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桜の生贄  作者: もち
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第5話 飼育小屋のアーカイブ




「……大樹、待って。一階へ下りる前に、図書室に寄りたい。」

 

 階段の踊り場で、僕は大樹のシャツの袖を掴んで引き止めた。暗闇の中、大樹が怪訝そうに眉を寄せるのがわかる。

 

「図書室?」

 

「調理室の物資が新しすぎたのが気になるんだ。

 ここがもし、僕の知ってる脱出ホラーと同じ構造なら、管理者の意図がどこかに残ってるはずなんだよ。

 図書室なら、この場所の成り立ち……攻略本みたいなものがあるかもしれない。」

 

 僕の必死な目つきに、大樹は短く鼻から息を抜いた。

 

「……分かった。

 お前の勘に賭ける。スポーツマンはデータに弱いからな、分析は任せた。」

 

 僕たちは音を殺し、一歩ずつ慎重に階段を下りた。


 一段踏みしめるたびに床がミシィと、微かな悲鳴を上げる。


 たどり着いた図書室の扉のガラス窓から中を覗き込むと、そこは外の腐敗した廊下とは対照的に、寒気がするほど整然としていた。

 

 扉に手をかけ、そっと押し開ける。

 

 ギィ。と静寂を切り裂く微かな軋みが、心臓を直接掴まれたように響いた。幸い、あの忌まわしい大鎌を引きずる音は聞こえてこない。

 

 中に入ると、空気の密度が一段と重くなった気がした。


 棚の本を一目見て、僕の確信は深まる。


 背表紙は古びたデザインを装っているが、鼻をつくのは数十年経った古書の埃臭さではなく、刷り上がったばかりのインクの生臭い匂いだ。

 

「ここは廃校なんかじゃない……廃校に見せかけた飼育箱だ。」

 

 棚の奥から抜き取った一冊の分厚い日誌。


 背表紙には『特別管理記録・第二期』と無機質なフォントで記されていた。


 ページをめくった瞬間、視界が真っ赤に染まるような錯覚に陥る。

 

《“被験者二十一名、脱落。大鎌による処理を確認。損壊部位:頭部、腹部。清掃完了”》

 

《“三名の生徒、保健室にて待機。翌朝、全員消失。処理班へ引き継ぎ”》


 文字の羅列が、僕らの命を単なる「消費期限付きのデータ」として扱っている。

 

「ユーリ、こっちもだ……!これ、実況記録かよ……っ!」

 

 大樹が震える手で持ってきたノートには、過去の犠牲者たちの断末魔が評価とともに綴られていた。

 

《“女子生徒二人、三階廊下で逃走。十秒後に捕縛。頭部損壊。絶望顔の評価:特上”》


 ……山寺さんも、川村もさんも。あんなに必死に生きたいと願って、無様に、残酷に壊されたあの一瞬が、どこかの誰かに特上なんて言葉で採点されている。

 

 僕たちは人間じゃない。ただの、味の濃い娯楽コンテンツなんだ。


 吐き気がした。


 ここは図書室ではない。殺人鬼という「コンテンツ」を最大化するための、監視記録の保管庫だ。


 ふと視線を上げると、本棚の隅に据えられた古い監視カメラの赤いランプが、嘲笑うようにぼんやりと瞬いていた。


「……っ、クソッ!見てるんだろ、どこかで!」

 

 大樹がカメラに向かって拳を振り上げる。

 

「待って、大樹!」僕は慌ててその腕を掴んだ。


 「壊したら……観客を刺激する。ルールを破れば、もっと酷いのが来るかもしれない。」

 

 大樹が悔しそうに拳を下ろした、その時だった。

 

 コツ……。廊下の彼方から、重く乾いた足音が響いた。続いて、コンクリートの上を巨大な刃が削り取る不快な金属音。

 

「っ、来た……!」

 

 僕らは反射的に、一番近い大型の閲覧机の下へ滑り込んだ。

 

 重い扉が開ききる音が、鼓膜を執拗に軋ませる。入口に、軍服を纏った巨大な影が落ちた。

 

 唐辛子の影響か、鼻息が荒く、濁った音を立てて漏れている。


 ズズッ、と喉の奥で粘液が混ざったような音が響く。


 僕が投げた粉末が、殺人鬼の粘膜を焼き、理性をさらに剥ぎ取ったのだ。


 その「自業自得」な不快な呼吸音が、机の下で震える僕の鼓膜を執拗に叩く。

 

「……クク……クククッ。いい匂いだァ……。臆病なガキが流す、酸っぱい冷や汗の匂いよォ……。」

 

 低く湿った声が、棚と棚の間を這うように響き渡る。

 

 殺人鬼はゆっくりと、獲物の恐怖を愛でるように歩を進める。机のすぐ横を、返り血を浴びた重い軍靴が通り過ぎる。


 そのたびに、鼻をつく濃厚な鉄の匂いが漂ってきた。

 

「どこだァ……どこに隠れやがったァ……。」


 ドォォンッ!!!と、突如、隣の机が大鎌の重い一撃で粉砕された。爆発的な衝撃音と共に木片が弾け飛び、僕の頬を鋭く切り裂く。

 

(……っ!?)

 

 叫びそうになる口を、僕は両手で必死に押さえ込んだ。


 隣の大樹も岩のように硬直して息を止めている。


 もし今、一回でも瞬きをすれば、その微かな音さえ聞き取られてしまいそうなほど、世界が鋭利に研ぎ澄まされている。

 

「……チッ。唐辛子のせいで、匂いが飛んじまったか……?」


 どうやら僕が投げた唐辛子の粉末が殺人鬼の鋭敏な嗅覚を妨害したらしい。

 

 いつもなら獲物の「恐怖の匂い」を正確にトレースするはずの鼻が、今はただ、獲物の血とスパイスの臭いしか捉えられないのだ。

 

 その「情報の欠如」が、殺人鬼を獣のような苛立ちへと突き動かしている。

 

 殺人鬼は鼻を鳴らし、肩に鎌を担ぎ直した。

 

 男は苛立ちをぶつけるように、担いだ大鎌の重い石突いしづきで床を、リズミカルにコン、コン、コン……と叩き始めた。

 

「鼻がダメなら、その耳障りな心音で見つけ出してやるよォ……!」

 

 静まり返った図書室に、僕の心臓の音が爆音のように響き始める。


 殺人鬼は僕達が隠れている机の脚を、軍靴の先で小突いた。

 

 その衝撃が机を伝わり、僕の背中をまるで直接蹴られたかのように貫く。

 

 恐怖に限界まで見開かれた僕の瞳に、机の下から血で赤黒く染まった大鎌の刃の先が、ゆっくりと差し込まれてくるのが見えた。

 

 もし今、恐怖に耐えかねて悲鳴を上げれば…あるいは、唾を飲み込む音ひとつ立ててしまえば、次の瞬間には大鎌の刃が机ごと僕を両断するだろう。


 ドォォンッ!!!と、再び別の机が大鎌の重い一撃で粉砕された。


 (……っ!?)


  なんとか僕たちは口に手を抑えてやり過ごす。


 殺人鬼はゆっくりと、粉砕された机の瓦礫を踏みつぶし、苛立ちをぶつけるように大鎌を床へ叩きつけた。

 

 ガリガリと木製の床を削る不快な音が響く。


「……ここには……いねぇのかァ……?」


 自分の直感が「そこにいる」と告げているのに、嗅覚がそれを裏付けない。


 殺人鬼はもう一度、僕たちの机を睨みつけたが、やがてフンと興味を失ったように鼻を鳴らすと、再び肩に鎌を担ぎ直した。

 

「クク……まぁいい。どうせそのうち、泣き喚いて這い出てくる。……逃げ場なんざ、最初から作っちゃいねぇんだからよォ……!」

 

 狂気に満ちた笑い声を残し、死神の影はゆっくりと廊下へ消えていった。


 扉が閉まり、足音が完全に遠ざかるのを、僕たちは永遠に等しい数分間、机の下で待ち続けた。

 

 やがて静寂が戻ると、大樹が泥のように這い出した。


 蒼白な顔で胸を押さえ、肩で激しく息をしている。


 僕も後に続き、冷たい床に座り込んだまま、机の上に散乱した資料を掻き集めた。


「……死んだと思った……。」

 

「……ああ。あいつ、わざとやってるんだ。

 僕たちが怯えるのを楽しんでる。まさに『観賞用』の反応を引き出すために。」

 

 資料の中には、古い新聞記事の切り抜きがあった。


「……何だ、これ。数年前の事件のスクラップ?」と、大樹は気味悪そうに顔を歪める。

 

 ≪凶悪無差別殺人鬼 一つの村を壊滅に追い込む≫

 

 ≪赤い瞳の獣。彼を怪物に変えたのは【黒塗り】の実験施設≫

 

 記事の中央にあるはずの顔写真は、上から油性ペンか何かで紙が波打つほど塗りつぶされていた。


 かつてそこにいたはずの「人間」の面影は、漆黒の塗りつぶしによって完全に抹消されている。

 

 驚異的な身体能力、赤い瞳、隔離施設。

 

 断片的な活字が脳を叩く。


 何かが、さっきの恐怖と結びつきそうになって、けれど激しく打ち鳴らされる心臓の音がそれを拒絶した。こんなの読んでいる場合じゃないと、考える余裕なんて、1ミリも残っていない。指先はまだ、机を叩かれた衝撃で痺れている。


 その隣には、一冊の子供向けの絵本≪さくらはうつくしい≫が転がっていた。


 淡い桃色の表紙は、誰かの血に汚れた手で触れられたのか、端が茶黒く変色していた。


 大樹がページをめくると、淡い桜色の風景が、読み進めるごとにドロドロとした墨色に染まり、最後は内臓をぶちまけたような赤一色で塗りつぶされている。


 そしてただ一行、幼い文字でこう書かれていた。


 みんな、いけにえになりました。


「……っ。」

 

 脳の奥を、直接針で刺されたような不快感が走り抜けた。

 

 あまりにも悪趣味な結末。


 けれど、今の僕にはその意味を解読する精神的な余裕なんて残っていない。

 

(ただの嫌がらせだ。

 僕たちを怖がらせるための、悪質な演出に過ぎない!)

 

 そう自分に言い聞かせて、僕は弾かれたように絵本を閉じた。見ているだけで、自分の正気が削り取られていくような気がしたからだ。


「……悪趣味にも程がある。これ、誰が読むんだよ。」

 

「……分からない。でも、何か嫌な予感がするんだ。この本に描かれてること……。」

 

 僕が絵本の禍々しさに言葉を失っていると、大樹が不意に立ち上がり、部屋の隅にあるゴミ箱へと歩み寄った。

 

「大樹? 何して……。」

 

「……ユーリ、お前の言う通りだよ。

 ここが『ホラーゲーム』みたいな場所だってんなら、どこかに次のエリアへ進むための『アイテム』が隠されてるはずだろ?」

 

 大樹は吐き気を堪えるような顔をしながら、ゴミ箱の中に手を突っ込み、紙屑を掻き出し始めた。

 

「管理された場所なら、僕たちをどこかへ誘導するための『鍵』が意図的に配置されててもおかしくねぇ。」

 

 ガサガサと不快な音を立ててゴミを漁っていた大樹の手が、不意に止まった。

 

「……あった。ビンゴだぜ、ユーリ。」

 

 彼が紙屑の底から拾い上げたのは、一本の冷たい金属の鍵だった。体育館の鍵。


 表面には、鋭利な刃物で削ったような、拙く、震える子供の文字が刻まれている。

 

 ≪必ず迎えに行く≫


 絶望の中で書き残された、あまりにも幼く、脆い、執念だった。

 

 確実に僕よりもっと下、そんな子供たちの純粋な『約束』さえも、この場所はエンターテインメントとして消費し、ゴミ箱に捨てさせたんだ。

 

 幼い誰かが、命の灯火が消える直前に残したであろう、果たされぬ約束の手紙を僕はそっと丁寧に広げると机の上に置いた。

 

「……大樹。僕たち、ただ逃げるだけじゃダメだ。」


 僕は鍵を見つめ、決意を込めて言った。

 

「この『ゲーム』を管理してる奴らのシナリオを、ぶっ壊そう。

 あいつが望む『絶望顔の評価』なんて、絶対にさせない。

 この情報のパズルを解いて、あいつらの喉元に突きつけてやるんだ」

 

 大樹が僕の肩に手を置き、力強く頷いた。

 

「ああ、任せろ。

 最高のバッドエンディングを用意してる奴らに、特大の逆転ホームランを叩き込んでやる。……行くぞ、ユーリ。

 ここからが本当の反撃だ」

 

 図書室の冷たい静寂を背に、僕たちは体育館の鍵を握りしめ、再び血の匂いのする廊下へと踏み出した。

 

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