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【第一部完結】剣より重い計算式(ロジック) ~異端の査定員エマ・ルミナスの監査報告~  作者: 二進
第3章:勇者たちの『経費精算』

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第51話:合流する定数たちと、祝杯の隠れ家

 王都ルミナリスの地下。投資家ビアンカが所有する『隠れ家』。


 東の廃村で神殿広報官カトリーヌが展開した「不可侵領域セーフ・ゾーン」に弾き飛ばされ、戦略的な撤退を選択してから、一夜が明けていた。

 石造りの薄暗い室内には、重厚な暖炉の火が爆ぜる音と、無数の羊皮紙が擦れ合う乾燥した音だけが響いている。


 現在時刻、午前08:30。


 エマは深いソファの上で、厚手の毛布を幾重にも纏い、銀縁眼鏡の奥の瞳を鋭く尖らせていた。

 徹夜でアリアの暗号「聖典記述法」を脳内にインストールし続けた反動で、視界の端にはいまだに青白い演算の残光が明滅している。

 

 彼女の目の前のマホガニーのテーブルには、解読を終えた神殿内部の構造図が、勝利の予兆のように静かに鎮座していた。


「……暗号の法則性は完全に掌握しました。神殿の最奥、地下3層目の構造的空白。そこに『真実』が計上されているのは間違いありません。……ですが」


 エマは、冷めきったココアのカップを握る指先に力を込めた。


「どれほど完璧な数式を組み上げても、それを実行するための『法的権利』が欠落したままです。無許可での侵入は、どれほど正しい結果を導き出そうとも、法的な証拠能力を持ち得ない。それでは、父の遺した『適正な決算』にはならないのです」


 エマの唇から漏れたのは、数字を愛する者ゆえの、あまりにも生真面目な苦悩だった。

 アリアが心配そうにエマの顔を覗き込み、ヴォルフが壁際で大剣の手入れをしながら鼻を鳴らした、その時だった。


 ――ガチャンッ!


 地下室の重厚な扉が、警報のような音を立てて跳ね上がった。


「……あー、もう! どいつもこいつも頭が固い爺さんばっかりで、化粧が剥げそうになったわよ!」


 王都の凍てつく朝の空気と共に転がり込んできたのは、赤いポニーテールを乱したセラだった。

 彼女の美しい顔には、一晩中権力者たちと怒鳴り合ってきたことを物語る深い隈と、それ以上に鮮烈な、勝利を確信した肉食獣のような笑みが浮かんでいた。


「セラ、先輩。……ギルド本部への、法的調査権の再申請は却下されたはずでは?」


「相変わらず可愛げがないわね、エマ。あんたは数字のプロだけど……《《政治》》ってのはこうやるのよ」


 セラはドカッと椅子に腰掛け、ヴォルフが横から無言で差し出した水差しを奪い取るようにして呷った。

 そして、革の鞄から一通の、重厚な封蝋が施された羊皮紙を取り出し、テーブルの中央に叩きつけた。


 そこには、ギルド総裁代行であるエレナの公式な公印が、確かな重みを持って押されていた。


「……『臨時監査執行状』。……セラ主任。これをどうやって? ヴァレンタイン総裁の息がかかった現状のギルドで、神殿への介入など、本来なら決裁が通るはずがありません」


「カトリーヌは『宗教活動の聖域』だって言い張ったわね。だから、論点をズラしてやったのよ」


 セラは、ルカがゴミ箱から拾い集めた「1,200ゴールドの領収書」を、細い指先で弾いた。


「私たちは『神殿の帳簿』を調べるんじゃない。ルカが拾った証拠によれば、勇者が戦っていた魔獣は、違法なブリーダーから買い付けた『欠陥品』だった。牙を抜かれ、薬を盛られた魔獣が、もし管理を逃れて市街地に逃げ出していたら? これはもう宗教の話じゃないわ。王都の治安を脅かす『特定危険物資の不適切管理』よ」


 エマの脳内で、セラの言葉が瞬時に数式へと変換されていく。


「……なるほど。治安維持の名目であれば、神殿の内部規定よりも王国の安全保障が優先される。不適切な物品の購入に神殿の資金が流用されている疑いがある以上、ギルドには立ち入る正当な権利が発生する……。宗教の壁そのものを壊すのではなく、壁の横を通り抜ける『法的トンネル』を掘ったわけですか」


「その通り! ギルドの偉いさんたちも、自分の子供や愛人が魔獣に襲われるかもって脅されたら、震えながらハンコを押すしかなかったわよ。これで『不可侵領域』の門だろうと、ギルドの権限で正面から堂々と蹴り破れるわ。神の壁なんて、公衆衛生の前にはただの薄紙よ」


 エマの灰青色の瞳に、鮮やかな理性の光が戻る。

 セラの政治的な立ち回りと、規約の抜け穴探し。それはエマの冷徹な演算能力とは異なる、生々しくも強力な「権力という名の定数」の行使だった。


「……見事な論理の構築です、セラ先輩。これで、法の盾は手に入りました」


 * * *


 作戦会議の重々しい空気を物理的にぶち壊すように、芳醇な肉の焼ける匂いと、赤ワインが煮詰まる濃厚な香りが漂ってきた。


「……理屈は揃ったんだろ。だったら、とっととテーブルを片付けろ。冷めるぞ」


 部屋の奥にある小さなキッチンで、ヴォルフが無言で大鍋を振るっていた。

 彼が乱暴な手つきでテーブルの中央に置いたのは、厚切りの猪肉を香味野菜と赤ワインでじっくりと煮込んだ、野性味溢れるシチューだった。


「……ヴォルフ。……この料理の、原価率は?」


「……黙って座れ、お嬢様。食い物くらい、原価も理屈も抜きで身体に入れろ。明日からあんな壁とやり合うんだ。燃料が空っぽの機械なんて、粗大ゴミ以下だぞ」


 ヴォルフは呆れたように鼻を鳴らし、エマの前に、一番肉が大きく切られた皿を無骨に置いた。


 立ち上る湯気。肉の脂の甘味と、ワインの酸味が混ざり合った暴力的なまでのカロリーの匂いが、疲弊したエマの感覚を刺激する。

 彼女は小さな銀の小匙スプーンを手に取ると、熱いシチューを一口、ゆっくりと口に運んだ。


「……熱い。……食道を通る異常な熱量が、私の自律神経を不当に刺激しています。ですが……脳細胞の修復と、明日の肉体的な負荷を考慮すれば、極めて適正な納品(デリバリー)と言えるでしょう」


「相変わらず可愛げがないわね、あんたは! 素直に美味しいって言えばいいのに!」


 セラが快活に笑いながら、エールがなみなみと注がれた木製のジョッキを掲げた。


「さあ、皆! 泥にまみれた勇者を完全にゴミ箱に叩き込み、神様の金庫をこじ開けるための……最初の《《決算》》に、乾杯しましょう!」


 カチン、というジョッキとグラスが触れ合う音が、地下の隠れ家に響く。

 アリアが照れくさそうに微笑みながらパンを千切り、ルカが「俺が拾った領収書のおかげだな!」と胸を張りながらシチューを頬張る。


 エマは、銀の小匙を止めたまま、自分の皿から立ち上る湯気をじっと見つめた。


 13歳の冬。

 父を失い、すべてを奪われたあの日から。かつての彼女の人生は、己の脳だけを唯一の信頼できる数字として生き抜く、孤独で冷たい計算の連続だった。

 だが今は違う。セラの政治力、アリアの内部知識、ルカの機動力、そしてヴォルフという最強の物理演算。


 バラバラだった「定数」たちが、一つの数式の下に集結している。

 それは、どんな神の奇跡よりも複雑で、人間臭くて不確定で、けれど決して壊れることのない「チーム」という名の解だった。


 エマは不器用な手つきでシチューの二口目を口に運び、嚥下する。

 温かな熱が、胃の腑から身体中へと広がっていく。


「……現在時刻、21:30。燃料の再納品、および休息の開始を承認します。明朝 05:00、神殿本丸の強制監査を開始します」


 エマの静かな声が、暖炉の火の爆ぜる音に溶けていく。

 1ゴールドの狂いもない、真実を暴くための本当の戦いが、今ここから始まろうとしていた。


■査定員エマの業務日誌:今回の用語解説


臨時監査執行状りんじかんさしっこうじょう

 ギルド規約に基づき、特定の不祥事や法的疑義に対して強制調査を行うための法的根拠。本来、神殿のような宗教特権を持つ組織には届かないものですが、今回は「危険魔獣の流通経路調査」という治安維持の名目を用いることで、不可侵領域をバイパスする論理的・法的な楔として機能させました。政治的な根回しが必要な、特殊な「外部変数」です。


定数(ていすう)(仲間)】

 数式において、状況が変わっても値が変化しない数のこと。

 私の帳簿において、一時期の感情で揺れ動く人間は本来「信頼できない変数」でしかありません。しかし、現在の私を支える者たちは、それぞれの信念に基づき、決して値を変えることのない強固な「定数」へと進化しました。この数式なら、どのような巨大な闇が相手でも、解を導き出せると確信しています。


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