第1話 「ひったくりと名刺」
第1話「ひったくりと名刺」
1
「いらっしゃいませ。賜ります。」
インフォメーションカウンターの内側は、照明が少し強い。ガラス越しに人の流れが途切れず、館内アナウンスが一定のリズムで降ってくる。
5月はイベントが目白押しだ。
大蔵屋百貨店の九階催事場は連日フェア続きで、館内はいつもより少しだけ浮き足立っている。迷子と落とし物も増える時期。
インフォメーションの仕事は、派手じゃない。けれど、途切れない。
落とし物台帳。館内図。車椅子の貸し出し。ベビーカーの案内。呼び出し放送の受付。迷子の保護。クレーム窓口への取り次ぎ。
それらを淡々と受け止めて、また笑う。
笑うのは得意だ。疲れているのは、うまく隠さなきゃ。
「笑顔は仕事の制服の一部だって、先輩が言ってたよ」
ふと、昔の言葉が浮かぶ。制服の一部。――そう、制服なら脱げない。
「すみません。喫茶店はありますかね?」
スーツ姿の中年男性が、少し困ったように首をかしげた。待ち合わせだろうか。
「4階の紳士服売り場の東側に1店舗と、10階グルメ街に2店舗ございます」
館内パンフレットを広げ、指で示す。
「ああ、そう。4階のほうが混んでなさそうだ。ありがとう」
男性は軽く会釈して去っていった。
ひよりは、カウンターの下でスマホをちらっと見る。
……今日も連絡は来ない。既読無視にも、慣れてきた。
視線を上げると、母の日フェアの紙袋を抱えた人たちが行き交っている。どこか楽しげで、どこか慌ただしい。
ひよりの胸の奥だけが、置いていかれているみたいだった。
昨日、同僚の恵美に誘われた同期の飲み会。どうしよう。行きたい気持ちは、ある。
いつからか、行動や自由が制限されるようになった。
――でも、それは誰かに縛られているわけじゃない。ひよりが、自分自身で縛っている。
なのに、どうしてこんなに窮屈なんだろう。
「ひより」
くだらない考えを断ち切るように、声がした。
同僚の恵美が、休憩札をひらひらさせている。
「そろそろ休憩だよ」
もうそんな時間か。時計は11時30分を指していた。
「そだね。お昼、何食べる?」
インフォメーションは館内に3か所ある。各カウンターに3人配置。休憩は2人と1人で交代だ。今日はひよりと恵美が同じ休憩。
どの売り場も無人にはできないから、社員食堂もそれほど混んではいない。窓際のテーブルに向かい合って座る。
「最近どうなの? 半同棲の彼とは」
恵美がサバの塩焼き定食をつつきながら、探るように言った。
“どうなの”と聞かれても困る。楽しいとか幸せとか、そんな言葉は、口の中で転がるだけで出てこない。
口ごもるひよりを見て、恵美が眉を上げる。
「また、既読無視?」
「……うん。まぁ……」
ひよりは笑ってごまかす。
「忙しいんだと思う……」
男を庇うように、はっきりしないひよりに、恵美が突っ込む。
「ほっとけばいいじゃん。」
「夕食何食べる?って聞いて、無視なら、夕食は別で食べるんだと解釈すればいいのに。」
男に振り回されて、人生無駄にしているというように恵美は言う。
「一緒にご飯食べたいから、聞いてるのに返事がなかったら、寂しいじゃん。」
大げさに、ため息をついた恵美が、今度は眉間にしわを寄せて言う。
「返事が“うん”とか“無理”だけでもいいってこと?!」
「それは……」
ひよりは、困ったように口ごもる
恵美は呆れた顔をしたあと、ふっと息を吐いて言い直す。
「で。明日の飲み会、来るでしょ?」
覗き込むように身を乗り出して、顔を近づけてくる。
「たまには参加しなさいよ。忘年会も早々に帰っちゃったし」
売り場同士の付き合いが少ないぶん、こういう誘いが多い。断るたびに、何かを失っていく気がする。
「うん……そうだね……」
曖昧に答えて、ひよりはスマホに目をやる。
やはり、返信はない。
⸻
2
地下の食品売り場で惣菜を買って、家路についた。仕事中はヒールのあるパンプスだ。足が重い。
マンションの階段も、帰宅時はきつい。
玄関の扉を開けると男物の靴。部屋のテレビからはゲームのBGMが景気よく鳴り響いている。
ソファでゲームしている優斗が振り返った。
「おせーよ」
脱いだ靴下がソファの下に無造作に落ちている。スーツの上着は背もたれに引っかかったままだ。
買い物袋を持ったまま、ひよりは小さく返す。
「仕事よ」
「何度もLINEしたのに」
レジ袋をテーブルに置く。
「忙しいんだよ」
「腹減った。なんかないの?」
そう言いながら優斗はレジ袋を覗き込み、冷蔵庫を開けた。
――“何度もLINEした”。返事が欲しいと遠回しに言ってるだけなのに、空腹のほうが先らしい。
ひよりはため息を飲み込み、惣菜を器に移す。
やっと飯にありつけたとばかりに、優斗はガツガツと箸を動かした。
「あのさ、今月、給料日までちょっと厳しいんだよ。なんとかならねぇ?」
またか。毎月これだ。
先週、玄関に見覚えのない新しいスニーカーがあったのを思い出す。
“金がない”の内訳が、ひよりにはいつも見えない。
仕方ない、と小さく頷く自分がいる。なんで自分が?と思うのに、言葉にできない。
うんざりした顔が出たのだろうか、優斗が言い訳を重ねる。
「しょうがねぇじゃん。飯食いに行ったら後輩には出してやんないとカッコつかないしさ」
「俺だっていろいろあんだよ」
言い訳だけは一人前。後輩に見栄を張るなら、ひよりにも見栄を張ればいいのに、それはしない。
釣った魚に餌はやらない。
半同棲という言葉は、こんなにも都合がいい。
優斗の拠点は2駅先の実家。ひよりの部屋には、都合のいいときだけ勝手に来る。
それでも、この半年は入りびたりに近い。持ち物は少しの着替えとスマホの充電器、ゲーム機くらい。それを理由に家賃も光熱費も食費も、ひよりの財布から出ていく。
何も払ってないのに“毎月厳しい”
理由を聞いても怒るだけだ。
ガツガツ食べる背中を横目に、ひよりは小さく口を動かした。
(好きって、なんだっけ……)
疲れた心が、ひより自身に問いかけてくる。
⸻
3
食器を洗っていると、そばに置いたスマホの通知音が鳴った。
恵美からのLINE。
『あしたの飲み会来るよね?!』
昼の食堂での念押しだ。
『ごめん、明日はいけなくなっちゃった』
本当は行きたい。でも揉めたくない。
優斗はひよりが友人と出かける、食事に行く、ましてや飲み会などというイベントに参加することを極端に嫌う。
優斗が嫌がることをしてまで、意味のある会でもないと、気持ちとは裏腹な決定をしている。
画面の向こうで『また、彼氏?言いなりになってない?』と責められそうな気がして、ひよりは指を止めた。
痛いところを突かれるのが怖い。
(わかってるけど……)
そう。わかってるけど、行けば行ったで帰ってからが面倒なのだ。
ソファでゲームを再開中の優斗が、ちらりとこちらを見た。スマホの画面を覗くみたいな目で。
「誰?」
「同僚」
ひよりは反射で、スマホを伏せて笑った。
「ふーん」
優斗はゲームの画面に戻る。でも、目が笑っていないのが怖い。
これ以上、探りを入れられたくない。ひよりはことさらに手際よく食器洗いを続けた。
水が流れる音。陶器とガラスがぶつかる音。その上にゲームのBGM。
全部が耳の中で嫌なノイズに変わって、心にモヤモヤと澱が積もっていく。
⸻
4
目覚ましが鳴るより先に、ひよりは目が覚めた。
キッチンで湯を沸かし、コーヒーを入れる。ソファには眠っている優斗。結局、ゲームをしながら寝落ちしたらしい。
起こしたほうがいいだろうか、と一瞬思う。
でも――起こして機嫌を損ねたくない、という気持ちが先に立つ。
昨日買ったのに食べなかったサラダを、半分だけ皿に移し、ラップをかけた。優斗が起きたら食べるだろうから。
外に出ると、五月の朝の空気はさわやかだ。人の流れに混じって歩くと、昨夜のもやもやが少し薄れる気がする。
大蔵屋百貨店。従業員通用口でIDカードをかざし、中へ入る。
更衣室では、ロッカーの鏡を見ながら恵美が髪を整えていた。
「おはよ」
ひよりはわざと明るく言う。
「おはよ! ひより、今日の飲み会、顔だけでも出せない?」
「無理だよ……」
行きたい気持ちを押し込める。
「また、なんか言われたの?」
恵美は声を落として鏡越しにひよりを見た。
「ちょっとね……」
ちょっと、の中身は言わない。言い出すと止まらなくなると、ひより自身がわかっているから。
恵美がため息をついた。
「ひよりさ……顔が疲れてるよ。ちゃんと寝れてる?」
「大丈夫。寝てる寝てる」
嘘じゃない。眠りが浅いだけ。
バックヤードの通路を抜け、開店前の一階正面玄関へ向かう。開店時間には玄関前に従業員が整列してお客様を迎える。
「いらっしゃいませ」
ひよりは深くお辞儀をした。
⸻
5
18:00。飲み会へ向かう同僚たちを尻目に、ひよりは通用口を出た。
5月の18時は空が薄暗い。正面玄関とは違い、従業員通用口に面した道は大通りではない。静かな通り――のはずが、夕方になると裏通りの飲食店が一斉に灯りをつけ、人の流れが少しだけ増える。
恵美たち、今ごろ楽しんでるんだろうな。
ひよりは思った。自分は何をしてるんだろう、と。
……なんか、普通じゃない。
そのとき、誰かに引っ張られた。
――腕じゃない。バッグのストラップだ。
強く引かれ、反射的にバッグを抱え込む。次の瞬間、体が横に崩れ、地面に倒れこんだ。
「え?!」
小型のバイクが、ひよりのバッグを持って遠ざかっていく。
人と看板を避けながら、どんどん小さくなる背中。立ち上がろうと体を起こしたが――
「うっ……いたっ」
足首をひねった。
そこへ、大型のバイクが急停止する。
「大丈夫ですか?」
男はバイクに跨ったままヘルメットのミラーシールドを上げる。
男の目がこちらを捉えた。
「だ……大丈夫、です」
ストッキングには大きな穴。恥ずかしさとバッグを盗られた焦りで、声が震える。
男は逃げていく小型バイクを見て言った。
「待ってて。すぐ戻る」
そう言って、走り去った。
⸻
6
ひよりはそばにあった道路標識のポールに掴まり、なんとか立ち上がる。
「どうしよう……」
社員証も財布もスマホも、全部バッグの中だ。疲れと焦りと足首の痛みが重なって、涙がこぼれそうになる。
しばらくすると向こうから大型バイクが戻ってきた。左手に、ひよりのバッグを持っている。
「これ、あなたのバッグでしょう?」
革手袋の手が差し出される。
「あ……取り戻してくれたんですか?」
「よかった…ありがとうございます」
涙が滲む。零れないように、必死に堪える。
「残念ながら、犯人は取り逃がしました」
男の目が悔しそうだった。
「110番しますか? 警察、呼んだほうがいい」
――呼ぶべきだ。
でも帰りが遅くなる。優斗の機嫌が悪くなる。面倒になる。
「はい……でも……足痛くて……もう帰りたいです……」
男は少し迷ってから言った。
「そうですか。家、どっちです? 送りますよ」
気遣いがありがたい。でも――自宅付近で優斗に見られたら、何を言われるかわからない。
「いいえ、近いですから。なんとか帰れます」
言い切ったあと、胸がチクリとした。
それでも、ひよりは頭を下げる。
「あの……連絡先を伺ってもよろしいですか? 改めてお礼をさせてください」
男は意外そうに両手を上げ、手のひらをこちらに向けた。
「いやいや、そんなことは気にしなくていいです」
「本当に助かりましたから。お願いします」
もう一度頭を下げると、男は仕方なさそうに財布から名刺を取り出した。
名刺を受け取る。
「朝倉恒一さん……」
シールドは上がっているが、陽は落ちて、顔ははっきり判別できない。
それでも、ひよりを見つめる瞳はまっすぐだった。
⸻
7
ひねった足が痛い。でも歩ける。骨折はしてなさそうだ。
ひよりはなんとか帰宅した。ソファでゲーム中の優斗がちらっとこちらを見る。
「遅いじゃん。何してた」
いつもより30分遅いだけで、機嫌が悪い。
「転んじゃって……足、痛くて」
本当のことを言えば、話が大きくなって面倒になる。
嘘を選ぶのが上手くなってしまった。
「は? 何やってんの? バカじゃね?」
薄笑い。
「ホント、バカだよね」
怪我をしても心配も気遣いもない。それでも自分は――この人が好きなんだろうか。
(本当に、バカだ……)
自分の胸の奥に、そういう声が落ちた。
(第1話 終わり)




