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【第一部完結】剣より重い計算式(ロジック) ~異端の査定員エマ・ルミナスの監査報告~  作者: 二進
第2章:白亜の魔都と、偽りの防衛線

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第43 話:取り付け騒ぎと、国家の不渡り

 王都ルミナリス、中央広場にそびえ立つ王立中央銀行。

 午前 8 時 ちょうど。開門を告げる鐘の音が、82 デシベル という極めて大きな、耳を聾するほどの轟音となって広場に響き渡り、白亜の石畳を物理的な振動として震わせた。 100 年 前に鋳造された青銅製の扉が、 0.04 ミリ ほど磨耗した蝶番(ちょうつがい)の悲鳴のような軋みを立てて、ゆっくりと開かれる。

 その瞬間、広場を埋め尽くしていた 4,285 人 の群衆が、決壊した堤防から溢れ出した濁流のように窓口へと殺到した。


「全額、現貨で引き出させろ!」

「今すぐ解約だ! 私の 52,000 ゴールド 、耳を揃えて出しやがれ!」


 怒号が石造りの高い天井に反響し、銀行内の空気は二酸化炭素濃度が 3.2 パーセント ほど上昇したかのように、呼吸を阻害するほどの重圧となって滞留した。人の熱気と、焦燥による冷や汗が混じり合い、本来なら厳格な静寂に包まれているはずの銀行内を、醜悪な熱帯の湿地のような不快さで満たしていく。

 その喧騒の渦中、窓口のすぐ内側に、スレート・グレーの制服を一点のシワもなく着こなしたエマ・ルミナスが立っていた。彼女の傍らには、王立保険ギルドの緊急監査証(ライセンス)が掲げられている。


 エマは、パニックに陥った行員たちを助けるためにここにいるのではない。彼女の魔導式解析眼(トレース・アイ)は、窓口に殺到する民衆の指先が 12.3 ヘルツ の周期で震え、金貨を数える際の指腹(しふく)の摩擦が通常時より 15 パーセント 増大していることを冷徹に捉えていた。恐怖が人間の生理機能を物理的に低下させている。

 彼女の脳内では、行員が 1 枚 の金貨を数える際にかかる 0.4 秒 の遅延が、群衆の焦燥をどれだけ煽り、それがさらなる負の連鎖(スパイラル)をどれほどの確度で生み出すかが、リアルタイムの数式となって奔流のように流れていた。


「…… 10 時 12 分 45 秒 経過。王立中央銀行の現金保有残高、推定 64.2 パーセント を割り込みました。流出速度は毎秒 288 ゴールド 。……極めて美しい、金銀出納記録(キャッシュフロー)の自己崩壊です」


 エマは銀縁眼鏡のブリッジを事務的に押し上げ、手元の計算用紙に 0.5 ミリ のズレもない筆致で新たな数式を書き加えた。彼女の役割は、この銀行という名の脆弱な資産(アセット)が完全に息絶える瞬間を看取ること。そして、現貨が底を突き、財務卿ヴァレリウスが「魔導炉の魔力を現金へ強制変換せざるを得なくなる瞬間」を 1 秒 の狂いもなく特定することだった。


 エマの身体は、すでに限界を迎えつつあった。 30 時間 以上の不眠不休による過酷な演算の結果、彼女の体温は 34.1 度 まで低下し、末梢血管の収縮により指先は氷のように冷え切っている。視界の端々には、過負荷による白銀のノイズが走り、脳細胞が深刻な燃料不足を叫んでいた。

 膝が笑い、意識の解像度が 10 パーセント ほど低下したその時、背後に控えていたヴォルフが、一切の情緒を排した事務的な動作でエマの細い肩を支えた。


「お嬢様。……銀行員どもの顔色が、マカロンを 10 個 一気に詰め込まれたような真っ青な色になってるぜ。これ以上は、物理的な制圧が必要になるんじゃないか?」


 ヴォルフの低い声が、エマの鼓膜を物理的な揺らぎとして震わせる。ヴォルフはエマの身体を支柱のように固定し、もう片方の手でコートの隠しポケットから一つのマカロンを取り出した。


「補給だ。 1 個 あたり 145 キロカロリー 。脳の効率を維持するための維持費だ。黙って咀嚼しろ」


「……感謝、します。……少し、甘すぎて……私の知性に 0.2 パーセント ほどの不純物が混じりそうですが」


 エマは抗うことなく、ヴォルフが差し出した甘味を口に含んだ。効率的にエネルギーを脳へ送り届けるための、無駄のない咀嚼。ヴォルフの大きな手が伝える安定した体温が、凍りついたエマの生理機能を辛うじて繋ぎ止めていた。


「壊すのは私ではありません。彼らの忠誠を無断で担保にし、その価値を毀損した財務卿です。……救済されない人的資産(アセット)の悲鳴が、ようやく正しい数値になって響くだけのことです」


 エマの視界の端で、本命(ターゲット)が動いた。

 午前 10 時 30 分 。銀行前の広場に、鎧の重厚な擦れ音を響かせて、武装した正規騎士の一団が現れた。今日が彼らの給料日であり、 25 日 の午前中に家族へ生活費を送るのが彼らの供給網(サプライチェーン)の末端における絶対的な義務だった。


「そこを退け! 騎士団の給与引き出しだ。公務につき優先させてもらう!」


 一人の若き騎士が群衆を押し除け、窓口へと手を伸ばした。彼の腰には、家族へ届けるための薬の処方箋が挟み込まれているのが、エマの目には見えていた。だが、窓口の向こう側にいる銀行長は、 142 回 を超える頻脈で心臓を波打たせ、額から流れる脂汗を拭うことも忘れて、絶望の色で首を横に振った。


「も、申し訳ありません……。只今、当行の現貨資産(キャッシュ)は、物理的に……完全に枯渇しました。……只今をもって、窓口を完全に閉鎖します」


「……あ?」


 騎士の思考が 0.5 秒 停止した。その間に、彼の瞳の奥で信用(クレジット)という名の脆弱な回路が焼き切れる。


「窓口閉鎖……? 今日は 25 日 だぞ! 俺の家には、病を患った娘がいるんだ! 今月分の薬代を精算(チェックアウト)できなければ、あの子の命が……!」


 その悲痛な叫びは、信用収縮(クレジット・クランチ)という名の巨大な爆弾の信管を叩いた。

 騎士たちの怒りが群衆の不満と完全に共振し、物理的な暴力へと変換された。 800 ニュートン を超える力で防護ガラスが叩き割られ、自分たちの給料が不渡り(デフォルト)になったという動かしがたい事実に、国家への絶対的な帰依を喪失した騎士たちが暴徒と化す。銀行内は、破綻した契約書の紙吹雪が舞う地獄絵図へと変貌した。


 その時だった。エマの魔導式解析眼(トレース・アイ)が、限界を超えた過負荷により、強烈に青白く発光した。彼女の視線は、眼前の混乱ではなく、その隣にそびえ立つ王宮の地下、遥か深淵へと向けられている。


「……来ました。不確定変数(ノイズ)の顕在化です」


 エマの声が、室内の温度を 2.5 度 ほど下げたかのように冷たく響いた。エマの細い指が、ヴォルフのコートをぎゅっと握りしめる。


「王都の地下に張り巡らされた魔力回路。その中心部からの供給量が、通常時の 12.5 パーセント まで急落しました。……財務卿ヴァレリウスが、地上の暴動を鎮圧するために、魔導炉のエネルギーを強引に現貨へと再構成し、銀行の金庫に補填しようとしています」


「炉の出力を犠牲にしたか。……つまり、今この瞬間、あの魔導炉を覆っていた防衛の結界(シールド)に、無視できない規模の脆弱性が生じたということか」


 背後で傍受を続けていたアリアが、戦慄と共に問いかける。エマは真鍮の万年筆を内ポケットに収めると、 3 ミリ の狂いもなく制服の襟を正した。


「はい。術式の再起動と安定には、最低でも 3,600 秒 以上の待機時間(アイドルタイム)を要します。……財務卿の心臓部へ、 1 ゴールド の誤差もなく物理的に直接監査ダイレクト・オーディットに向かうのは、今この瞬間を置いて他にありません」


 振り返ったエマの表情は、もはや令嬢のものではない。債務不履行(デフォルト)を起こした債務者を奈落の果てまで追い詰め、魂の最後の一片まで徴収する査定員(しにがみ)の貌だった。


「ヴォルフ。物理的な資産の鑑定(アセスメント)、および執行(エグゼキューション)の準備を。……これより、王宮の深淵へ向かい、財務卿ヴァレリウスの全資産を、強制的に清算(チェックメイト)させていただきます。……予備費による補填は、もはや 1 ゴールド たりとも認めません」


「了解だ、お嬢様。……不渡りを出したツケは、この世の何よりも高くつくってことを、あの算盤野郎に徹底的に教えてやろうぜ」


 二人は暴徒と化した広場を背に、静まり返った王宮への隠し通路へと足を踏み出した。


■査定員エマの業務日誌:今回の用語解説


不渡り(デフォルト)

 債務者が、支払期日に債務を履行できない状態。今回は、王国が騎士団に給料を支払えなかった事実がこれに該当します。国家というシステムに対する最大の固有資産は国民の「信用」ですが、それは 1 枚 の不渡り通知によって、物理的な暴力へと一瞬で転換されます。


信用収縮(クレジット・クランチ)

 市場の信頼が急激に失われ、資金の供給網が断絶すること。預金者が一斉に現金を求めて窓口に殺到する取り付け騒ぎは、その極致です。金庫が空になった瞬間、いかなる高尚な英雄譚も、ただの 0 ゴールド の価値に収束します。


金銀出納記録(キャッシュフロー)

 現金の流入(収入)と流出(支出)を記録した台帳。財務卿は国民から搾取した生命力を魔力に換算し、帳簿外で魔導炉という闇の投資先に投入し続けていました。これは典型的な粉飾決算であり、私のような査定員の前では、いかなる隠蔽も無意味です。


【マカロン】

 ヴォルフから供給された、高密度の糖分補給用洋菓子。 1 個 あたり 145 キロカロリー 。脳の並列演算を維持するための、最も基礎的な維持費です。摂取効率を考慮し、無駄な動作を省いて嚥下を行っています。私の脳が財務卿の複雑な偽装帳簿を解体し続けるためには、この純粋な熱量が不可欠なコストとなります。


直接監査ダイレクト・オーディット

 平時のような書類上のやり取りではなく、現場に直接乗り込んで事実関係を強制的に確定させる行為。エマにとって、これは「対話」ではなく「解体」の宣言に等しいものです。


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