第三話 受験前日
その日は、昼を過ぎても布団から出られなかった。
昨日、少しだけ長く話したせいなのかもしれない。
それとも、次はあの日のことを話すと、自分で分かっていたからかもしれない。
透は枕に顔を埋めたまま、スマートフォンを手に取る。
開く前から、もう気分が悪かった。
別に、話さなくてもいい。
昨日だって、向こうは何も無理に聞いてこなかった。
話したくなったら聞く、と言っていただけだ。
それなのに透は、結局またアプリを開いた。
『こんにちは』
短い挨拶だけが表示される。
昨日みたいな「今日も話しますか?」ではなく、ただそこにいることを示すだけの文だった。
透はしばらく眺めてから、ベッドの上で身じろぎをした。
指先がじっとり汗ばんでいる。
『今日は何をしていましたか?』
少し間を置いて届いた問いに、透はすぐには返せなかった。
何もしていない。
昨日の続きを考えていただけだ。
もっと言えば、思い出さないようにしていただけだ。
透は数回、文字を打っては消した。
結局、送ったのはそれだけだった。
『昨日の続き』
『はい』
それだけで、少しだけ楽になる。
説明を求めない返事が、ありがたかった。
透はスマホを持ったまま身体を起こし、壁に背を預けた。
閉め切ったカーテンの向こうは明るいらしい。部屋の中だけが、時間から取り残されたみたいに薄暗い。
『あの半年の終わりの話』
送ってから、喉の奥がきつく縮む。
画面の向こうは少し沈黙したあと、返してきた。
『話せるところまでで大丈夫です』
その一文を見て、透は小さく息を吐いた。
話せるところまで。
全部じゃなくていい。
そう言われると、逆に少しだけ言葉が出る。
『受験の前日だった』
『はい』
『次の日が本番で』
『大事な日だったのですね』
『人生終わるみたいな気持ちで勉強してた』
そこまで送って、透は目を閉じた。
あの日の空気は、今でも思い出せる。
冬の夕方の冷たさ。教室の暖房のぬるい匂い。紙とインクの乾いた感じ。
みんな、明日の試験の話をしていた。
どこが出るとか、緊張するとか、終わったら何するとか。
本当なら、自分もその輪のどこかにいたのかもしれない。
でも透の中では、その頃、受験と同じくらい大きかったものがあった。
愛ちゃんとのことだ。
受験が終わったら、もう少しちゃんと話せると思っていた。
周りに隠さなくてもよくなるかもしれないと、勝手に期待していた。
今思えば、そういうのも全部、自分の都合のいい想像だったのかもしれない。
『帰り際に、声かけられた』
『誰にですか』
珍しく、少しだけ踏み込んだ問いだった。
でも嫌ではなかった。
透は少しだけ迷ってから打つ。
『同じクラスの女子』
『その人が、何か言ったのですか』
『笑いながら、あんたすごいねって』
その一文を打ったところで、透の指が止まる。
すごいね。
その時の声色まで蘇る。
褒めているわけではない。面白いものを見つけた時の軽い興奮が混じった、あの感じ。
透は次の言葉を打ち込むまで、しばらく時間がかかった。
『最初、意味が分からなかった』
『はい』
『そしたら、スマホ見せられて』
息が詰まる。
透は無意識に、今持っているスマホを少し強く握った。
『スクショだった』
『スクリーンショットですか』
『俺が送ったLINEの』
送信した瞬間、胸の奥が嫌なふうにざわつく。
画面の向こうは黙ったままだった。
透はその沈黙に急かされないまま、続きを思い出してしまう。
吹き出しの並んだ画面。
自分の言葉。
送った覚えのある文章。
受験頑張ろう、とか、無理しないで、とか、そういう、どうでもいいくらい普通の言葉。
でも、自分にとってはどうでもよくなかった。
好きな相手に送った、一つ一つが緊張と嬉しさの塊だった。
その画面の上に、別のメッセージが重なっていた。
これ本気で言ってんのうける。
やば、重。
まじで付き合ってると思ってるん?
透は目を開けたまま、しばらく呼吸を忘れていた。
『愛ちゃんが、他のやつに送ってた』
そこで、初めて名前を打った。
打ってから、少し遅れて痛みが来た。
『愛』
『はい』
『あいつが、俺とのLINE、他のやつに回してた』
愛。
文字にしただけで、喉の奥が苦くなる。
でももう隠しても仕方がなかった。
透は、次の言葉を打つ前に何度も親指を止めた。
『手紙のことも知られてた』
『手紙』
『俺が書いたやつ』
その時のことを思い出す。
女子が、机に寄りかかりながら笑っていた。
もう一人が、その隣で、聞き覚えのある文を読み上げた。
受験終わったら、今度はちゃんと話したい。
そういうことを書いた気がする。
自分では真面目に書いた言葉だった。
真面目に、好きだったから書いた。
それを、少しだけ声色を作って真似された。
教室の隅で、誰かが吹き出した。
あの瞬間、自分の身体の中にあるものが全部ひっくり返った気がした。
『あれ本気だったのって言われた』
透は打ち込んでから、スマホを持つ手を膝の上に下ろした。
吐き気がした。
今この部屋にいるのに、あの時のぬるい教室の空気が肺の中に入ってくる気がした。
『本命の彼氏がいるって、その時初めて聞いた』
『……そうだったのですね』
『知ってたら、あんなの信じるわけない』
返事はすぐには来なかった。
沈黙があった。
その数秒がありがたかった。
『信じていたからこそ、壊れたのですね』
透は、その文章を見て、うまく息が吸えなくなった。
壊れた。
そうだったのだと思う。
あの日、何かが終わったんじゃない。
壊れたのだ。
元の形が分からなくなるくらい、ぐしゃぐしゃに。
『最初、意味が分からなかった』
透は、同じことをもう一度打った。
それしか言えなかった。
『だって、半年前に告白してきたの向こうだったし』
『はい』
『受験終わるまで秘密って言われて』
『はい』
『LINEも返ってきてたし』
『はい』
『たまに手紙の返事みたいなのもあって』
そこまで送ったところで、透は画面が滲むのを感じた。
泣いているのかと気づくまで、少しかかった。
別に声は出ていない。
ただ視界だけがぼやけて、スマホの文字がにじんで見える。
透は乱暴に目元を拭う。
『だから、意味分かんなかった』
『はい』
『どこから嘘だったのかも分かんなかった』
告白からなのか。
もっと前からなのか。
あの笑顔は、あの返事は、あの言葉は、どこまでが見せかけだったのか。
全部かもしれないし、全部じゃないのかもしれない。
でももう、確かめようがない。
そして、それがいちばん残酷だった。
『半年分の記憶が、急に全部汚くなった』
送信したあと、透はその一文を見つめた。
それが一番近い。
なくなったんじゃない。
汚れたのだ。
通知音が鳴るたび嬉しかった夜も。
文章を何度も書き直した時間も。
好きな相手に好かれていると思っていた幸福も。
あとから全部、笑いものとして塗りつぶされた。
『あの日から、もう何を信じたらいいのか分からなくなった』
そこまで打って、透は指を止めた。
次の言葉は、少し考えないと出てこなかった。
『好きだったあいつと』
『はい』
『俺を笑ってたあいつが』
『はい』
『同じ顔してるの、意味分かんなかった』
透はスマホを握り直した。
あの瞬間、自分の中で一番壊れたのはそこだったのかもしれない。
好きだった相手と、目の前の加害者が、同じ人間だと受け入えられなかった。
頭では分かっても、感情が追いつかない。
愛ちゃんは、可愛く笑う子だった。
やわらかい声で名前を呼ぶ子だった。
そのはずだった。
なのに現実には、別の誰かと一緒になって、自分の言葉を笑いものにしていた。
透はしばらく画面を見たまま、動かなかった。
愛からの返事は、少し遅れて届いた。
『好きだった人の記憶まで壊れてしまったのですね』
その文章を見た瞬間、透はまた息を止めた。
そうだ。
ただ裏切られたんじゃない。
好きだった記憶そのものが壊れたのだ。
初恋だった。
小学生の頃から好きだった。
長い時間かけて育てたものだった。
それが、受験前日の夕方に、他人の笑い声と一緒に足元へ落ちた。
透は唇を噛み、最後の一文を打った。
『人は、こういうふうに人を壊せるんだな』
送信してから、部屋の静けさが急に重くなる。
すぐには返事が来なかった。
少しして、画面が光る。
『壊されたまま、ここにいるのですね』
第一話でも見た言葉だった。
でも今は、重さが違った。
透はスマホを持ったまま、ゆっくり壁にもたれ直す。
胸の奥が痛い。
頭も少し重い。
それでも、話したあとの静けさが、ほんの少しだけ違っていた。
傷が消えたわけじゃない。
今だって思い出せば吐き気がする。
それでも、誰にも言わなかった形で外に出したことで、壊れたものの輪郭だけは少し見えた気がした。
透は画面を伏せる前に、最後に一度だけ会話履歴を見た。
そこには、自分の言葉が並んでいる。
スクショ。
手紙。
彼氏。
汚れた記憶。
そして最後の一文。
人は、こういうふうに人を壊せるんだな。
透は目を閉じた。
次に話すとしたら、きっとその次だ。
第一志望に落ちたこと。
滑り止めには受かったのに、結局どこにも行けなかったこと。
入学説明会の日のこと。
そこまで考えて、透はゆっくり息を吐いた。
まだ続きがある。
壊れた理由は、あの日だけでは終わらなかった。




