことのない結いだった。それから、しばらく動かずにいた。目を伏せて、何かに耳を澄ませているようだった。何を聞いているのかは、モイラには分からない。分からないまま見ていると、娘は小さく頷いて、顔を上げた。
値の付けようのないものが、いま、掌の上で値の付くものになった。
そういう順序を、モイラは初めて見た。
「これで、締めて銅貨いくらだい」
訊いてから、自分でも、なぜ勘定に戻ったのかと思った。
思ったが、戻らずにはいられなかった。口を動かしていないと、別のものを数えはじめる。値切りは、モイラにとって、いちばん手近な幌だった。
「返しの封じと開けで、銅貨二枚が一つ。ダンロッホからクロスケリーまでの運び賃、半日道で二枚が二つ。……締めて、四枚」
「四枚っ?」素っ頓狂な声が出た。「ちょいと待ちな、声継ぎさん。あの子が言うたのは、ひと言だよ。ひと言に四枚かい。長々しゃべったって四枚だろ。割に合わないじゃないか。まけとくれ、二枚に」
「まけないよ」声継ぎは笑って、指を一本立てた。「運び賃はね、道のりで決まるの。声の長さじゃない。半日の道を運ぶ手間は、ひと言でも千言でも、おんなじだけかかるでしょ。……つまりね、モイラさん。短い声ほど、高くつくんだよ。ひと言いくらで数えたら、あの『はい』は、たぶん今日いちばん高い」
「高いっ?」
跳ね上がった。跳ね上がってから、吹き出した。
笑っているあいだは、数えなくて済む。日に灼けた顔で、腹を抱えて、モイラは思うぞんぶん笑った。姪までが、泣き笑いの顔のまま、肩を揺らした。
高い、と言われたひと言に、モイラは銅貨四枚をきっちり数えて置いた。姪の返事だ、まけさせるものかね、と胸を張って。値切って値切って暮らしてきた女が、自分から満額を置いたのである。丘じゅうに言いふらされたら商売に障る話だが、今日ばかりは仕方がない。
名を聞いたのに、モイラはやはり、声継ぎさん、と呼んだ。呼びようを変える気は起きなかった。この娘は、モイラにとって、そういう名前でここにいる。
「嬢ちゃん」
負い籠を担ぎ直す背中へ、声をかけた。
「日暮れまでに、坂は上れるかい」
「上れる上れる。半日道でしょ」
「……気をつけてお行き。落としたら、四枚じゃ済まないんだろ」
娘は振り向いて、笑って、それから丘の道へ折れて、坂のほうへ上っていった。
革紐の掛かりを、やっぱり二度確かめてから。
*
午後は、川向こうと、丘の中腹を回った。
塩がよく売れた。売れたのに、勘定が合わない気がして、日の高いうちに数え直した。合っていた。念のためにもう一度数えても、やはり合っていた。合っているのに合っていないのは、たいてい、数えている先が違うときである。
日暮れに、モイラはダンロッホへ戻った。
帰りの荷台は、軽かった。
塩が二袋に、油の甕がひとつ。売れ残りにしては上等の帰りだ。荷が軽いぶん、車輪の音がよく跳ねる。丘二つぶん、モイラはその音だけを聞いていた。
ひと言に、銅貨四枚。
商いなら笑い飛ばす値だ。現に昼間は笑い飛ばして、まけろと言って、負けた。負けて、払って、それきり忘れるはずだった。
「はい」
姪が器へ向かって言ったのは、それだけだった。聞き慣れたあの子の声のままで、けれど嫁入りの声だった。ひと言が、ちゃんとひと言ぶんより重かった。あれに四枚なら、安い。
なら、あの朝の。行ってくる、の。
値の付けようがないものを、うっかり秤に載せかけて、モイラは手綱を握り直した。
握り直した拍子に、目のふちから一つ落ちた。
声は、立てなかった。立てるほどのことでもない。丘の道が、車輪の音のぶんだけ、ゆっくり暮れていった。
丘をもう一つ越えたあたりで、ふと思い出したことがある。
姪を荷台に乗せて坂の町へ運んだのは、去年の秋だった。染物屋に用があるというので、ついでに乗せた。それだけのことである。あの子が坂の町にいたあいだに、桶屋の腑抜けが桶の値の掛け合いを三日がかりでやったのだと、あとになって聞いた。桶の値に三日かける男を、モイラは商いの上では相手にしない。しないが、あの三日は、たぶん値の話ではなかった。
あたしの荷車が、と昼間は素っ頓狂な声を上げた。
上げたが、考えてみればそのとおりである。荷を運ぶ車が、人を運んだ。人を運んだら、いつのまにか縁を運んでいた。運び賃はきっちり取ったが、縁のぶんは取りそこねた。取りそこねたぶんが、今日、四枚になって返ってきたわけだ。差し引きで、こっちの持ち出しである。
「……あたしの車も、まんざらじゃないね」
言ってから、鼻の頭を袖でこすった。
車輪が、丘二つぶん、機嫌よく鳴っていた。
*
秋の荷台は、重い。
実りのぶんだけ人が動き、人が動くぶんだけ物が動く。麦と、根のものと、冬支度の油と、婚礼の荷である。
姪の嫁入りの荷は、モイラの車で運んだ。
積みながら、数えた。反物、鍋、毛織りの上着、藍の布。行商人が同じ荷を二度も三度も数えるのは、目方が怪しいときか、下ろしたくないときのどちらかである。目方のほうは、怪しくなかった。
「叔母さん、それ二度目」
「三度目だ」
姪は笑って、それきり何も言わなかった。
言いたいことを、いちばん短く言う子である。
祝言は、そのあと秋のうちに済んだ。膳の評判だけが、丘を二つ三つ回って、あとからモイラの耳へ戻ってきた。評判のいい膳の話は塩の売れ口になる。なるが、その秋はどうもうまく使えなかった。
丘の噂は、秋が深まるにつれて、北へ寄っていった。
「声継ぎさんが、高地へ行ったってさ」
市の帰りに、道連れの婆さまが言った。
「高地?」
「峠の向こうの谷だと。なんでも、荒れとるそうな。……あんな細い娘が、よく行くもんだ」
「細くはないよ」モイラは言った。「あれの背中は、丘いちばん揺れない」
言ってから、なぜ自分がむきになっているのか分からず、荷台の縄を意味もなく締め直した。
「峠は、いつまで開いてる」
「さあねえ。高地の初雪は、丘より早いから」
早い、というのがどれだけ早いのかを、丘の者は知らない。知らないから、峠の話になると、みんな同じ言い方で言葉を切る。開いているうちは開いていて、閉じたら春まで閉じている。それだけのことだ、というふうに。
北の空の色が変わったのは、それから幾日もしないうちである。
雪催いの色だった。丘に降るのはまだ先でも、あの色が北に立ったら、峠のあたりはもう降っている。丘の者はそれを知っていて、知っているから、その色が出ると誰も北の話をしなくなる。
その日の帰りは、荷台が空だった。
秋の締めの売り切りである。荷が軽いぶん、車輪の音がよく跳ねる。上等の帰りの、はずだった。
跳ねる音を聞きながら、モイラは東の道を帰った。
丘の上で、手綱を引いた。
北の空に、腹の白い雲が一つ、動かずにいた。
――あの子は、峠のこっちか、向こうか。




