第2話「名前のない安心」
1
朝、ひよりは足首の痛みで目が覚めた。
昨夜、帰宅してから湿布を貼った。冷やした時間も短かったし、腫れが引くとは思っていなかったのに、見た目は少しだけマシになっている。
――休めない。
連休に入って百貨店は確実に混む。催事も重なっている。インフォメーションは無人にできないから、誰か1人が欠けるだけで残った人の負担が目に見えて増える。
休みたい、という気持ちの前に、迷惑をかけたくないが立つ。いつもそうだ。
キッチンで湯を沸かし、インスタントコーヒーに少しだけ牛乳を落とす。湯気が立つ。
その匂いだけで、頭の中が少し落ち着く気がした。
背後で布が擦れる音がする。
振り向くと優斗がいた。だるそうにTシャツの裾から手を入れて腹を掻いている。寝起きの顔は子どもみたいなのに、口の開き方だけがいつも偉そうだ。
「コーヒー飲む?」
自分だけ飲むのも気が引けて、ひよりは声をかけた。
「いや、いい」
優斗はそれだけ言って冷蔵庫を開けた。何か探しているようで、結局、何も取らない。
「今日は早めに出る。在庫の確認がある」
「在庫?」
聞き返すと、優斗は鼻で笑った。
「店の話。お前には関係ねぇ」
お前には関係ねぇ。
優斗はひよりの何気ない日常まで問い詰めるくせに、自分のことは言わない。
信用されていないと感じた。
「シャツ、アイロンしといてくれた?」
その言葉に、少しの苛立ち。
家賃も光熱費も食費も、ほとんどひよりが出している。その上で、アイロンの有無を“当然”みたいに聞いてくる。
「……ソファの上」
ひよりが短く答えると、優斗はソファへ向かい、シャツを手に取った。しわの具合を見て、満足したのかしないのか、何も言わない。
朝の空気が急に重くなる。
ひよりはコーヒーをひと口飲んだ。温かいのに、胃が少し冷える気がした。
優斗が靴を履きながら言う。
「今日、帰り遅くなるかも。連絡はする」
――連絡。
その言葉だけで、なぜか胸が小さく緩む。“しないことがある”から、“する”が嬉しい。情けないと思うのに、止められない。
「うん」
ひよりがうなずくと、優斗は玄関を出た。扉が閉まって静かになる。
ソファの下に脱いだ靴下が落ちているのが目に入って、ため息が出そうになる。
出そうになるだけで、出さない。今日も仕事だ。
ひよりは足首をそっと回し、痛みの角度を確かめてから、パンプスではなく少しだけヒールの低い靴を選んだ。
――歩ける。
うん、歩ける。
そう自分に言い聞かせながら、家を出た。
2
駅へ向かう途中、ひよりの頭に優斗と知り合った頃のことがよぎる。
二年前。
スマホのバッテリーが一日持たなくなって、昼休みに職場近くの携帯ショップへ行った。そこで対応してくれたのが瀬尾優斗だった。
「こちらでお手続きしますね」
名札には『瀬尾』。笑顔は営業用だろう。でも、不思議と手際が良く、説明も早かった。
機種を選び、書類にサインし、プランの確認。煩雑な作業があっさり終わったのが、むしろ拍子抜けだった。
「データ移行は別料金になります。自分でできます?」
「……多分」
本当は不安だった。けれど、その場で追加料金を払うのがもったいなくて、つい強がってしまう。
席を立とうとしたとき、瀬尾がふっと声のトーンを落とした。
「もしトラブったら、連絡ください」
そう言って、名刺の裏に電話番号を書いて渡してきた。
「え……」
「店にかけると繋がりにくいから」
言い方は軽い。でも、“特別に助ける”みたいな響きがあった。
ひよりは変だと思ったはずなのに、その時は変だと思わなかった。
夜。
自宅でデータ移行を始めたが、どうにもうまくいかない。途中でエラーが出る。画面が止まる。
ひよりは机の上にスマホを置いて、頭を抱えた。
「なんでうまくいかないの……」
通勤定期も連絡先もメモも、全部スマホ。スマホが使えないというだけで、足元が揺らぐみたいに不安になる。
時計を見ると、もうすぐ20時。
――店舗に電話しても、もう遅い。
迷って、迷って、上着のポケットを探る。名刺を取り出す。
『瀬尾……優斗』
勢いで、手書きの番号に電話をかけた。
呼び出し音が2回鳴って出る。
「はい、瀬尾」
「あ、すみません。今日そちらで機種変更した――」
言い終える前に、相手が言った。
「高阪さん? 高阪ひよりさんですよね」
覚えていたことが、なぜか嬉しくて、同時に少し怖かった。
「……はい。そうです。すみません、こんな時間に……データ移行が……」
「できない? どの画面?」
質問が早い。
ひよりが状況を説明すると、瀬尾はあっさり言った。
「じゃあ、俺、もう上がるんで。やってあげますよ」
「え、でも……」
「近いでしょ? すぐ。待ってて」
そうして優斗は仕事終わりのまま、近くのカフェまで来た。
自分のスマホを操作して、ひよりの端末を触り、数分でエラーを解消した。
「はい、これでいける」
ひよりは心の底から助かったと思った。
「本当に……ありがとうございます。助かりました」
「大げさ。こういうの得意なんで」
その時の優斗は、かっこよく見えた。頼れる人に見えた。
その後、何度か連絡を取り合っているうちに、いつの間にか“恋人”になった。
――どこで間違えたんだろう。
答えは出ない。ただ、今は足首が痛い。
ひよりは駅のホームで片足に重心をかけないように立ちながら、スマホの画面を見た。
――優斗から、今朝の「連絡する」は本当に来るんだろうか。
自分の期待が、また嫌になる。
3
大蔵屋百貨店のバックヤードは、開店前から忙しい。
荷物が通り、台車の音が響き、制服の人たちがすれ違う。香水と整髪料と、どこかのパン屋の焼きたての匂いが混ざる。
インフォメーションカウンターに立つと、恵美が小声で寄ってきた。
「ねえ、聞いた?」
「なに?」
「コスメの美容部員がさ、“警備の人がやばい”って騒いでる」
恵美は目を輝かせた。こういう話の時だけ、朝でも元気だ。
「やばいって、なにが?」
「顔。反則級」
「……恵美、朝から元気だね」
「元気になるでしょ! しかも毎日いるわけじゃないんだって。たまに入るらしい。館内警備の人」
ひよりは笑った。けれど、ほんの少しだけ、心が軽くなるのを感じた。
“恋愛”の話を聞いて、楽しいと思える自分がいる。それだけで、まだ終わってない気がする。
「見に行ったの?」
「行った。目の保養だった」
恵美は胸を張って言った。
「ひよりも今日、時間あったら見てきなよ。ああいうの、生活に必要だよ」
生活に必要。
それを優斗が聞いたらどんな顔をするだろう。ひよりは、笑うしかなかった。
4
昼休み。
ひよりは足首をかばいながら、スポーツ用品売り場へ向かった。
――お礼がしたい。
バッグを取り戻してくれたこともそうだし、何より、あの時の自分を“ちゃんと人として扱ってくれた”ことが嬉しかった。
ひったくりに遭って転んで、恥ずかしくて、怖くて、泣きそうで。そんな時に、余計なことを言わず、必要なことだけを言ってくれた。
「バイク用の……手袋……」
売り場の棚を見て、種類の多さに戸惑う。
結局、黒い革の、シンプルなものを選んだ。値札を見て少し悩んで、買う。
「これなら、変じゃないよね」
自分に言い聞かせながら、スマホを取り出す。
名刺に書いてあった名前。『朝倉恒一』。
名刺に会社名「KSS」と電話番号がある。一番下に携帯電話の番号も小さく入っていた。
ひよりは少し迷ってから、短いメッセージを打った。SMSにする。通話ではない。変な距離の詰め方をしたくなかった。
――送信。
すぐ返信が来る。
『お気遣いありがとうございます。お礼は不要です。ただ、足は大丈夫ですか?』
短いのに、ちゃんと優しい。ひよりは息を吐いた。
『足は大丈夫です。少し捻っただけです。でも本当に助かったので、気持ちだけでも受け取ってください』
少しして、また返信。
『それなら、少しだけ。今日19時頃なら大蔵屋の近くにいます。山上通りのカフェ、分かりますか?』
分かる。ひよりは頷いた。
5
19時。
ひよりはカフェの窓際の席で、水を一口飲んだ。落ち着かない。
外の歩道を行き交う人の中に、昨日の大型バイクが見えた気がして、何度も窓を見てしまう。
ドアベルが鳴った。
黒いジャケットの男が入ってくる。片手にヘルメット。
視線が合った瞬間、ひよりの呼吸が一拍止まった。
――昨日の人だ。
――そして、多分…「KSS」
恵美が言っていた“警備の人”。
美容部員たちがざわつく“反則級”。
そんな噂を、ひよりはどこか遠い話として聞いていたのに、今は目の前にいる。
確かに整っている。――目がまっすぐで、精悍な顔のせいで嘘が似合わない感じがした。
「……高阪さん?」
低い声。落ち着いている。
ひよりは立ち上がり、頭を下げた。
「昨日はありがとうございました。これ……ほんの気持ちです」
袋を差し出すと、男は一瞬困ったように笑った。
「本当に、気にしなくてよかったのに」
「でも、受け取ってください。私、こういうの……ちゃんとしたいんです」
男は少しだけ間を置いて、袋を受け取った。
「……ありがとうございます。朝倉です」
「高阪ひよりです」
席に座る。朝倉は空いている隣の椅子にヘルメットを置いた。
動きが無駄に大きくない。体躯は大きいけれど威圧感がない。
「足、今日も痛みます?」
「大丈夫です。少しだけ」
「無理しないでください」
その言い方は、昨日と同じだった。
ひよりの胸の奥が、少しだけ緩む。
「……朝倉さん、昨日“通りがかった”って言ってましたけど」
ひよりが言うと、朝倉は軽く頷いた。
「現場の巡回です。昨日はたまたま、その辺を回ってました」
ひよりは名刺の会社名を思い出す。
KSS警備会社。大蔵屋は、その現場のひとつ。
「大蔵屋、最近入ったんですか?」
「先月からです。配置が変わって、ここに入る日が増えました」
“毎日いない”って噂は、そのせいか。
ひよりは、心の中だけで納得して、頷いた。
「……昨日、通用口から出てましたよね」
朝倉がふと、視線を外しながら言った。
「出るところ見えたんで。インフォメの人かなって」
“見てた”というより、“気づいてた”という言い方だ。
それが妙に安心する。
「はい。インフォメーションです。案内係」
「やっぱり」
朝倉は小さく笑った。
「入口のところで挨拶してるの、見かけます」
ひよりは、胸が少しだけくすぐったくなるのを誤魔化すように水を飲んだ。
「……朝倉さんって、おいくつですか?」
言ってから、ひよりは少しだけ後悔した。
踏み込みすぎたかもしれない。
でも朝倉は、困ったように瞬きをしてから短く答えた。
「30です」
「……若い」
「あ…昨日は、もう少し年上かと思ったんです」
ひよりが本音を漏らすと、朝倉はほんの少し口元を緩めた。
「高阪さんは?」
「27です」
「……同い年くらいだと思ってました」
言い切ったあと、朝倉は自分で“言い方”を反省したみたいに、視線をコップへ落とした。
女性と長々話すのが得意じゃないのが、逆に伝わってくる。
ひよりは笑ってしまった。
「それ、褒め言葉ってことでいいですか?」
「……はい。多分」
“多分”が、妙に真面目で可笑しい。
その時、ひよりのスマホが震えた。画面には優斗の名前。
『今日は帰り遅くなる。俺より遅いとかありえないからな』
ひよりは反射的にスマホを伏せた。
朝倉は、ひよりの手元を見た。
でも、それ以上は聞かない。見ないふりをしてくれる。
「……大丈夫ですか」
ひよりは笑いそうになった。
“大丈夫じゃない”のに、“大丈夫です”と言う癖が染みついている。
「はい、大丈夫です」
嘘は、口にすると軽くなる。
でも軽くなったぶんだけ、心のどこかが削れる。
ひよりが水を飲んで息を整えるのを、朝倉は待っていた。
「……改めて」
ひよりは袋を見て、もう一度だけ言う。
「ありがとうございました。本当に」
「こちらこそ。……お礼まで受け取ってしまって、すみません」
「謝らないでください。受け取っていただけて嬉しいです」
ひよりは自分で言って、少し恥ずかしくなった。
立ち上がる時間が近づいて、ひよりは最後に小さく言う。
「……朝倉さんも、無理しないでください」
朝倉は一瞬だけ目を丸くして、それから短く頷いた。
「……ありがとうございます」
その返事が、さっきの「無理しないで」と違う温度で、ひよりの胸に残った。
帰り道。
夜の風が冷たくて、足首の痛みがまた蘇る。
それよりもひよりの頭に残っていたのは、優斗の『俺より遅いとかありえない』という一文だった。
(早く帰らないと)
時計は19:40。
マンションの外から自分の部屋の窓を見上げる。
明かりはまだ点いていない。
――玄関を開ける前に、ひとつだけ深呼吸をした。
(第2話 終わり)




