第52話:聖域の強制開示と、地下迷宮の防壁
朝陽が王都ルミナリスの白亜の尖塔を黄金色に染め上げる頃。
大通りを抜けたエマたちは、王都の中央にそびえ立つ大神殿の正門前に、その姿を現した。
巨大な大理石の階段の上では、白銀の鎧に身を包んだ数十名の神殿騎士たちが、すでに槍を交差させて分厚い壁を作っていた。彼らの顔には、昨日の「勝利」を笠に着た傲慢さと、ギルドという「卑しき計算屋」に対する明確な蔑みが張り付いている。
「止まれ! 監査局の犬ども!」
神殿騎士の隊長が、階段の上からエマたちを見下ろして怒声を響かせた。
「此処から先は、神に仕えし者のみが立ち入りを許される聖域である! カトリーヌ様の慈悲により昨日は見逃してやったが、二度も神聖なる門を汚そうというなら、実力で排除する!」
周囲には、朝の礼拝に訪れていた民衆たちが、ざわめきながら事態を遠巻きに見守っている。エマは微かに息を吐き、隣を歩く赤い髪の女性――セラの裾を軽く引いた。
セラはエマの意図を静かに汲み取ると、不敵な笑みを浮かべて一歩前へ出た。
「あら、随分とよく吠える番犬ね。……でも、首輪の紐を握っているのが誰なのか、すっかりお忘れのようね」
セラは懐から、一通の分厚い羊皮紙を取り出した。赤い封蝋が割られ、ギルド総裁代行の巨大な印章が朝陽を反射してギラリと輝く。
「『臨時監査執行状』よ。……勘違いしないでもちょうだい? 私たちは、あなたたちの崇高な『宗教活動』の邪魔をしに来たわけじゃないわ」
セラは冷たい声で、しかし周囲の民衆にもはっきりと聞こえるように告げた。
「東の廃村で、勇者様が討伐された魔獣。……あれは、違法な闇ブリーダーから買い付けられた《《欠陥品》》だった。牙を抜かれ、禁忌の薬で狂わされた危険な魔獣が、もし管理を逃れて市街地に溢れ出していたら? 王都の治安は、深刻な脅威に晒されていたわ。ギルドは王都防衛の観点から、その危険な物資の『流通経路』と『資金源』を強制調査する。……これは、王国の安全を守るための公務よ」
セラの放つ「大義名分」は、カトリーヌが昨日組み上げた信仰の盾を、側面から無効化する法的ロジックだった。
「……これを拒み、公務執行を妨害するというのなら。明日から、神殿へのあらゆる物資の流通を完全にストップさせてもいいのよ? 毎朝の焼きたてのパンも、聖杯に注ぐワインも、あなたたちのその立派な鎧を磨く油も、ね」
圧倒的な経済的権力(定数)の行使。
隊長の唇がわななき、握りしめた槍の切っ先が力なく下がる。彼らには、逆らう権利も、その後の責任を取る覚悟もなかった。
「……道を開けなさい。監査局の《《お通り》》よ」
セラの冷徹な一言で、難攻不落だった「聖域」の物理的な門が、重々しい音を立てて強制的に開示された。
* * *
ステンドグラスから色とりどりの光が差し込む、荘厳な大礼拝堂。
その最奥、一般の信者が決して立ち入ることのできない祭壇の裏手に、アリアの案内で一行は足を踏み入れた。
「……ここよ。このレリーフの裏が、地下の『至聖所』へ続く隠し通路になっているわ」
アリアが壁の隠し石を押し込むと、音もなく石壁がスライドし、暗く冷たい空気が口を開けた。松明の明かりだけが頼りの、長く、どこまでも続く螺旋階段。
「……酸素濃度の低下を、確認。……階段の傾斜角が、私の身体的リミットを……超えました……」
地下へ降り始めてわずか数分。虚弱なエマの膝がガクガクと震え、肺がヒューヒューと悲鳴を上げ始めた。
「……おい。無駄に呼吸を荒くしてリソースを消費するな」
前を歩いていたヴォルフが足を止め、振り返る。
彼はエマの返事を待たず、その細い身体を軽々と、正面から腕の中に抱え上げた。
「……ヴォルフ。……この態勢は、私の視界を不当に制限……」
「背負ったら背中の剣が抜けねえだろ。……おとなしくしてろ、計算機」
ヴォルフは大剣を背負ったまま、エマを「前に抱える」形で階段を下り始めた。
エマの顔がヴォルフの厚い胸板のすぐ近くに来る、少しばかり不自然な距離感。だが、彼の歩みは驚くほど安定しており、エマは揺れに思考を乱されることなく、眼鏡の奥で周囲の壁を冷徹に観察することができた。
「……異常です。……地下へ進むにつれ、建材のグレードが極端に落ちています。上の礼拝堂には無駄な大理石を敷き詰めているのに、ここは耐震補強すら《《中抜き》》されていますね。……帳簿上の維持費と、実態が乖離しています」
エマの指摘通り、地下深くへ潜るにつれて、神殿の「神聖さ」というメッキは剥がれ落ちていった。
乳香と百合の芳醇な香りはとうに消え失せ、代わりに鼻を突くのは、澱んだ湿気と鉄錆、そして……。
「……うぇ、なんだこの匂い。肉が腐ったような……酷い悪臭だぞ」
先頭を歩くルカが、マフラーで鼻と口を覆いながら顔をしかめた。
「……血と、澱んだ魔力の匂いよ。気をつけて、もう三層目の入り口だわ」
アリアの黄金の瞳が、暗闇の中で鋭く光る。
* * *
螺旋階段を降りきった先。
地下三層目の入り口を塞ぐ堅牢な鉄格子の奥に、巨大で蠢く「影」が複数、待ち構えていた。
それは、神殿騎士ではない。
粗悪な石と鋼で造られたいびつなゴーレムと、複数の魔獣の死骸を強引に縫い合わせた、醜悪なキメラたちだった。
「……グルルルルッ……! アアァ……ッ!」
腐肉の匂いの正体であるキメラが、粘液を滴らせながら低い咆哮を上げる。
聖なる神殿の地下に隠された、あまりにも冒涜的な光景。ルカが息を呑み、セラが嫌悪に顔を歪める中、ヴォルフの腕の中に収まったエマだけが、感情の起伏を一切排した声で、淡々と告げた。
「……神殿の固定資産台帳には、一切記載されていない存在です。減価償却の概念すら存在しない不法投棄物。あるいは……裏帳簿を守るための、物理的な《《防壁》》ですね」
ヴォルフはエマを、壁際の安全な場所へ静かに降ろした。
まるで壊れやすい精密機器を配置するような丁寧さと、それでいて無愛想な無造作さで、彼女をセラたちの保護下へと戻す。
「そこにいろ。……計算を間違えたら叩き斬るぞ」
「……善処します。ヴォルフ、正面の個体を処理してください」
ヴォルフは短く鼻を鳴らすと、自由になった両手で背中の鞘から大剣を抜き放った。鋼が擦れ合う鋭い金属音が通路に響き、刃こぼれ一つない剣身が、松明の光を鈍く弾いた。
「台帳に載ってねえ存在なら、ここでいくら叩き壊しても、神殿から『器物破損』の弁償を求められる心配はねえってことだ」
ヴォルフの琥珀色の瞳が、獰猛な光を帯びる。
次の瞬間、床を蹴る爆発的な踏み込みと共に、ヴォルフの巨体がゴーレムの懐へと飛び込んだ。
ガガァンッ!!
魔力ではない。純粋な暴力と、質量と、遠心力。
完璧な体幹から振り抜かれた大剣が、ゴーレムの分厚い石の胴体を真っ二つに両断する。
「……右、キメラの縫合部。術式による接合ではなく、物理的なボルトで強引に固定されています。……部材費をケチった形跡がありますね。衝撃を代入すれば、容易に構造破綻します。……ルカ」
「了解!」
壁際からのエマの事務的な指示――「手抜き工事の指摘」に呼応し、闇に溶け込んでいたルカが躍り出る。彼の放った暗器が、キメラの視界を奪い、前肢の脆弱な接合部を的確に切り裂いた。
体勢を崩したキメラの首筋へ、ヴォルフの大剣が容赦なく叩き込まれる。
断末魔すら上げる暇もなく、違法な防衛兵器たちはただの「廃棄物」へと変わっていった。
「……ゴーレムの材質、劣悪な砂岩。キメラの素材は、廃棄予定の低級魔獣。……本来の資産価値は、ゼロ、あるいはマイナスです」
エマは戦闘の最中であっても、破壊される敵の「価値」を算出し続けていた。
「……これほど低コストで構成された防壁で、私の調査を止められると判断したのなら……それは、経営陣としての致命的な《《見積もり不足》》です」
* * *
数分後。
静寂の戻った通路の奥、破壊された石と肉の残骸を乗り越え、一行はついに最奥の広間へと到達した。
そこには、物理的な鍵穴のない、巨大で禍々しい金属の扉がそびえ立っていた。冷たい黒鋼の表面には、びっしりと狂気的なまでの幾何学模様と、古代の文字が刻み込まれている。
扉の奥からは、ズズン、ズズンと、巨大な心臓の鼓動のような、得体の知れない重低音が響いてきていた。
「……扉の表面に刻まれたノイズの羅列。あれが『聖典記述法』ですね、アリアさん」
エマは、ヴォルフの手を借りることもなく、自らの足で一歩、扉へ近づいた。
肺の奥がまだ微かに疼いているが、彼女の意識はすでにその扉の「先」へと飛んでいた。
「ええ。間違いないわ。……祈りの暗号で封印された大金庫。ここから先が、神殿が隠し続けてきた本当の聖域よ」
アリアが扉の前に進み出る。
彼女の指先が、空中に見えない文字を描くように動き始め、解除のための動作に入った。
エマは、銀縁眼鏡を中指でゆっくりと押し上げた。
レンズの奥の灰青色の瞳が、その向こう側に眠る「最悪の赤字」を直視するための、冷徹な演算を加速させる。
「……現在時刻、午前10時15分」
エマの、感情を排した冷たい声が、地下の広間に響き渡る。
「……これより、神殿の隠し資産に対する、強制監査を実行します」
■査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【防衛兵器】
資産や情報を守るために構築された物理的・論理的な障壁。
神殿が地下に配置していた個体は、固定資産台帳に記載されていない「簿外資産」です。法的な手続きを経ていない違法な存在である以上、監査官である私たちがこれを物理的に解体(処分)しても、法的な損害賠償義務は一切発生しません。ヴォルフによる「在庫整理」は、極めて妥当な処理と言えます。
【強制監査】
相手の同意の有無に関わらず、法的な権限を用いて執行される実態調査。
どれほど美しい信仰の言葉で覆い隠そうとも、扉の向こうには「数字」という冷酷な結果が必ず残されています。嘘を真実に変換し続けるためのコストは、いずれ限界に達します。その臨界点を、今ここで突きつけます。




