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第一話 蜜蝋と刻み紐

 蜜蝋みつろうの包みが一つ。刻み紐の束が一つ。器が、布にくるまれて一揃い。

 コルムは帳場の板の上にそれらを並べ、指差して数えた。三度目である。数はさっきから変わらない。変わらないと分かっていて数えるのは、数えているあいだだけ、胸の内が静かになるからだった。

 数えるだけでは、ない。蜜蝋の包みは口の折りを確かめ、刻み紐は束の本数を繰って、結い癖のついた一本を奥へ回した。器のくるみは布の合わせが上になるよう直した。上にしておけば、急いで解いても布が器を追いかけない。誰に教わったのでもない、帳場の日々のうちに勝手に増えた、細かい決まりごとである。決まりごとが増えるたび、しくじりの数は減る。減った数だけ、コルムは夜よく眠れる。

 未明の組合は、静かである。

 声継こえつぎの組合の本部は、坂の町クロスケリーの中程にある。声を掌ほどの器に封じ、丘を越え、入り江を渡って、遠くの宛先まで運んで開ける稼業である。その帳場の朝は、日が上がればたいてい騒がしい。騒がしくなる前のこの刻限が、コルムは嫌いではなかった。器の棚と、道具の数と、仕分けの帳面。名と数だけでできている時間である。

 今日の欄は、一行きりだった。

 石工のブラン。祝い。ダンロッホ。

 名が一つに、行き先が一つ。コルムの読み書きは帳面のためのそれで、名と数の外は怪しい。用向きの字だけは、帳面につけるから書ける。祝いの祝は、画数のわりに書くたび少し得をした気分になる字である。詫びの字は、書けるが肩が凝る。……怪しい読み書きなりに、この一行が今日、組合でいちばん重い一行だということは読める。

 姉さんの、独り立ちの初仕事である。

 炉の間から、湯の沸く音がしていた。師匠は今朝も、誰より先に起きて茶を淹れている。組合長オシーン・マクブライの未明は、物音だけでできている。戸の音、炉の音、湯の音。言葉のほうは、まだ一つも聞いていない。物音の順番が組合の朝の目盛りで、湯の音が来たら、次は姉さんの口上の稽古が来る。来るのが、これまでの決まりだった。

 帳場の灯りを立てて、コルムは廊下の奥を一度だけ見た。突き当たりの北の壁、無窓の間の扉は、錠ごと夜の色に沈んでいる。棚番の爺さまが錠を開けるのは、もう少しあとの刻限である。組合という建物は、そうやって端から順に、人の起きるたびに一つずつ目を覚ましていく。

 姉さんは、まだ寝ている。

 今日から独り立ちの人が組合でいちばん遅くまで寝ているのはどうなのだろう、と思ったが、起こしに行かないことも決めてあった。言えば三十返ってくる。朝の三十は、長い。

 だから、支度の検分だけしておく。姉さんは、忘れ物をする人である。器の扱いは丘いちばん丁寧なくせに、器のまわりの小物が、よく抜ける。抜けたぶんを数えて埋めるのが弟弟子の係だと、誰に決められたわけでもなく、いつのまにか決まっていた。

 ――この帳場は、姉さんの口上で夜が明けてきた。

 これからは、と考えかけて、コルムは首を振り、四度目を数えはじめた。

 数えながら、指のほうは勝手に、紐の結び目の頃を思い出している。


 入門の晩のことは、いまでも順番どおりに言える。

 聞き分けに通って、組合に上がった晩である。夕餉が済んで、寝間の藁が知らない匂いで、家のかまどの匂いを思い出したら、眠りがどこかへ行ってしまった。仕方なく、荷を括ってきた紐の結び目を、意味もなくほどいては結び直していた。手が止まると、胸の内が騒ぐからである。

 そこへ、灯りがひとつ寄ってきた。

 年季の姉弟子だった。

 「あんた、結ぶの好きなんだね」

 好きも嫌いもなかった。それを言うより先に、姉弟子は隣に腰を下ろして、刻み紐の端切れを一本、寄越した。

 「定めの結い、教えたげる。どうせ覚えるんだから、早いほうがいいでしょ」

 定めの結いは、三度しくじった。四度目に、形になった。形になるまでのあいだ、姉弟子の講釈は三十来た。十は結いの掛けと解きの話で、十は器と紐の話で、残りの十は、いま思えばたぶん励ましだった。数えていられたのだから、眠気より講釈のほうが強かったのである。

 その晩のうちに、コルムは組合の結いをひと通り覚えた。解きやすく、ほどけにくい、あべこべなようで理にかなった定めの結い。それから、結い目をひとつ余分に足して器を見分ける、組合の知恵。文字の読めない声継ぎが声を取り違えないための数え方だと、姉弟子は結び目を指の腹で叩いて言った。

 講釈のあとには、試しが来た。姉弟子は端切れを後ろ手に結んでから寄越して、コルムに目をつぶらせた。

 「はい。結び目、いくつ?」

 指の腹で繰って、三つ、と答えた。当たった。次は四つで、当たった。その次は結い目がひとつ余分で、これも当てたら、姉弟子は自分のことのように胸を張った。

 「あんた、指がいいよ。その指なら、夜中でも器を取り違えない」

 褒められたのが指であって自分でないところが、かえって信用できた。

 「あたしは字が読めないの。読めないぶんは、結び目と耳で覚える。……あんた、字が書けるんだって?」

 「か、書けます。名前と、数だけなら」

 「じゃあ、帳面はそのうちあんたの係だね。あんたの字が、組合を回すんだよ」

 真顔だった。慰めの顔ではなかった。入ったばかりで眠れもしない小僧の手の結び目を見て、係をひとつ、当たり前の顔で寄越した。里心というものは、たぶんあの晩、寄越された係と引き換えに、どこかへ仕舞われたのである。あくる朝、コルムは組合に上がって初めて、起こされるまで眠った。

 血は、繋がっていない。それでもあの晩から、コルムはニーヴを姉さんと呼ぶ。ほかの呼びようを試したことは、一度もない。試す訳が、ないのだった。

 以来、組合の一日は、姉さんの口上の稽古の声で刻まれてきた。

 「わたくしは、ニーヴ・オケリガン。組合の声継ぎ――」

 朝の掃除の裏で。仕分けの帳面の横で。夕餉の匂いの向こうで。冬の稽古場では、白い息と一緒に出る口上が、戸の隙間から廊下まで届いた。幾千と繰り返された文句が、組合の一日の目盛りだった。しくじりのあった日の稽古は、心持ち低く、長い。うまくいった日の稽古は、高く、それでもやっぱり長い。声の高さで、姉さんの一日の帳面がつけられた。

 一度だけ、稽古の途中で声の止まった日がある。止まって、それから、いつもより丁寧に始め直された。何があった日かは、いまも知らない。知らないが、始め直しの一句がやけに綺麗で、掃除の手が止まったのは覚えている。あの声のするほうが帳場の真ん中で、あの声の止む刻限が、組合の夜だった。

 それが、今日からなくなる。

 独り立ちは、めでたい。めでたさの勘定なら、帳面に付けられる。付けられない側に何が残るのかを、コルムはまだ、うまく数えられずにいた。


   *


 朝は、階段の音で来た。

 姉さんが下りてきたのは、組合の誰よりも遅かった。遅かったくせに、炉の間の朝の物音は、いつもの倍の速さで済んだ。それから、帳場へ来た。顔は、もう真昼である。

 来るなり、板の上の支度をひと目で数えて、笑った。

 「検分、済んでるね。……あんた、何度数えた?」

 「に、二度です」

 「顔が、四度の顔だよ」

 裏返った声で言った嘘は、初手から割れていた。人の数え直しの数まで見抜くのなら、ついでに自分の忘れ物も見抜いてくれればいい――と思ったのは、ずっとあとになってからである。このときはただ、四度がなぜ知れたのかを考えて、答えの出ないまま、負い籠を担ぐ姉さんを見ていた。

 師匠が、茶碗を手にしたまま、帳場の敷居に立った。

 「石工のブラン。祝いの声。ダンロッホの娘へ」

 言い渡しは、それで仕舞いである。師匠の朝の口は、いつも短い。コルムは帳場の奥で、癖で数を数えていた。今朝は、言い渡しのあとが、二言あった。

 「行け」

 それから茶碗を置いて、もう一言。

 「嬢。初日だ。……口上を、丁寧にな」

 「はいっ」

 いい返事だった。返事の威勢なら、丘じゅう探しても敵はいない。姉さんは器を布ごと負い籠に納め、革紐の掛かりを二度確かめて、戸口へ走った。忘れ物をする人が、革紐の掛かりだけは二度確かめるのである。その手つきを見届けて、コルムは板の上へ目を戻した。

 蜜蝋の包みと、刻み紐の束が、並んだままだった。

 未明から三度――いや、四度数えた、あの二つである。

 「姉さん! 蜜蝋! 蜜蝋忘れてます! 初日から封じ損ねる気ですかっ」

 悲鳴になった。なりながら包みと束をひっつかんで、飛び出しかけた背中へ突き出した。姉さんは振り向いて、笑って受け取った。

 「ありがと。あんたがいれば組合は安泰だよ」

 「姉さんが出ていけば、なお安泰ですっ」

 言えた、と思った。

 この言い返しは、じつは幾日も前から支度してあった。めでたい日に、めでたい顔だけで送り出せる自信が、どうにもなかったからである。憎まれ口は、段取りさえしておけば、口が勝手に言ってくれる。段取りどおり、姉さんは声を立てて笑い、包みと束を負い籠の隅へ押し込んで、笑ったまま敷居を跨いだ。押し込む手つきまで、コルムは見届けた。今度は、抜けていない。

 表には、荷驢馬ろばが待っていた。

 「驢馬二番の口取り、支度できてます」

 「アネモネ」

 「……アネモネの口取り、支度できてます」

 帳簿の上の名は、驢馬二番である。帳面をつける者としては帳面の名で呼ぶのが筋だと思うのだが、姉さんの前でその筋を通すと、毎度こうして言い直しになる。当の驢馬はどちらの名でも耳の角度ひとつ変えず、たかたかと蹄を鳴らして、主人の傍らへ並んだ。

 坂の下り口で、姉さんは一度だけ、その場で跳ねた。

 跳ねてから、隣の驢馬に何か言った。言われた驢馬は返事をしなかったが、歩調だけは主人に合っていた。ああいう返事の仕方も、世の中にはあるのである。

 それから、下りはじめた。

 振り返らなかった。一度も、である。朝の人通りのあいだを負い籠がだんだん小さくなって、角をひとつ折れて、見えなくなった。コルムは見えなくなってからも、しばらく戸口に立っていた。

 ――姉さんは、一度も振り返りませんでした。

 誰に出す報告でもないのに、胸の内の帳面が勝手に一行を立てた。振り返らないのは、少し、心細い。心細いが、あの背中はたぶん、前だけ向くようにできている。前だけ向いて、それで存外、まわりをよく見ているのである。蜜蝋のことは、見ていなかったが。

 師匠の二言のうち、後ろの一言も、胸の内の帳面へ付けておいた。口上を、丁寧にな。名と数の外の字は書けないから、こちらの帳面は、耳で付けるよりほかにない。

 立っていても、欄は埋まらない。コルムは慌てて帳場へ戻った。


   *


 主のいない稽古場は、広く見えた。

 道具はそのままで、声だけがない。朝の掃除に入って、コルムは幾度か、口の中で口上の出だしをなぞりかけて、やめた。弟弟子の声では、目盛りにならないのである。掃除を終えると、稽古場の戸を、いつもより丁寧に閉めた。丁寧に閉めたところで、誰が使うあてもない。あてのない丁寧というものを、コルムはこの朝、初めてやった。

 昼前、廊下の奥から棚番の爺さまが湯を取りに出てきた。ファーガルは齢七十を越えた、訥々(とつとつ)としか喋らない老声継ぎで、無窓の間の器を毎日磨いて暮らしている。年季小僧には少し怖がられているが、それは口数の少なさが怖いだけである。爺さまは帳場をひと目見て、湯を汲み、戻りぎわに一言だけ落としていった。

 「……静かじゃの」

 「はい」

 「……初日、じゃでな」

 どちらの初日の話かは、訊かなかった。訊かなくても、たぶん同じことだった。廊下の奥へ戻りかけた足が、一度だけ止まった。

 「……夜には、戻るじゃろ」

 「戻ります。半日道ですから」

 「……そうか」

 それきり、足音は無窓の間のほうへ遠ざかった。爺さまの言いようを借りるなら、磨くほうの子らの世話に、戻ったのである。

 昼飯は、帳場で立ったまま済ませた。噛む音が響くほど、今日の組合は静かである。

 昼、炉の間から茶を注ぐ音がした。いつもの音より、短い。茶碗の数を、コルムはこれまで数えたことがなかった。今日は、音で数えてしまった。一つである。一つぶんの茶の音は、二つぶんの半分よりも、ずっと静かに聞こえた。

 昼を過ぎると、静けさの目方が増した。

 ダンロッホまでは、東へ半日。封じは朝のうちに町内の石工の家、届けは谷底の村である。姉さんの足なら日のあるうちに開けて、夜には戻る。帳面の上では、そうなっている。帳面の外のことを、指が同じ欄を三度なぞって、勝手に心配していた。

 心配は、書くと軽くなる。

 コルムは書き損じの紙の裏へ、書き出してみた。名と数の字で書けるだけの、心配事の並びである。一、ぬかるみ。春の下り坂は、霜解けがぬるい。二、忘れ物。蜜蝋は持たせた。持たせたが、ほかに何か抜けてはいないか。三は――三が、出てこなかった。三つ目から先の心配は、どうやら名と数の外にある。書けない心配は、紙にも載らないのだった。

 載らないぶんは、手で埋める。コルムは帳場の器の棚を開けて、在庫の検分を始めた。器が幾つ、布が幾枚、蜜蝋の置きが幾包み。ついでに紐の束を繰って、結い癖のついたのを奥へ回した。奥へ回した一本が、入門の晩の端切れの結び目を思い出させて、手が少し、遅くなった。

 昼下がりの帳場で、勘定の見込みをなぞった。

 祝いの声には、返しの声がつくことがある。届けた先で、受け手がその場で封じ返す声である。返しが出れば、帰りも別勘定。行きの四枚に帰りの四枚で、欄が一行増える。帳面を後ろへ繰れば、祝いの隣に返し、詫びの隣に返しと、返しの字はそこここに立っている。

 繰ったついでに、気がついたことがある。帳面で見るかぎり、組合の一年は、祝いと詫びと弔いと、その返しでできている。どの欄にも名があって、名の隣に続き柄がある。誰の、誰への、が立たない欄は一つもない。誰の誰へのを運ぶ稼業の裏で、弟弟子は名と数を書いて留める。読み書きは聖堂と商家のものだと世間は言うが、この帳面の字だけは、たぶん、声の側の字である。

 ……勘定の話が、途中だった。勘定はそうだが、コルムが数えたかったのは、銅貨の頭数ではなかった。返しの声は、届いた証しでもある。開けの座で受け手の胸が動けば、動いたぶんが器ひとつになって、姉さんと一緒に帰ってくる。

 姉さんの初日に、返しは出るか。

 出るなら、どんな声か。そこから先は帳面の外だと分かっていたから、コルムは考えるのをやめて、考えるのをやめるために、数え終えたばかりの器の在庫を、もう一度数え直した。

 夕刻が近づくと、炭を握って、板壁の前まで行ってみた。今日の一件を、欄の形で壁に書いておこうかと思ったのである。書く場所は、いくらでもある。……握ったまま、やめた。壁に書くほどの用は、今日はまだ一件しかない。一件のために壁を汚したら、師匠に何と言われるか分からない。炭を置いて、帳面の欄を指でなぞり直す。この壁が欄で埋まる日など、来るのだろうか。来たら大変で――少しだけ、見てみたい気もした。

 日の傾くころ、コルムは二度、戸口へ出た。一度目は、坂の下りを見るためである。二度目は、一度目に見たのと同じ坂を、もう一度見るためである。どちらも、負い籠は見えなかった。三度目を我慢したのは、二度までが検分で、三度からは心配になる気がしたからである。半日道の半日というものが、待つ側にとってこんなに長い勘定だとは、帳面は教えてくれなかった。

 今日、師匠が喋ったのは、朝の言い渡しと二言きりである。夕刻の炉の間からは、湯の音だけがした。物音だけの一日を、師匠は物音だけで過ごしている。案じていないのか、案じていても物音にしか出ないのか、弟弟子の耳には、まだ聞き分けられない。


   *


 日が落ちて、坂の町の窓に灯が入った。

 コルムは夕餉を早めに済ませ、帳場へ戻って、明日の段取りの前倒し検分を始めた。明日の欄はまだ言い渡されていないから、検分するのは道具のほうである。器の在庫が幾つ、蜜蝋の包みが幾つ、刻み紐の束が幾つ。昼に数えて、昼下がりに数え直した数を、灯りの下でもう一度数える。三度目である。数はさっきから変わらない。変わらないと分かっていて数えるのは――未明と、同じ理屈である。数えているあいだは、胸の内が静かになる。静かにしておかないと、耳が坂下の物音ばかり、拾いにいくのである。

 訊きたいことも、支度してあった。返しは出ましたか、というのが先で、出たのなら明日の朝いちばんに開けの段取りを組みます、というのが後である。訊く順番まで決めてあるのに、肝心の姉さんが、まだ帰らない。

 待つあいだに、灯りの芯を一度切り詰めた。帳場の板を、拭くほどでもないのに拭いた。夜の坂は物音が減るぶん、一つずつの音が大きい。荷車の輪の音がして、違った。犬が鳴いて、違った。風が戸を叩いて、これも違った。違う音ばかりを数えるうちに、しまいには、待っている足音の形のほうが、耳の中で怪しくなりかけた。毎日聞いてきた足音である。毎日聞いてきたものほど、いざ取り出そうとすると、帳面のどの欄に仕舞ったのか分からなくなる。

 戸の音は、灯がだいぶ更けてから鳴った。

 姉さんの声だった。帳場へは寄らず、まっすぐ炉の間へ向かう足音がして、それから、板壁の向こうで首尾を告げる声がした。帳場と炉の間は、板壁一枚で隣り合っている。壁は声を通して、文句を濁す。届けました、まで聞こえた気がした。勘定、まで聞こえた気がした。その先は湯の音と同じ高さになって、聞き分けられなくなった。声の高さだけは、ずっと明るいままだった。悪い首尾の高さでは、なかった。

 聞き耳を立てる筋合いは、ない。首尾は明日、帳面に付けるときに聞けばいい。返しのことも、明日でいい。それより、検分である。器の数は――さっき数えた。蜜蝋は――数えた。では、明日の欄は。明日の、欄は……。

 欄の上で、数が滲んだ。

 未明から起きて、一日ぶんの静けさを数で埋めつづけた目方が、まとめてまぶたに乗ってきた。姉さんは帰った。夜には戻る、の勘定は合った。合った勘定を見届けた者から力尽きる決まりでも、あるのかもしれない。石橋を、叩いて、叩いて、叩き疲れて――。

 橋の手前で、コルムは帳面に突っ伏した。

 背中に、ふわりと重みが乗ったのは、それからどれほど経ってのことか。

 「っ、寝てません! 検分してました!」

 「はいはい。ご苦労さま」

 笑いを畳んだ声がした。重みは温かくて、藍の匂いがした。それが何かを確かめるより先に、瞼の裏が藁の色に戻った。夢のほうで、誰かが器の数を数え直している。一つ。二つ。数はさっきから、変わらない。


   *


 目が覚めると、帳場の窓が薄青かった。

 明け方である。炉の間はまだ静かで、湯の音もしない。組合でいちばん早い人より早く起きたのは、たぶん入門からこっち、初めてだった。

 背中に、重みが載っていた。

 肩掛けである。姉さんの肩掛けだった。藍の、染物屋の匂いのするやつである。いつ掛けられたのかは、覚えていない。ゆうべ何か言った気もするが、それも思い出せない。寝てません、とか、どうせそういう、いつもの何かである。半分寝ていた口の言い分は、帳面には載せられない。

 肩掛けを外して、畳んだ。角と角を揃えて、器のくるみと同じに、合わせが上になるように。畳んでから、返しに立ちかけて、やめた。

 坂の下から、朝いちばんの荷車の音が上がってくる。町の朝は、組合の朝より少しだけ遅い。

 姉さんは、まだ寝ている。

 独り立ちして二日目の人が組合でいちばん遅くまで寝ているのはどうなのだろう、と思い、それを言えば三十返ってくることも思い出して、コルムは畳んだ肩掛けを、帳場の隅へそっと置いた。返すのは、起きてからでいい。ゆうべ訊きそびれた二つも、起きてからでいい。藍の匂いが、見慣れた未明の帳場に、昨日はなかった目盛りをひとつ足していた。

 板の上に、仕分けの帳面を開く。

 初日の欄は、首尾と勘定が入るのを待っている。その隣に、コルムは新しい欄を立てた。

 二日目の欄は、まだ白い。


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