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【第一部完結】剣より重い計算式(ロジック) ~異端の査定員エマ・ルミナスの監査報告~  作者: 二進
第2章:白亜の魔都と、偽りの防衛線

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第26話:特別監査室と、高すぎる魔導回復薬

 王立保険ギルド本部、地下 2 階。


 地上階の華やかな白大理石と、魔導灯の贅を尽くした豪奢な魔導灯の輝きはここには届かない。

 そこは、巨大な魔導機関が唸りを上げて震動し、石壁の隙間から染み出した湿気とオゾン臭が停滞する、文字通りの「忘れられた空間」だった。


 不用品の物置として打ち捨てられていたその部屋の扉には、剥げかけたペンキの匂いも新しい真鍮のプレートが、不自然なほど静かに『特別監査室』の文字を掲げていた。


「……王都の最高権力の中枢へ、正式に配属されたかと思えば。窓一つない、地下 4.5 メートルの石造りの棺桶への左遷ですか。権力者というものは、どこの世界においても《《物理的な隔離》》による嫌がらせに、一定の美的センスを感じていらっしゃるようですね」


 エマ・ルミナスは、部屋の広さに対して不釣り合いなほど重厚なマホガニーのデスクに座り、王都の高級洋菓子店『ラ・セーヌ』で買い占めた色鮮やかなマカロンを、 15.0 秒に 1 個という厳密な歩調で口に運んでいた。


 前監査総局長、グレイソンの失脚。

 その大番狂わせを引き起こしたエマを、本部の幹部たちは英雄ではなく「触れれば組織の屋台骨を爆破しかねない猛毒」として定義した。

 その演算結果が、エリートたちの視界から彼女を完全に排除するための、この地下室への封印である。


「文句を言うな。シュタールのカビ臭い資料室に比べれば、魔導換気扇の稼働音がある分、静寂のデシベル値は改善されているだろ。……ベッド代わりにできるソファの摩擦係数が、俺の背中には少々硬すぎるのが難点だがな」


 壁際で腕を組んでいたヴォルフが、低い天井に窮屈そうに首を鳴らした。


 彼は、エマがマカロンを咀嚼する速度が、単なる食事ではないことを理解している。

 それは、魔導式解析眼(トレース・アイ)の強制稼働によって天文学的な速度で枯渇していく脳への、切実な糖分補給カロリー・インジェクションだ。


「……ヴォルフ。マカロンを 12 個、総熱量 960 キロカロリーの摂取を完了しました。これで、あと 240 分間は、深刻な低血糖による意識混濁を起こさずに並列演算を継続可能です。


 王都の帳簿は地方のそれと比較して、変数の数が 8 倍以上に跳ね上がっています。糖分の供給が 1 パーセントでも滞れば、私の知性は一瞬で瓦解します」


「最初から予備の菓子も確保しとけ。お前、一度数字を追い始めると、自分の心拍数が危険域に入ってることすら計算から除外するからな」


 ヴォルフがエマの蒼白な頬に差した、僅かな理性の血色――計算に没頭する直前の、独特の危うさを鋭く読み取り、手元の紙袋の中身を再確認する。


「……それから、ヴォルフ。例の目論見書(プロスペクタス)は、指定の座標へ投下しましたか?」


「ああ。……『王都の崩壊に全資産を賭けたい野心家へ』なんて、不吉な宛名の封筒だ。間違いなく裏通りの私書箱へ放り込んできた。……本当に、あんな正体不明の『投資家』なんて連中が、お前の描いた数式に食いつくのかよ」


「食いつきます。この街に 20 年分堆積(たいせき)した不備を正すには、ギルド内部の予算という既存の資本だけでは、圧倒的に純資産が足りません。


 巨大な腐敗という名の毒液から、最大の利益を吸い上げることを好む投機家(ハイエナ)は、いつの時代も最高の効率で現れます」


 エマの薄い唇に、冷酷なまでに研ぎ澄まされた、しかし微かな期待を孕んだ笑みが浮かんだ。


 その時、礼儀を欠いた、しかし力強いノックの音が 1 度だけ響き、重厚な扉が開かれた。

 現れたのは、純白の監査官制服を一切のシワもなく着こなした首席監査官、エレナ・ウォーレンだった。

 だが、その美しい瞳の下には、最高級の化粧品でも隠しきれない、深刻な慢性疲労の隈が刻まれている。


 グレイソンという巨大な重石が消えたことで、過去 20 年分の不正処理という「組織の負債」をすべて押し付けられ、『監査総局長代行』という貧乏くじを引かされた彼女の胃壁は、すでにストレスで穴が開きかけていた。


「……優雅な糖分摂取の最中に失礼するわね、特別監査官殿」


 エレナは皮肉げに言いながら、持ちきれないほど分厚いファイルの束をエマのデスクに、地響きを立てるような重圧とともに置いた。


「さっそく、貴女たちに王都での『最初のお仕事』を持ってきてあげたわ。暇を持て余して、また本部の秘密金庫のロックを勝手に逆演算されてはたまらないからね」


 エマは最後の一欠片のマカロンを事務的に飲み込み、銀縁眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、そのファイルを引き寄せた。


「……『第三正規騎士団』の経費監査、ですか。彼らは王都の治安維持を担う、国家の剣……物理的暴力の正規代理人のはずですが」


「ええ。市民から見れば立派な守護者よ」

 エレナは冷たい声で吐き捨て、自分の胃のあたりを苦痛に耐えるように押さえた。


「彼らの直近 3 ヶ月の経費請求額が、当初の予算枠を 40 パーセントも超過しているのよ。ギルドとしてもこれ以上の支払いは、財務卿への釈明が立たない。


 ……けれど、相手は王都の防衛を担う軍部の中枢。下手に下級の監査員を派遣して騎士団の『誇り』とやらを傷つければ、本部にどんな政治的圧力がかかるか分かったものじゃないわ」


「なるほど」

 エマの瞳に、獲物の不備を捉えた死神のような知性の光が灯る。


「誰の制止も聞き入れない特権階級の狂犬に、私という猛毒をぶつけ、共倒れによる組織のクリーンアップを狙う。……エレナ先輩、中間管理職としての『損切り』の手腕が劇的に向上しましたね。 120 ゴールドの追加報酬に値する判断だと評価します」


「黙りなさい。……調査権限は与えるわ。切ないこと? 彼らの名誉だけは、絶対に、死んでも傷つけないで。


 騎士団がその不満から反乱でも起こせば、王都 10 万人の生活インフラは物理的に破綻(はたん)するのよ。……分かったら、さっさとその地下室から出て行って」


 エレナはそれだけ言い残すと、胃薬の瓶を取り出しながら、逃げるように廊下の奥へと消えていった。

 エマはすでに、凄まじい速度でファイルのページをめくり始めている。

 彼女の指先が、決済書類の最下部に記された「違和感」を、氷のような感触で叩いた。


「『討伐対象:はぐれゴブリンの群れ。消費物資:最高級魔導回復薬(ハイ・ポーション) 50 本。請求額: 500,000 ゴールド』。


 ……ゴブリン相手に、致死レベルの重傷を瞬時に修復する回復薬を 50 本も同時消費する? 彼らは魔獣と戦う前に、高価な薬液を噴水にでも注いで《《水浴び》》を楽しんだのでしょうか?」


「おい、エマ。ゴブリン相手に 50 万ゴールドの薬代ってのは、いくらなんでも世の中を舐めすぎじゃないか?」


 呆れるヴォルフに対し、エマは真鍮の万年筆を手の中で冷たく回した。


「舐めているのではありません、ヴォルフ。これは極めて精緻に計画された、資産の流出(マネー・ロンダリング)の数式です。


 ……行きましょう。王都の英雄様たちが、一体何のために自らの誇りを、これほど安価な不正で汚しているのか。計算の『答え合わせ』の始まりです」


     * * *


 王都ルミナリス、東区・第三正規騎士団駐屯地。


 そこには鉄 e 汗、および乾燥した獣の血の匂いが染み付いた、装飾を排除した実用的な軍事的空間が広がっていた。


「……王立保険ギルドの監査官だと? 帰れ! 我々は今、次の大規模討伐任務の最終調整で忙しいんだッ!」


 兵舎の応接室。分厚いオーク材のテーブル越しにエマたちを怒鳴りつけたのは、第三騎士団の小隊長を務めるガレスという初老の騎士だった。

 使い込まれた鎧には無数の傷が刻まれている。


 だが、エマの魔導式解析眼(トレース・アイ)は、彼の鎧の留め具に生じた 0.2 ミリの深刻な金属疲労や、外で訓練に励む若い兵士たちの装備が、支給から 5 年以上経過している型落ち品であることを瞬時に見抜いていた。


 王都は今、未曾有のインフレ――物価高騰に見舞われている。

 華やかな貴族やギルド上層部が贅沢を貪る裏側で、実際に血を流す現場の騎士たちには、生存に必要な予算すら適切に分配されていない。数字は残酷に、彼らの困窮を告げていた。


「ガレス小隊長。私は帰還するわけにはいきません。貴方たちの提出した請求書に、 100 パーセントの確率で『物理的な矛盾』が含まれているからです」


 エマはガレスの怒気に微塵も怯むことなく、先ほどの書類をテーブルに滑らせた。


「最高級魔導回復薬 50 本の消費。……ガレス小隊長、貴方たちの剣の技術が昨日今日で急激に劣化し、ゴブリン相手に部隊が全滅の危機に瀕したというなら、この数字は正しい。


 ですが、同時に提出された武具の修繕費は 0 ゴールド。無傷で 50 本の極上ポーションを消費するという魔法は、この世のどこにも存在しません。……貴方たちはこの回復薬を不正に横流しし、闇市場で現金化していますね?」


「なっ……! 貴様、死線を潜り抜けて王都を守る我々を、薄汚い犯罪者扱いするか!」


 ガレスが激昂し、腰の剣の柄に指をかけた。熟練の戦士特有の、空気が物理的に重くなるほどのプレッシャー。

 その瞬間、エマの背後に控えていたヴォルフが、冷たい殺気を乗せた琥珀色の瞳でガレスを射抜いた。


「……おい、爺さん。その剣をあと 1 ミリでも抜けば、お前の部隊は今日からゴブリンじゃなく、俺を相手に『葬儀の予行演習』をすることになるぞ。……死ぬ覚悟ができてから抜けよ」


 大剣の柄にすら手をかけていないヴォルフの、圧倒的な質量(ボリューム)

 歴戦の騎士であるガレスの額に、嫌な冷や汗が滲み、その動きが機械的に停止した。


 武力というノイズが排除された空間で、エマは淡々と、しかし鋭利な数字の刃を突き立てる。


「ガレス小隊長。資産横領の事実を認め、即座に 500,000 ゴールドを返還するのであれば、今回は帳簿上の入力ミスとして処理する用意があります。


 ……私の脳のリソースが尽きる 30 秒以内に、合理的な判断を下してください」


 完全な論破。

 退路を断たれたガレスは、ギリッと奥歯を噛み締め、やがてその顔を絶望と、深い悲痛に歪ませた。


「……ふざけるな。机の上で数字だけを弄っている小娘に、我々の何が分かるというのだ……ッ!」


 ガレスはテーブルを両手で叩き、血を吐くような声で叫んだ。


「王都の物価は、半年前の 300 パーセントだ! ギルドや貴族どもが中抜きし、我々に届くわずかな給金で、若い部下たちがどうやって家族の命を維持できるというのだ!


 ろくな装備も買えず、具のない粥をすすり続ける部下たちの子供が……栄養失調で次々と倒れているんだぞ!」


 騎士の誇りよりも重い、血の滲むような生活の叫び。

 その壮絶な感情の熱量を正面から浴びた瞬間、エマの脳内で、それらすべてを「数値化」しようとする暴走的な演算が開始された。


「インフレ率 300 パーセント」「乳幼児生存率の低下」「給与未払いの連鎖」――。

 人間の命の重さが、複雑に絡み合う社会数式となって、彼女の意識を侵食し始める。


「……っ。……」


 人間の感情という、最も不確実で巨大な変数が、彼女の脳内の糖分を恐ろしい加速度で食いつぶしていく。

 頭の芯が、内側から鈍器で殴られたように脈打ち出した。


 思考が泥のように重くなり、視界の端から急速に色彩が失われていく。

 指先の温度が急激に下がり、深刻な低血糖による眩暈が、彼女の華奢な身体を物理的に傾かせた。


 視界が白く飽和する。

 だが、エマが冷たい石の床に膝をつくよりも 0.2 秒速く、ヴォルフが彼女の細い腰をガシリと支えた。


 それと同時に、彼はコートのポケットから取り出した「高純度魔導ブドウ糖タフィー」を、手品のような手鮮やかさでエマの口元へ押し込んだ。


「食え。……清算する前に脳を焼くなよ。お前が止まったら、この不備だらけの街を誰が数えるんだ」


 エマは無言でそれを受け取り、震える奥歯で必死に噛み砕いた。

 暴力的なまでの甘味が血流に乗り、ガス欠を起こしていた脳細胞を強引に再起動させる。


 真っ白に霞んでいた視界の霧が瞬時に晴れ、割れるような頭痛がゆっくりと凪いでいく。


 彼女はヴォルフの支えを借りることなく、自らの足でしっかりと立ち、再び定規のように凛とした姿勢でガレスを見据えた。


「貴方の部下への愛は、大変美しく、道徳的には価値のあるものです。……ですが小隊長、貴方は『愛』と『計算』を履き違えました」


「……何だと?」


「横領という不確定な手段で家族を救おうとすれば、発覚した際の特別違約金によって、彼らの家族は 72 時間以内に完全に路頭に迷うことになります。


 ……愛で腹は膨れませんが、私の清算は少なくとも、帳簿上の《《生存に必要な正解》》だけは導き出します」


 エマ・ルミナスは真鍮の万年筆を、冷徹な執行官の刃のように握り直した。


「今から私が、貴方たちの間違った愛情が積み上げた不備を、 1 ゴールドの誤差もなく清算して差し上げます。……数式の間違いには、相応の痛みが伴うものですから」


 王都における初めての監査。

 それは、正義や悪という曖昧な情緒を、絶対的な「収支報告」という現実で塗り替えていく――凄惨な精算の幕開けだった。


■査定員エマの業務日誌:今回の用語解説


魔導回復薬(ハイ・ポーション)

高位の錬金術師と治癒魔法使いが共同で精製する、極めて資産価値の高い医療用消耗品です。 1 本で平民の半年分の生活費に相当するこの物資を「ゴブリン相手に 50 本消費」という申告は、数学的に完全に破綻しており、明白な資産の隠匿を意味します。


目論見書(プロスペクタス)

投資家に対し、事業の内容やリスク、収益のシミュレーションを提示する公的書類です。私はこれを、ギルドの崩壊に利益を見出す「外部資本」へ送付しました。正規の予算が腐敗している以上、真実を暴くための資金調達を外部から行うことは、極めて合理的な経営判断です。


【極度の糖分枯渇による機能不全】

ガレス小隊長の言葉から、王都の物価上昇率と部下の致死率という膨大な変数を無意識に並列演算してしまった結果、深刻な低血糖による眩暈と頭痛に襲われました。人間の感情が絡む数式は、物理的な破壊魔法よりも多くの糖分を消費すると再認識しました。ヴォルフの迅速な糖分補給(サポート)がなければ、演算プロセスは致命的な停止を余儀なくされていたでしょう。


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