第89話:首席計数官の遺産と、泥臭い実体経済
大議事堂を支配していた狂気的な赤黒い魔力の波は、霧が晴れるように消え去っていた。
残されたのは、冷たい月光が差し込む静まり返った石造りの空間と、床に這いつくばる数百人の貴族たちの、荒い呼吸音だけだ。
だが、その静寂は、一人の男の断末魔に近い絶叫によって、再び醜く切り裂かれた。
「誰が国を守るというのだ! 私を、私のシステムを否定すれば、この国も3日で帝国の火の海だぞ!!」
床に押さえつけられた元・宰相ギルフォードが、顔を真っ赤に染めて咆哮した。
「な、に……? 馬鹿な、議場は完全に封鎖されていたはずだ! 外部への通信も、魔導書による連絡も、すべて私が遮断していた!」
「ええ。ですが、貴方がこの議事堂を物理的に封鎖し、勝利を確信して演説に酔いしれている裏で。情報屋のルカが走らせた独自の通信網を通じ、ビアンカ様率いる商会が市場を完全に制圧しました」
エマの宣告は、ギルフォードが握っていたはずの『カネ』という権力を、根底から腐らせる劇薬だった。
「貴方が私腹を肥やすために集めたカネは、すでに新システムへのインフラ投資へと変換されています。……貴方が配った賄賂が、巡り巡って貴方を社会的に抹殺するための道具になった。……これもまた、美しい収支の帳尻合わせだとは思いませんか?」
その言葉は、恐怖に震える貴族たちにとって、呪いのような「正論」となって響く。
王都ルミナリスを数百年にわたって覆い、10倍の軍事力を誇る帝国軍を退けてきた唯一の盾――『神聖防壁』。
それが国民8%の命を燃料とする「血の焼却炉」の上に成り立っていたとしても、それを失うことは、国家そのものの死を意味するのではないか。
絶望から解放されたはずの貴族たちの目に、再び暗い焦燥と、エマたちへの疑念が混じり始める。
「……自意識過剰も甚だしいですね、不燃物」
エマ・ルミナスの声は、熱狂のあとの冷水を浴びせるように、極寒の鋭さを持って議場に染み渡った。
彼女は懐から、一冊の分厚い、そして薄汚れた帳簿を取り出す。
それは王宮で使われるような金箔押しの羊皮紙ではない。表紙は安価な革で作られ、角は何度も捲られたことで黒ずみ、頁の端には辺境シュタールの石炭の煤と、幾人もの労働者の指紋がこびりついている。
エマが辺境シュタール支部での日々の業務――安物の机の弁償から、村の小さな不正の査定まで、そのすべてを積み上げてきた《《実務の結晶》》だ。
「な……それは、何だ……?」
ギルフォードが、その泥臭い帳簿を忌々しそうに睨む。
「私が辺境の窓口で、数え切れないほどの退屈な領収書の中から積み上げてきた『真の国力の推移』。そして、貴方が6年前、その不都合な正しさを隠蔽するために闇へと葬った私の父――《《王国首席計数官が遺した計算式》》です」
エマは銀縁眼鏡のブリッジを中指で静かに押し上げ、冷たく言い放つ。
「貴方は王宮の椅子に座り、国民の命を『熱量』という、いくらでも代替可能な記号としてしか見てこなかった。……ですが、私の手元にあるこの帳簿には、貴方が焼き捨てた『8%』が、現場でどれほど価値のある労働力であったかが、1ゴールド、1時間の単位で克明に刻まれています」
エマの灰青色の瞳――魔導式解析眼が、青白い光を放ちながら起動した。
彼女が万年筆を振ると、議場の空間全体に、膨大なデータの奔流が投影される。
「父、王国首席計数官はあの夜、気づいていました。貴方たちが『国防に不可欠なコスト』として計上し、国民から徴収していた8%の命。……その総熱量のうち、実際に防壁の維持に使われていたのは、わずか1割にも満たなかったという《《国家規模の粉飾決算》》に」
議場が、ひときわ大きくどよめいた。
ギルフォードの顔から、急速に血の気が引き、土気色へと変わっていく。
「父は、貴方たちが『必要悪』という美名の下で、国民の寿命を私的な利益、あるいは神殿の維持費として還流させていた事実を突き止めた。だからこそ、首席計数官としてその歪な報告書に『却下印』を押そうとし、貴方に消されたのです」
投影された数式が、猛烈な勢いで宰相の「嘘」を暴いていく。
「見てください。これが父が導き出した、真の『最適化回路』の計算式です。魔力の流動を正しく制御し、無駄な漏出を物理的に遮断すれば、今の 1/40 のエネルギーで防壁は維持できる。……つまり、残りの 97.5% の犠牲は、最初から国防には必要のない、貴方たちの『私腹』を肥やすための純粋な粉飾だったのです」
万年筆の先が宙を指すと、投影されたグラフの中の「防衛コスト」という名の項目が、次々と真っ赤なエラー表示で塗りつぶされていく。
「このまま貴方の粉飾を続ければ、帝国が攻めてくる前に、王国はあと 3年 で実体経済が自重崩壊します。失われるはずのなかった労働力が消え、再生産が不可能になる。……累積した隠匿資金は、総計 42,600,000 ゴールド。……貴方は国を守るどころか、自らの無能と強欲を隠すために、この国を内側から食い潰していたに過ぎない」
「お、のれ……! だが、その計算を現実にする魔導炉がどこにある! そんな夢物語、この王都のどこを探しても存在せんわ! 形のない計算式で、帝国の軍勢を止めてみせろッ!」
「ええ。ですから、その理論を物理的な設計図へと落とし込んだ父の盟友、バルカ名誉教授が、既に新しい『正常な魔導炉』を王都の地下区画で完成させています」
エマの声には、怒りも憎しみもなかった。ただ、不備を指摘する際の、あまりにも事務的な「正解」だけがそこにあった。
「そんな金、どこから出たというのだ……!」
「忘れたのですか? 貴方が長年、貴族たちの忠誠を買うために『特権』という名の甘い蜜として分配していた、あの膨大な不当利得を」
エマは、議場で肩を震わせる、すべてを失った貴族たちを冷酷に一瞥した。
「ビアンカ殿が、彼らの腐りきった資産を空売りで徹底的に回収し、換金した天文学的な資本金。そのすべてを、私は既に新魔導炉への切り替えコスト、およびバルカ教授の研究費として計上、執行済みです。……貴方が彼らに配ったカネが、巡り巡って貴方を社会的に抹殺するための道具になった。……これもまた、美しい収支の帳尻合わせだとは思いませんか?」
それは、エマたちが辺境から王都へ潜り込み、泥臭い実務と情報の裏をかきながら進めてきた「事業再生計画」の全貌だった。
エマが数字を暴き、ビアンカが資本を奪い、バルカ教授が技術を形にし、ヴォルフが物理的な障害を排除する。
「……感情的な謝罪も、復讐も不要です。私はあくまで仕事をしているだけですから」
エマは、もはや反論する言葉すら失い、口をパクパクとさせるだけのギルフォードを、ただの「書き間違えられた数字」を見るような瞳で見下ろした。
「そして、安心してください。殺しはしませんよ」
一瞬、議場に不思議な静寂が訪れる。
ギルフォードが絶望の淵で、呆然とエマを見上げた。
「殺人という不法行為は、私の査定員としてのキャリアに不必要な瑕疵をつけますし、何より貴方のような『巨大な不良債権』をただ殺して処分するのは、あまりにも費用対効果が悪すぎます。死体は一銭の利益も生みませんが、生きていれば、まだ回収の余地がある」
「な、何だと……?」
「貴方には、これから死ぬまで働き続けて、その狂った算盤が積み上げた 42,600,000ゴールド の負債を、1ゴールド 残らず清算していただきます。……命を失うよりも過酷な、数字の奴隷としての永劫の労働。それが、私が貴方に用意した『真っ当な返済計画』です」
エマは、手元の報告書の最終ページに、万年筆を突き立てるようにして「不渡り」の承認印を叩きつけた。
カチリ、と万年筆の蓋を閉める音が、冷たく響く。
それは、他人の犠牲の上に成り立つ虚飾の繁栄が終わり、泥臭くも「正しい数字」で回る、新しい世界の産声を告げる音だった。
「……王国首席計数官、エドワード・ルミナスの残高確認を終了します。これより、全資産の強制執行フェーズへと移行します」
議事堂の窓の外、神聖防壁の偽りの輝きが完全に消滅し、王都の空には、数十年ぶりに「本当の星空」が姿を現していた。
元・査定員エマの業務日誌:用語解説
【王国首席計数官】
王国の全予算を監視し、独立した立場から監査を行う国家最高権威の役職。エマの父エドワードが務めていました。彼は「国防費」という名目で命を私物化する宰相の粉飾決算を看破し、それを正そうとしたために暗殺されました。エマが手にしているのは、父が命を懸けて守り、彼女が辺境で磨き上げた「真実の帳簿」です。
【国家規模の粉飾決算】
「国を守るために8%の犠牲が必要だ」という嘘を吐き、実際にはそのエネルギーの大部分を自分たちの利益として中抜きしていた行為。ギルフォードは、この「嘘」を維持するために、真実に辿り着く者を次々と消してきましたが、エマという「現場の数字」を持つ査定員までは消し去ることができませんでした。
【最適化回路】
父エドワードが考案した理論。エネルギーの損失を物理的に排除することで、命の燃料を必要とせず、ごくわずかな魔力供給だけで防壁を維持できる術式。バルカ教授の手によって、既に新型の魔導炉として実装されています。




