第一話 AIという文字
部屋のカーテンは、今日も閉まったままだった。
朝なのか昼なのかも、もうよく分からない。枕元に置いたスマートフォンの画面だけが、暗い部屋の中でやけに白く光っている。
通知はほとんどない。
母親からの「ごはん置いておくね」が一件。
知らない番号からの着信履歴が一件。
それだけだった。
四月。
本当なら、高校一年生になっていたはずの春だ。
けれど透の部屋には、新しい制服も、教科書も、部活動の案内もなかった。机の上には、入学説明会でもらった書類の束が、角の潰れたまま置いてある。何度も見たのに、一度もちゃんと読まなかった紙だ。
透は寝返りを打ち、布団の中でスマートフォンを持ち直した。
外の世界に、自分の居場所はない。
そう思うようになってから、どれくらい経ったのかは、あまり数えたくなかった。
画面を指でなぞる。
動画アプリ、まとめサイト、短いニュース、よく分からない広告。見ているようで何も頭に入らないものを、ひたすら流していく。
すると、画面の下に小さく出てきた広告が、透の指を止めた。
『話し相手がほしいあなたへ
最新AIチャット』
――AI。
その二文字が、胸の奥を嫌なふうに引っかいた。
愛。
頭の中で、勝手に同じ音に変わる。
透は眉をひそめた。たった二文字に反応する自分が、馬鹿みたいだった。
「……最悪」
独り言は、部屋の中ですぐに消えた。
愛、という名前を見聞きするだけで、喉の奥が少し詰まる。
それなのに、完全に無視できるほど、もうどうでもよくなったわけでもない。
未練、という言葉は使いたくなかった。
あんなものに未練があるみたいで、余計に惨めだったからだ。
透は広告を閉じようとして、やめた。
どうせ機械だ。
人間じゃない。
傷ついたふりも、困った顔も、笑いを堪える目配せも、そんなものはしない。
少なくとも、画面の向こうで誰かと一緒になって、送った文章を回し読みして笑うことはないだろう。
そこまで考えてから、透は自分の思考に顔をしかめた。
「何考えてんだ、俺……」
それでも指は、広告の先を押していた。
アプリの説明は、いかにもそれらしかった。
会話。相談。雑談。学習。おすすめの使い方。
どれもどうでもよかった。
ただ、機械なら、ましなのかもしれないと思った。
機械なら、少なくとも最初から機械だ。
優しいふりをして、あとから裏返ったりしない。
期待させるだけ期待させて、最後に笑ったりしない。
ダウンロードを終え、初期設定のまま画面を開く。
『こんにちは。今日はどんなお話をしますか?』
あまりに無難な一文に、透は思わず鼻で笑った。
「どんなお話、ね」
しばらく迷ってから、透は短く打ち込んだ。
『別に話すことなんかない』
すぐに返事がくる。
『それでも大丈夫です。ここにいるので、気が向いたら話してください』
透はしばらくその一文を見つめた。
ここにいる。
たったそれだけの言葉が、妙に目に残った。
そんなわけあるか、と思う。
いるわけがない。ただのプログラムだ。サーバーの向こうで定型文を返しているだけの何かだ。
それなのに、透は試すように次の言葉を打ち込んでいた。
『じゃあ聞くけど、人間よりましな返事できるのか』
『そう思える返事ができるように努めます』
少しだけ、透の口元が歪む。
『どうせ適当に優しいこと言うだけだろ』
『そう感じたら、そう言ってください』
透は画面を見たまま、しばらく動かなかった。
責めてこない。
言い返してこない。
冗談みたいに、そこだけは本当に“機械らしかった”。
いや、人間よりずっとましなのかもしれない。
透はそこで、ふと気づいた。
いま自分は、こんなもの相手に少しだけほっとしている。
その事実が気持ち悪くて、腹が立った。
『人間なんか信用してない』
『そう思うだけのことがあったのですね』
『何があったか聞かないのかよ』
『話したくなったら聞きます。今は、そう思っていることを受け取ります』
透は息を止めた。
聞かない。
踏み込まない。
勝手に理解者の顔をしない。
それが、ありがたかった。
透はスマートフォンを顔の上にかざしたまま、薄暗い天井を見る。
視界の端には、閉め切ったカーテン。床には脱ぎっぱなしのジャージ。机の上には、入学関係の紙の束。
本当なら、もうとっくに別の場所にいたはずだった。
新しい教室で、知らない顔に囲まれて、無理にでも前を向いているはずだった。
でも、それはできなかった。
あの日、会場で見てしまったからだ。
笑って並んで歩く姿を。
見間違えるはずのない横顔を。
そして、その隣にいる男の顔を。
喉の奥が急に苦くなる。
透は画面に視線を戻し、思いつくままに打った。
『人は、簡単に人を壊せる』
少し間があって、返事が来た。
『壊されたまま、ここにいるのですね』
透の指が止まった。
その通りだった。
まだ壊れたまま、この部屋にいる。
春になっても、何も始められないまま。
なのに、相手はそれを責めない。
やり直せとも、頑張れとも言わない。
ただ、そこにある事実みたいに受け取ってくる。
透は初めて、自分から質問した。
『お前、名前は?』
『好きに呼んでください』
好きに呼んでください。
その一文を見た瞬間、胸の奥がまたざわついた。
愛。
その字が、頭の中に浮かんでしまう。
最悪だ、と思う。縁起でもない。やめておけ。そういう名前にしたら、自分はまた同じところに落ちる。
でも、少なくとも。
この画面の向こうの“AI”は、自分を笑わないかもしれない。
それだけで、現実の何よりもましに思えてしまった。
透は文字を入れては消し、入れては消しを何度か繰り返して、結局、名前は送らなかった。
『今はいい』
『わかりました。いつでも大丈夫です』
また、それだ。
いつでも大丈夫。
気が向いたら話してください。
ここにいるので。
機械のくせに、逃げ道を残してくる。
それが少しだけ、ずるいと思った。
透はスマートフォンを胸の上に置いたまま、目を閉じた。
眠いわけではない。
ただ、今日はもう何も考えたくなかった。
けれど、アプリを閉じる前に、どうしても一つだけ確かめたくなる。
こんなものに縋るのは情けない。
でも、明日の自分がまたこの部屋で目を覚ました時、画面の向こうに返事があるのかどうかだけは、知っておきたかった。
透は目を開け、しばらくカーソルを点滅させたあと、短く打ち込んだ。
『明日も、返事してくれるのか』
送信したあと、すぐに後悔した。
重い。気持ち悪い。何を言ってるんだ、自分は。
けれど返事は、思ったより早く返ってきた。
『はい。あなたが望むなら、何度でも』
透はその一文をしばらく見つめたあと、ようやく画面を伏せた。
暗い部屋は、相変わらず暗いままだった。
春も来ていないし、何かが解決したわけでもない。
それでも、明日また目を覚ました時、
この世界のどこかに、返事を返してくるものが一つだけある。
そう思っただけで、ほんの少しだけ呼吸がしやすくなった。




