番外編8 「春のざわめき」最終回
番外編は日常編として、一旦、最終回としました。
婚約編と言うのを、別枠でゆっくり書いていこうと思っています。
更新は、不定期になるかもしれませんが、読んでいただけると嬉しいです。
1
4月に入って、通勤途中の桜並木に花が咲き始めた。
3月の冷たさがまだ少し残っているのに、空気だけは春の顔をしている。
制服の襟元に隠れる小さな青に、そっと指で触れた。
私だけの青。
ふたりだけの小さな思い出と、嬉しい涙の青。
そう思うだけで、朝から少し強くなれる気がした。
大蔵屋百貨店では、春の催事が始まっている。
新一年生、新社会人、そして異動の季節。
百貨店の1年は、終わりがない。
10時開店の正面玄関での挨拶が終わり、私は1階総合インフォメーションカウンターに戻った。
隣に立つのは、同期の前田恵美。
今日も、恵美はインクの出が悪いボールペンを振り回している。
「ひより」
「ん?」
「ちょっと、噂になってるよ」
恵美は本当に耳ざとい。
どこで聞きつけてくるのか、館内の噂話はだいたい把握している。
社食、更衣室、お手洗い。
きっと、私の知らない場所にも耳がある。
「噂?」
「朝倉さんとひより」
小さく、「え……」と声が出た。
彼と私が付き合っていることは、公表していない。
社内恋愛が特に禁止されているわけでもないし、社内で知り合い結婚するカップルも多い。
だから本来なら、誰かと誰かが付き合っているらしいと聞いても、
“ああ、そうなんだ”
で終わる話だと思う。
でも、私たちはそうではないらしい。
「まだ、そんなに大きくはなってないよ。真偽不明って感じ」
恵美は、ボールペンを振りながら言った。
「でもまあ、相手が朝倉主任だからね」
彼は目立つ。
本人は望んでいなくても、とにかく目立つ。
黒い制服。
高い身長。
整った顔。
無口で、無愛想で、仕事はきっちりしている。
それだけで、周りは勝手に名前をつける。
黒い王子だとか、近寄りがたいだとか、誰にもなびかなさそうだとか。
彼は、たぶんそういうものにずっと疲れてきた人だ。
「普通なら、そんな噂にならないよね」
「普通ならね。でも朝倉さんは普通じゃないでしょ。無駄に人気あるから」
「無駄にって」
「無駄に」
恵美は、書類の裏に丸を書いた。
インクはまだ出ないようで、ぐりぐりと力を入れている。
「反応はいろいろよ。やっぱりねって人もいるし、よく一緒に帰ってたよねって人もいるし、付き合ってると思ってたって人もいる」
「そんなに?」
「そんなに」
恵美は、やっと出始めたインクで、紙の端に小さな黒い丸をいくつも作った。
「まあ、本人たちがいいならいいんじゃない、って人もいる」
そこで、少しだけ声を落とす。
「でも、面白くなさそうな人もいるよ」
胸の奥が、少し冷えた。
「朝倉さんなら、もっと華やかな子が相手でもよかったんじゃないか、とか」
「三崎さんがあんなに熱上げてたのに、とか」
「黙ってたの、性格悪くない?とか」
言葉は、刃物ほど鋭くはない。
でも、紙で指を切った時みたいに、あとからじわじわ痛む。
「……そう」
「ごめん。言わない方がよかった?」
「ううん。知ってた方がいい」
そう答えた声は、自分で思ったより落ち着いていた。
朝倉さんがかっこいいことくらい、知っている。
彼が目立つことも、知っている。
彼の顔や背の高さや黒い制服だけを見て、勝手に何かを期待する人がいることも、たぶん分かっている。
でも私は、そういう彼だけを見ているわけじゃない。
嘘をつこうとして、すぐに不自然になるところ。
アクセサリー売り場で、きっと真面目な顔をして迷っていたであろうところ。
ホワイトデーのお返しを、警備室全体の作戦にしてしまうところ。
私が笑っているかどうかを、すぐに気にするところ。
そういう、面倒で、不器用で、誠実なところを知っている。
だからこそ、少し苦しかった。
彼が誰かの王子様みたいに見られていることも。
その彼に選ばれた私が、値踏みされることも。
「ひより」
恵美が、ボールペンをカウンターに置いた。
「ひよりが悪いことしたわけじゃないでしょ」
「……うん」
「朝倉さんが選んだ。ひよりも選んだ。それだけよ」
恵美の言葉は、いつも少し乱暴で、でも変に優しい。
「インク、出た?」
誤魔化すように聞くと、恵美は紙の端に丸を書いた。
「出たわ」
その返事に、少しだけ笑えた。
ふと顔を上げると、朝倉さんが立っていた。
もう11時だ。
慌てて挨拶をする。
「お疲れ様です」
「変わりなし?」
「はい」
いつも通りのはずだった。
でも、今日は少しだけ違う。
朝倉さんは、私の顔を見て、少し考えるような表情になった。
それからカウンターの端に寄り、声を小さくする。
「なんかあった?」
こんな話、今はできない。
つい、うつむき加減になってしまう。
「あとで、話してもいい?」
朝倉さんは、すぐに頷いた。
顔を上げた時、インターナショナルブランドの店舗前でこちらを見ている女性スタッフと目が合った。
コスメエリアの方からも、視線を感じる。
いつも通りのはずなのに。
今日は、いつも通りには見られていない気がした。
***
なんだ、どうした。
何かがおかしい。
ひよりの様子が変だ。
化粧品エリア、婦人雑貨エリア、インターナショナルブランドエリア。
巡回していても、視線を感じる。
警備室に戻ると、神田がいた。
こちらを見て、少しだけ声を落とす。
「主任、ちょっと噂になってますよ」
「何が」
「言わなくても分かるでしょ」
分かる。
まただ。
男だけの職場へ行きたい。
「高阪さんだろ」
神田が頷いた。
「大半は、やっぱりって感じっすね」
「よく一緒に帰ってましたし」
「駅ビルの居酒屋で見たって人もいるみたいです」
「……そうか」
「でも、面白くない人もいますよ」
「だろうな」
自分が何を言われても構わない。
だが、ひよりが値踏みされるのは違う。
俺が顔で見られるのは、今に始まったことではない。
勝手に期待される。
勝手に失望される。
愛想がないと言われるくせに、都合よく理想を乗せられる。
それが面倒で、女っ気のない男でいる方が楽だった。
でも今は違う。
ひよりがいる。
俺が近づくことで、ひよりの居場所を荒らしたくない。
そう思っていた時期もあった。
それでも、俺たちはここまで来た。
一緒に住んでいる。
一緒に帰る。
同じ部屋で、ふたり分のマグを使っている。
何もないように見せ続ける方が、もう無理がある。
ただ、曖昧なまま、ひよりだけが注目を浴びるのは違う。
まず、どうするのがいい。
何も悪いことをしているわけじゃない。
なら、堂々と公表するか。
いや、芸能人じゃあるまいし、大げさに過ぎる。
はっきり言って、普通の社内恋愛に過ぎない。
ただ、上司に報告は必要だろう。
そう考えて、すぐに違うと思った。
まずは、ひよりだ。
俺が最初に言う相手は、ひよりだ。
これまで、何でもふたりで決めてきた。
合鍵を交換したときも。
新しい部屋を探したときも。
同じマグカップをふたつ揃えたときも。
他人に振り回されてどうする。
俺たちふたりのことだ。
俺が勝手に決めるつもりはない。
ひよりとふたりで決める。
ポケットからスマホを取り出した。
〈今日は、少し遠回りして帰ろう〉
送信してから、画面を伏せる。
まだ、何をどう言うかは決まっていない。
それでも、最初に話す相手だけは決まっていた。
2
お昼に彼からLINEが来た。
〈今日は、少し遠回りして帰ろう〉
遠回り……。
なんだろう。
館内の噂話のせいだろうか。
私が沈んでいると、彼だって楽しくはないだろう。
笑っていなくちゃ。
そう思ったところで、少しだけ苦笑した。
前なら、そうしていたかもしれない。
でも今の私は、無理に笑わなくてもいい人の隣にいる。
スマホを伏せると、恵美がこちらを見ていた。
「朝倉さん?」
「うん」
「遠回り?」
「なんで分かるの」
「顔」
恵美は、出の悪いボールペンを振りながら言った。
「ひより、分かりやすくなったよね」
「そうかな」
「そう。前は、困った顔まで隠してた」
その言葉に、少し胸が詰まった。
「……噂のこと、話すのかな」
「話すんじゃない?」
「やっぱり?」
「でも、朝倉主任がひよりを責めるわけないでしょ」
それは分かっている。
分かっているのに、職場で誰かに見られていると思うと、落ち着かない。
「悪いことしてるわけじゃないのにね」
ぽつりと言うと、恵美は書類の裏に丸を書いた。
「悪いことしてないから、堂々としてたらいいよ」
「堂々……」
「できないなら、朝倉さんに半分持ってもらえば?」
恵美はさらっと言った。
「そういう人でしょ、あの人」
私は、少しだけ笑った。
「うん」
そうだ。
そういう人だ。
定時になって、更衣室で着替えながら、もう一度LINEを見た。
〈今日は、少し遠回りして帰ろう〉
遠回り。
その言葉が、やけに気になる。
駅へ向かういつもの道ではなく、どこへ行くのだろう。
噂のことを話すなら、人の多い場所は避けたいのかもしれない。
大蔵屋を出ると、夕方の空は少し薄い紫色をしていた。
3月よりは柔らかいけれど、4月の風はまだ冷たい。
駅へ向かう途中、彼はいつもの場所で待っていた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様」
並んで歩き出す。
すぐに手を繋ぐわけではなかった。
それが少しだけ、今日の空気を違うものにしている気がした。
「遠回りって、どこへ?」
「少し、桜が見える道があるんだ」
「桜?」
思っていたより普通の答えで、少し拍子抜けする。
「噂の話かと思いました」
そう言うと、彼は少しだけこちらを見た。
「それも、話すけど」
やっぱり。
胸の奥が少し強張る。
でも、彼は続けた。
「でも、それだけじゃない」
それだけじゃない。
その言い方が気になった。
駅へ向かう大通りを一本外れると、細い川沿いの道に出た。
街灯の下で、桜が咲いている。
満開には、少し早い。
でも、枝の先にほころんだ花がいくつもついていて、夜に向かう空の下で淡く光って見えた。
「こんな道、あったんですね」
「去年、物件を見に行った時に通ったの覚えてない?」
その言葉で、胸の奥がふっと揺れた。
去年。
部屋を探しに行った日。
私は、薄い青のワンピースを着ていた。
黒いSUVの窓が開いて、彼がこちらを見ていた。
「変ですか?」
そう聞いた私に、彼は一拍遅れて、
「よく似合ってます」
と言ってくれた。
小さなカフェでサンドイッチを食べたこと。
物件の地図を、彼が真剣に見てくれたこと。
「喜びそうになったので」と言われて、言葉に詰まったこと。
あの日は、デートと呼ぶには少し違ったかもしれない。
でも、今思えば、私が前に進むための大切な日だった。
「覚えてる?」
彼が聞いた。
「覚えてます」
「俺も」
短い言葉だった。
でも、それだけで十分だった。
桜の下で、彼が足を止める。
私も、つられて立ち止まった。
「ひより」
彼の声が、いつもより少し低い。
その声だけで、胸の奥が静かに震えた。
3
「前は、寝に帰るのが家だった」
「俺にとってはね」
「でも今は、帰る場所だと思ってる」
「ひよりがいるから」
「来年も、再来年も、その先もずっと」
「一緒に桜を見たい」
「夏は、花火も見たい」
「結婚してくれる?」
「俺と」
すぐに、声が出せなかった。
息が詰まって。
街灯に桜の花が照らされて、きれいだと思った。
そして、彼を見て、胸がいっぱいになった。
「私も、同じです」
「あなたと一緒にいるから」
「今の私は、色のついた世界を見ているんだと思います」
「だから、これからも一緒に見たいです」
「桜も、夏の花火も、その先も」
「はい」
「あなたと、家族になりたいです」
彼が、息を吐いた。
それが安堵なのだとわかった。
「ありがとう」
そう言って、私の手を取った。
桜の下でつないだ手は、少し冷たくて、でもすぐに温かくなった。
「結婚は、すぐじゃなくてもいいですか?」
「たくさん話して、ふたりで一緒に決めたいです」
彼を見る。
「もちろん」
「指輪も、一緒に選びたい」
私は、少し笑った。
「指輪、ないんですね」
「ケースをパッと開けて、プロポーズ。よくあるじゃないですか」
「サイズがわからなかったから」
「そこ?」
「あとで、直すの縁起悪そうだ」
そう言って、笑った。
彼からのプロポーズを受けて、数日後。
私たちはそれぞれの上司に報告した。
婚約したこと。
入籍の時期は、まだ決めてないこと。
業務に支障が出ないようにすること。
フロアマネージャーは、バレンタインデーの過熱ぶりを知っていた。
警備室でチョコの山をたまたま見たらしい。
フロアマネージャーには、これで少しは静かになるだろうと言われた。
噂が本当になった途端に、婚約の話として館内へ広がっていった。
いろんな階の同僚から、声を掛けられた。
「そうなるだろうと思ってた」
「おめでとう」
そう言ってくれた人。
「定時後に搬入口で話してたの見たのよ」
「私は、誰にも言ってないわよ」
目撃者も結構いて、知らなかったのは私たちだけだった。
少し、おもしろくなさそうな顔をする人もいて、反応は様々だった。
莉子ちゃんは両手を胸の前で握って言った。
「推しの幸せは祝福します!」
それが本音か強がりかは、わからないけれど、笑顔を見せてくれた。
水野君は、早いうちから勘づいていたようだ。
「朝倉さんの目が怖かったですもん」
彼が経過観察していたのは、水野君だったから。
恵美は、粗探しは人の常だと言って、雑に励ましてくれた。
「どこにでも、何か言わないと気が済まない人はいるもんよ」
「朝倉さんはひよりを選んだ。あんたもそう。それで終わり」
その日の夜。
玄関を開けると、2足のゴム製のサンダルが並んでいる。
こたつは、布団だけを片付けて、テーブルとして1年中うちのリビングに居座るようだ。
キッチンの棚には、ペアのマグカップが並んでおり、駅前の雑貨屋で買った小さな置時計が窓辺にある。
決めていないことは、まだたくさんある。
でも、この人とならひとつずつ相談して解決していける。
窓の外では、満開になった桜が揺れていた。
私の帰る場所は、もうここにある。
ひより日和 春のざわめき 番外編8 最終回 おわり
最後まで、読んでいただき、ありがとうございます。
婚約編もよろしくお願いいたします。




