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【第一部完結】剣より重い計算式(ロジック) ~異端の査定員エマ・ルミナスの監査報告~  作者: 二進
第4章:不渡りの王国

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第89話:首席計数官の遺産と、泥臭い実体経済

 大議事堂を支配していた狂気的な赤黒い魔力の波は、霧が晴れるように消え去っていた。

 残されたのは、冷たい月光が差し込む静まり返った石造りの空間と、床に這いつくばる数百人の貴族たちの、荒い呼吸音だけだ。


 だが、その静寂は、一人の男の断末魔に近い絶叫によって、再び醜く切り裂かれた。


「誰が国を守るというのだ! 私を、私のシステムを否定すれば、この国も3日で帝国の火の海だぞ!!」


 床に押さえつけられた元・宰相ギルフォードが、顔を真っ赤に染めて咆哮した。


「な、に……? 馬鹿な、議場は完全に封鎖されていたはずだ! 外部への通信も、魔導書による連絡も、すべて私が遮断していた!」


「ええ。ですが、貴方がこの議事堂を物理的に封鎖し、勝利を確信して演説に酔いしれている裏で。情報屋(じょうほうや)のルカが走らせた独自の通信網(ライン)を通じ、ビアンカ様率いる商会が市場を完全に制圧しました」


エマの宣告は、ギルフォードが握っていたはずの『カネ』という権力を、根底から腐らせる劇薬だった。


「貴方が私腹を肥やすために集めたカネは、すでに新システムへのインフラ投資へと変換されています。……貴方が配った賄賂が、巡り巡って貴方を社会的に抹殺するための道具になった。……これもまた、美しい収支の帳尻合わせだとは思いませんか?」


 その言葉は、恐怖に震える貴族たちにとって、呪いのような「正論」となって響く。


 王都ルミナリスを数百年にわたって覆い、10倍の軍事力を誇る帝国軍を退けてきた唯一の盾――『神聖防壁』。

 それが国民8%の命を燃料とする「血の焼却炉」の上に成り立っていたとしても、それを失うことは、国家そのものの死を意味するのではないか。

 絶望から解放されたはずの貴族たちの目に、再び暗い焦燥と、エマたちへの疑念が混じり始める。


「……自意識過剰も甚だしいですね、不燃物」


 エマ・ルミナスの声は、熱狂のあとの冷水を浴びせるように、極寒の鋭さを持って議場に染み渡った。


 彼女は懐から、一冊の分厚い、そして薄汚れた帳簿を取り出す。

 それは王宮で使われるような金箔押しの羊皮紙ではない。表紙は安価な革で作られ、角は何度も捲られたことで黒ずみ、頁の端には辺境シュタールの石炭の煤と、幾人もの労働者の指紋がこびりついている。

 エマが辺境シュタール支部での日々の業務――安物の机の弁償から、村の小さな不正の査定まで、そのすべてを積み上げてきた《《実務の結晶》》だ。


「な……それは、何だ……?」


 ギルフォードが、その泥臭い帳簿を忌々しそうに睨む。


「私が辺境の窓口で、数え切れないほどの退屈な領収書の中から積み上げてきた『真の国力の推移』。そして、貴方が6年前、その不都合な正しさを隠蔽するために闇へと葬った私の父――《《王国首席計数官が遺した計算式》》です」


 エマは銀縁眼鏡のブリッジを中指で静かに押し上げ、冷たく言い放つ。


「貴方は王宮の椅子に座り、国民の命を『熱量』という、いくらでも代替可能な記号としてしか見てこなかった。……ですが、私の手元にあるこの帳簿には、貴方が焼き捨てた『8%』が、現場でどれほど価値のある労働力アセットであったかが、1ゴールド、1時間の単位で克明に刻まれています」


 エマの灰青色の瞳――魔導式解析眼(トレース・アイ)が、青白い光を放ちながら起動した。

 彼女が万年筆を振ると、議場の空間全体に、膨大なデータの奔流が投影される。


「父、王国首席計数官はあの夜、気づいていました。貴方たちが『国防に不可欠なコスト』として計上し、国民から徴収していた8%の命。……その総熱量のうち、実際に防壁の維持に使われていたのは、わずか1割にも満たなかったという《《国家規模の粉飾決算》》に」


 議場が、ひときわ大きくどよめいた。

 ギルフォードの顔から、急速に血の気が引き、土気色へと変わっていく。


「父は、貴方たちが『必要悪』という美名の下で、国民の寿命を私的な利益、あるいは神殿の維持費として還流キックバックさせていた事実を突き止めた。だからこそ、首席計数官としてその歪な報告書に『却下印』を押そうとし、貴方に消されたのです」


 投影された数式が、猛烈な勢いで宰相の「嘘」を暴いていく。


「見てください。これが父が導き出した、真の『最適化回路(さいてきかかいろ)』の計算式です。魔力の流動を正しく制御し、無駄な漏出を物理的に遮断すれば、今の 1/40 のエネルギーで防壁は維持できる。……つまり、残りの 97.5% の犠牲は、最初から国防には必要のない、貴方たちの『私腹』を肥やすための純粋な粉飾だったのです」


万年筆の先が宙を指すと、投影されたグラフの中の「防衛コスト」という名の項目が、次々と真っ赤なエラー表示で塗りつぶされていく。


「このまま貴方の粉飾を続ければ、帝国が攻めてくる前に、王国はあと 3年 で実体経済が自重崩壊します。失われるはずのなかった労働力が消え、再生産が不可能になる。……累積した隠匿資金(いんとくしきん)は、総計 42,600,000 ゴールド。……貴方は国を守るどころか、自らの無能と強欲を隠すために、この国を内側から食い潰していたに過ぎない」


「お、のれ……! だが、その計算を現実にする魔導炉がどこにある! そんな夢物語、この王都のどこを探しても存在せんわ! 形のない計算式で、帝国の軍勢を止めてみせろッ!」


「ええ。ですから、その理論を物理的な設計図へと落とし込んだ父の盟友、バルカ名誉教授が、既に新しい『正常な魔導炉』を王都の地下区画で完成させています」


 エマの声には、怒りも憎しみもなかった。ただ、不備を指摘する際の、あまりにも事務的な「正解」だけがそこにあった。


「そんな金、どこから出たというのだ……!」


「忘れたのですか? 貴方が長年、貴族たちの忠誠を買うために『特権』という名の甘い蜜として分配していた、あの膨大な不当利得を」


 エマは、議場で肩を震わせる、すべてを失った貴族たちを冷酷に一瞥した。


「ビアンカ殿が、彼らの腐りきった資産を空売り(ショート)で徹底的に回収し、換金した天文学的な資本金。そのすべてを、私は既に新魔導炉への切り替えコスト、およびバルカ教授の研究費として計上、執行済みです。……貴方が彼らに配ったカネが、巡り巡って貴方を社会的に抹殺するための道具になった。……これもまた、美しい収支の帳尻合わせだとは思いませんか?」


 それは、エマたちが辺境から王都へ潜り込み、泥臭い実務と情報の裏をかきながら進めてきた「事業再生計画」の全貌だった。

 エマが数字を暴き、ビアンカが資本を奪い、バルカ教授が技術を形にし、ヴォルフが物理的な障害を排除する。


「……感情的な謝罪も、復讐も不要です。私はあくまで仕事をしているだけですから」


 エマは、もはや反論する言葉すら失い、口をパクパクとさせるだけのギルフォードを、ただの「書き間違えられた数字」を見るような瞳で見下ろした。


「そして、安心してください。殺しはしませんよ」


 一瞬、議場に不思議な静寂が訪れる。

 ギルフォードが絶望の淵で、呆然とエマを見上げた。


「殺人という不法行為は、私の査定員としてのキャリアに不必要な瑕疵をつけますし、何より貴方のような『巨大な不良債権』をただ殺して処分するのは、あまりにも費用対効果コストパフォーマンスが悪すぎます。死体は一銭の利益も生みませんが、生きていれば、まだ回収の余地がある」


「な、何だと……?」


「貴方には、これから死ぬまで働き続けて、その狂った算盤が積み上げた 42,600,000ゴールド の負債を、1ゴールド 残らず清算していただきます。……命を失うよりも過酷な、数字の奴隷としての永劫の労働。それが、私が貴方に用意した『真っ当な返済計画』です」


 エマは、手元の報告書の最終ページに、万年筆を突き立てるようにして「不渡り」の承認印を叩きつけた。


 カチリ、と万年筆の蓋を閉める音が、冷たく響く。


 それは、他人の犠牲の上に成り立つ虚飾の繁栄が終わり、泥臭くも「正しい数字」で回る、新しい世界の産声を告げる音だった。


「……王国首席計数官、エドワード・ルミナスの残高確認を終了します。これより、全資産の強制執行フェーズへと移行します」


 議事堂の窓の外、神聖防壁の偽りの輝きが完全に消滅し、王都の空には、数十年ぶりに「本当の星空」が姿を現していた。



元・査定員エマの業務日誌:用語解説


王国首席計数官(しゅせきけいすうかん)

 王国の全予算を監視し、独立した立場から監査を行う国家最高権威の役職。エマの父エドワードが務めていました。彼は「国防費」という名目で命を私物化する宰相の粉飾決算を看破し、それを正そうとしたために暗殺されました。エマが手にしているのは、父が命を懸けて守り、彼女が辺境で磨き上げた「真実の帳簿」です。


国家規模の粉飾決算こっかきぼのふんしょくけっさん

 「国を守るために8%の犠牲が必要だ」という嘘を吐き、実際にはそのエネルギーの大部分を自分たちの利益として中抜きしていた行為。ギルフォードは、この「嘘」を維持するために、真実に辿り着く者を次々と消してきましたが、エマという「現場の数字」を持つ査定員までは消し去ることができませんでした。


最適化回路(さいてきかかいろ)

 父エドワードが考案した理論。エネルギーの損失を物理的に排除することで、命の燃料を必要とせず、ごくわずかな魔力供給だけで防壁を維持できる術式。バルカ教授の手によって、既に新型の魔導炉として実装されています。


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