第1話「もう打てる薬がない」
臨床検査値のグラフは、静かに、しかし決定的な悪化を示していた。
炎症マーカーや臓器障害マーカーの波形が崩れ、主要サイトカインであるIL-6やTNF-αの血中濃度は危険域で高止まりを続けている。
提示されたモニターの数値を、私は左から順に視線でなぞった。
既存の免疫抑制剤はすでに限界濃度へ達しており、これ以上の増量は多器官不全を招き、減量は自己免疫による全身性の組織破綻を意味していた。
「事実上、治療域が消失している、というわけだ」
私が呟くと、妹の主治医である教授は、苦渋の滲む顔で緩やかに首を振った。
「申し訳ない、九条くん。
ステロイドのパルス療法も、最新の生物学的製剤も、彼女のサイトカインストームを抑え込めていない。
むしろ受容体発現の変化などにより薬効が急速に減弱している。
……現状、我々に打てる薬はもうない」
「謝罪は不要です。事実だけ教えてください」
私は静かに答えた。感情を挟む余地など、この数値のどこにもない。
病室のベッドで横たわる妹、美緒の容態を観察する。
人工呼吸器の規則的な機械音。
浅い呼吸に伴う胸郭の微小な上下。
皮膚に生じた点状出血。受容体の感受性が麻痺し、自らの免疫系が自らの血管内皮を攻撃し続けている。
毒と薬を分けるのは、成分の化学構造ではない。
生体に与える『用量』だ。
パラケルススが何世紀も前に提言したその原則を、現代医学は安全性を最優先する以上、極限まで試すことができない。
結果として、美緒のような極限の個体差を持つ患者を見切り捨てる形になっている。
美緒の病状を好転させるには、免疫系を劇的に抑え込む「劇薬」を、致死域のコンマ数パーセント手前という極小の安全域で連続投与し続けるしかない。
だが、そのような危険な個別化投与は、倫理的に実施が認められるはずもなかった。
「お兄ちゃん……」
酸素マスクの奥から、美緒の擦れた声が漏れた。私はベッド脇へ歩み寄り、彼女のバイタルモニターへ視線を向けたまま声をかける。
「喋らない方がいい。
酸素消費が無駄に増える」
「ごめんね……研究、忙しいのに……」
「気にする必要はない。現象には必ず理由がある。
君の病態も、単に免疫反応の制御が限界を超えて暴走しているだけだ。
計算式さえ導き出せれば、解は必ず存在する」
美緒は力なく微笑み、ゆっくりと瞼を閉じた。
彼女の呼吸パターンを脳内で記録し、私は病室を後にした。
◆
大学の薬学部研究室に戻った私を待っていたのは、デスクに置かれた一通の公文書だった。
『研究助成金交付打ち切りのお知らせ』
文面を目で追う。理由欄には「毒物由来化合物を用いた高リスク治療法の開発研究における、倫理的リスクおよび社会的受容性への懸念」と印字されていた。
「理解できないな」
私は書類をデスクの端へ静かに置いた。
「毒性を恐れて用量の制御を放棄するなど、科学に対する背信行為だ。
成分の危険性ばかりを叫び、用量という決定的な変数を無視する大衆の感情論に、大学側も屈したというわけか」
予算は凍結され、研究室の実験機器へのアクセス権も今月末で失われる。
試験管内(in vitro)での再現実験もできず、シミュレーションを行う計算資源すら奪われた。
だが、絶望する必要はなかった。
論理的に考えれば、道は一つ残されている。
私はPCを開き、研究者コミュニティの内部データベースから、ある非公開プロジェクトの技術ホワイトペーパーを呼び出した。
『PANACEA』
一般には、世間で大きな話題を呼んでいる最新鋭のVRMMOとして知られている。しかし研究者の間での実体は、世界中の製薬AI・毒物学研究機関が共同開発した、巨大な生体反応解析エンジンだ。
倫理的制約で人間への直接実験が不可能な劇薬・毒草の用量反応関係を、仮想空間を通じて大規模に収集・計算するための「隠れ蓑」。
全タンパク質、受容体感度、血液脳関門(BBB)透過性、代謝酵素の挙動が、現実と同等以上の精度でシミュレートされている。
「プレイヤーの行動ログと生体反応データを基盤にした仮想生体モデルで用量データを集めればいい。
AIに計算できない個体差の不確定要素は、私自身の知識と観察眼で補正する」
目的は一貫して一つ。
美緒を殺さず、病魔だけを殺し尽くす「劇薬の適正用量」を導き出すこと。
◆
研究室を出た私は、その足で秋葉原の大規模電子機器専門店へと向かった。
フロアの一角には、PANACEAの特設コーナーが巨大なディスプレイとともに展開されていた。
最新のフルダイブ機材を求めて、若い群衆が賑やかに群がっている。
彼らはこれから始まる「冒険」や「戦闘」に胸を躍らせているのだろう。
私は展示されている機材の仕様書を一つずつ確認していった。
「お客様、PANACEAをご検討ですか?
こちらの標準モデル『Neuro-Link 4』なら、一般的な戦闘アクションの応答速度が——」
話しかけてきた店員の言葉を、私は手で静かに制した。
「神経信号のフィードバック解像度と、痛覚・生体データのサンプリングレートに関する記載がここにはない。
その数値を提示してもらいたい」
「えっ……と、サンプリングレート、ですか?」
「そうだ。脳幹からの微弱な神経伝達物質の分泌パルスを、サブミリ秒単位で同期できる機種はどれだ?」
「し、少々確認して参ります!」
店員は戸惑いながら奥へ走り、やがて最上位モデルのカタログを持ってきた。
『Neuro-Gear Enterprise Pro』。医療研究機関向けモデルを民生化した特別仕様だった。
一般向けとしては過剰とも言える高精度フルダイブギアである。
価格は私の手持ちの全貯金をほぼ吹き飛ばす額だった。
「……これだ。これを購入する。配送ではなく、今すぐ持ち帰る」
「あ、はい! ありがとうございます!」
頑丈なケースに収められた高精度ギアを抱え、私は店をあとにした。
金銭の枯渇など、美緒の命と用量データの獲得に比べれば無意味な変数に過ぎない。
◆
自宅のアパートへ戻り、自室の狭いベッドの脇に機材を設置する。
電源コードをコンセントに接続し、光ファイバーケーブルを直結する。ギアのヘッドセットを手に取り、内側の生体センサー群を布で丁寧に拭った。
一般プレイヤーはこの世界を魔法と戦闘のゲームとして楽しみ、毒や危険物質をただの「忌避すべき状態異常」として避けるだろう。
だが、誰も見向きもしない精密な生体反応の閾値にこそ、美緒を救う解が眠っている。
「毒か薬かを決めるのは、成分じゃない。用量だ」
ヘッドセットを頭部に装着し、ベッドの上に身体を横たえる。
視界が暗転し、網膜に緑色のシステムロード画面が立ち上がる。
「仮説を立て、用量を計算し、検証する。……それだけのことだ」
私は静かに瞼を閉じ、ログインコマンドを詠唱した。




