第90話:特権の自主廃業と、破綻者の最悪な足掻き
新魔導炉の稼働準備が整っていること。そして、その巨大なインフラを構築するための建設資金のすべてが、目の前の貴族たちが長年にわたって隠匿していた資産から「徴収」されたものであるという事実。
エマ・ルミナスの口から極めて事務的に告げられたその報告は、大議事堂を支配していた恐怖の空気を、1瞬にして異様なものへと変質させた。
水を打ったように静まり返っていた空間は、わずかな空白ののち、一転して醜悪な熱狂と憤怒の坩堝へと変貌したのである。
「ふ、ふざけるな! それは我々が代々守ってきた正当な資産だぞ! それを勝手に持ち出すなど、ギルドによる国家への《《窃盗》》ではないか!」
「いかにも! 我々のカネで作られたというのであれば、その新しい魔導炉の所有権は、出資者である我々貴族にあるはずだ! 防衛システムの管理権を寄越せ!」
先ほどまで「防壁が消えれば帝国に殺される」と床に這いつくばって絶望していた者たちが、新たな利権の匂いを嗅ぎつけた途端、我先にと立ち上がり、口々に自らの「権利」を主張し始める。
自らの命が助かる新しい安全圏が用意されたと知るや否や、掌を返してその上に座り込もうとする。そのあまりにも浅ましい姿を、エマは銀縁眼鏡の奥から、まるで償却済みの無価値なスクラップの山でも見るような、極めて冷ややかな瞳で見つめていた。
「……静粛に。無意味な発言で、この厳粛な清算手続きを遅延させないでいただきたい」
エマの静かな、しかし空間の温度を数度下げるような有無を言わせぬ声が、議場の喧騒をピタリと制圧する。
「誤解のないよう、正確な数字の推移をお伝えしておきます。徴収された資産は、貴方たちがこれまで不当に得ていた免税措置、架空の防衛予算の過大請求、そして国庫からの横領によって生じた『返済すべき負債』を、我が王立保険ギルドが厳密に回収したに過ぎません。すでに法務部門および実務的な資金移動の手続きは、ギルドマスターの手によって完全に終了しています」
エマは手元の公文書綴りを一瞥し、事実だけを淡々と突きつけた。
「現在の貴方たちの持ち分は、厳密な計算の結果、正確に0ゴールドとなっております」
「0だと……!? 我々の財産がすべて没収されたというのか! ならば、我々はこの国でどのような立場になるというのだ!」
「適正な納税義務を負う、一市民です。特権という名の《《架空の利益》》を差し引けば、貴方たちの実質的な社会的価値はそれ以外に残りません。……それが、この国の健全な姿です」
エマの宣告は、物理的な刃よりも深く、死刑宣告よりも重く貴族たちの心に突き刺さった。彼らは自らのアイデンティティそのものを論理的に否定され、言葉を失って次々とその場にへたり込んでいく。
一方で、議場の中央。
すべての権威を剥ぎ取られ、絶対的だと信じていた魔力支配の構図すらも覆された元・宰相ギルフォードは、もはや激昂することすらできず、ただ虚空を見つめていた。
彼が心血を注いで築き上げた搾取のシステムは、エマという1人の査定員によって、その根底から《《不適合》》として完全に切り捨てられたのだ。
「……計算、計算か。貴様らはどこまでも、血の通わぬ数字で私を裁くのだな」
ギルフォードが、うわ言のように呟きながら、自らの懐へとゆっくり手を伸ばした。
そして取り出したのは、赤黒く不気味に脈動する、拳大の小さな水晶球。それは王宮地下に広がる旧・魔導炉を直接制御し、すべての安全装置を解除するための、最高管理者権限の鍵であった。
エマは、その水晶が取り出されるわずか数10秒前――貴族たちが自分たちの資産について騒ぎ出した混乱の隙に、背後に控えていたセラ主任とバルカ教授へ、目配せだけで最終的な指示を送っていた。
2人は音もなく議場の裏口から抜け出し、地下3層の旧管理通路へとすでに姿を消している。正面の交渉が「最悪の決裂」を迎えた際、新システムの起動を物理的に完遂させるための、事前の戦略的配置だった。
そして今、ギルフォードの指が、破滅の水晶に力を込める。
「ヴォルフ。大理石の熱伝導率から算定し、床面温度が15秒以内に環境維持の限界値を突破します。私を確保して石柱の台座へ。貴方はそのまま天井の梁へ移動し、次の工程に備えなさい」
エマの声は、極めて事務的だった。絶叫も焦りもない。ただ、目前に迫った致死のリスクに対する、最も合理的な回避行動の指示。
「了解だ。……舌を噛まねぇようにしてな、査定員殿」
ヴォルフはエマの言葉が終わるよりも早く、彼女の細い腰を片腕で強引に引き寄せると、急速に熱を帯び始めた大理石を力強く蹴った。
人間離れした、純粋な筋力による跳躍。
彼は議場を支える太い石柱の、床から5メートルほどの高さにある意匠の縁――安全な台座へとエマを静かに降ろした。そして自身はそのまま柱の表面を蹴り上がり、より高い位置エネルギーを確保するために、天井付近の太い梁の上へと、音もなく身を潜めた。
直後。
パァンッ、というガラスが弾けるような乾いた音が響き、ギルフォードの手の中で水晶が粉々に砕け散った。
ズズズ……ッ。
大議事堂の底、はるか地下の岩盤の奥底から、大地そのものが低く悲鳴を上げるような、重苦しい地鳴りが沸き起こる。
旧・魔導炉にかけられていた制御がすべて破棄され、行き場を失った膨大な魔力が回路を逆流し、議場の1点へと集束していく。
「貴様ら全員……私の築き上げたこの王都と共に、跡形もなく消え去るがいい」
ギルフォードの足元から、分厚い大理石が瞬く間に赤熱し、ドロドロに溶け出しながら朱色の光を噴き上げた。
議場の空気は瞬時に膨張し、逃げ惑う貴族たちが醜い悲鳴を上げながら重厚な扉へと殺到する。だが、暴走した魔力はすでに扉の物理的な開放を拒絶しており、議場は巨大な高熱の閉鎖空間へと化していた。
しかし、石柱の高所という安全圏からその惨状を見下ろすエマの表情に、揺らぎはない。
彼女は乱れたスレート・グレーの制服を整えることもせず、懐から使い込まれた銀時計を取り出して、パチンと蓋を開いた。
「……420秒。セラ主任たちが地下通路へ入ってから、予定通りの経過時間です」
エマは銀縁眼鏡の奥の瞳を細め、下から吹き上がってくる熱風を浴びながら、冷徹に秒針の動きを見つめる。
エマたちが正面で注意を引き、ギルフォードを論理的に追い詰める。その間に、別働隊が地下3層の心臓部へ潜入し、新しいシステムの接続準備を整える。それが、この異常事態における唯一の「完遂すべき業務」であった。
「さて。これより最終工程――『物理的な接続の切り替え』を開始します」
エマは黒い通信機を起動し、すでに地下の制御室へと到達しているはずのセラ主任へと、事務的な連絡を入れた。
「セラ主任。地上は予定通り、重大なシステムの暴走を確認しました。これより180秒間、アリアが相殺による環境維持を担当します。その間に、燃料の充填作業を完了させてください」
業火が噴き上がる議場で、1人の査定員が刻む正確な秒針の音だけが、世界の正気を繋ぎ止めていた。
エマの通信による指示を受け、石柱の影で待機していた元聖女アリアが、静かに1歩を踏み出す。
彼女は赤く焼けた床を見つめ、神への祈りではなく、エマから与えられた「数式」を胸に刻み、その華奢な足を熱波の中へと踏み出した。
アリアは自身の周囲に、魔力の波長を逆位相でぶつける『白銀の冷却領域』を展開し、溶け始めた大理石の上へ、1歩、また1歩と確実な足取りで向かっていく。彼女が目指すのは、地下からのエネルギーが最も集中して噴き上がる「主回路の結節点」の真上であった。
そこが最も過酷で危険な地点であり、同時に、相殺によって被害を最小限に抑え込める唯一の観測点であることを、エマの計算式が明確に示していたのだ。
すべては計算通り。
この180秒という極小の猶予時間の中に、王国の未来のすべてが圧縮されていた。
■元・査定員エマの業務日誌:用語解説
【管理者権限の破棄】
ギルフォード元・宰相が行った、システムの最終的な隠蔽工作です。管理用の水晶を物理的に破壊することで、自ら制御を放棄し、暴走を誘発させました。書類の焼却に近い悪質な行為ですが、我々はこれすらも想定内のリスクとして計上済みです。
【環境維持の限界】
地下からのエネルギー逆流により、大議事堂の床が構造物としての安定性を失った状態です。大理石の熱伝導率から、床面が生存不可能な温度に達するまでの時間を15秒と算定。即座に高所へ退避することが、最も合理的な生存戦略となります。
【物理的な接続の切り替え】
暴走した旧システムを切り離し、新システムへと供給元を繋ぎ変える手続きです。もはや修復不可能な負債に対し、我々は強制的な「精算」を執行します。
【180秒の猶予】
新システムを稼働させるための準備時間です。アリアが相殺によって稼ぎ出すこの3分間という時間を、1秒たりとも無駄にすることは許されません。




