第十三章
馬上特有の不規則な振動に、レイアはゆっくりと目を開けた。
目に映ったのは空と一人の男だ。その姿を見た途端、身体の底から暗い怒りが押し寄せてくるのが分かった。
ティティンの襲撃が明らかになると、クライスは何を思ったのか、目覚めないままのレイアを連れて城を抜け出した。レイアの中に誰がいるかも気づかずに。
どうせ人質だとか取引に利用しようという魂胆だろう。吐き気がする。その汚い手でレイアに触れるなと叫び声を上げたくなる。
クライスはレイアがーーーいや、紅が見てきた人間たちの中で、最低の輩だった。人間とは思えない残酷さを持った男だ。
紅は、レイアの目を動かして周りの状況を確認した。海岸沿いを逃げているらしく、崖の向こうに海が見えた。
なかなか綺麗な場所だ。無意識に微笑んだ。ここで死ぬのならそれもいいかもしれない。共に逝くのがこの男だということさえ除けば。
再び紅はクライスを見上げた。クライスはまっすぐに前を見ている。気づかれないよう、その腰に下げている剣に手を伸ばす。
紅の望みはひとつだった。この男を殺して、レイアを解放する。それだけだ。
できればこのままレイアが城に戻らずに逃げてくれるのが一番だが、そもそもレイアはまだ目を覚ましていないのだから難しいだろう。
どちらにせよ自分がそれを見届けることはできないはずだ。人間を害するのは守護霊の禁忌だ。クライスを殺せば自分も消滅することは避けられない。
後悔はしない。どうせ近いうちに消滅する身なのだ。気がかりがあるとすれば、レイアの身体を使うことくらいだ。
この男の返り血を浴びさせたくはないが、クライスの身体に入って自害するなど考えただけで吐き気がする。
だから、どうか。それだけ許してほしい。
紅の指先が、剣の柄に触れた。その時だった。
馬が嘶きをあげて止まった。
「紅」
名前を呼ばれて硬直する。クライスがこちらをまっすぐに見下ろしていた。
何も考えられなくなった。無我夢中で剣を奪うと、馬から飛び降りる。慣れない手つきで構えたそれを、クライスはじっと見つめている。
「・・・クライスを殺すのか?」
「そ、そうじゃ!」
クライスは馬から下りた。馬はおとなしくその場に留まっている。
剣を握っている手が震えた。人を傷つける武器。それに守護霊として本能的な恐怖と嫌悪を覚える。
目に見えて震えている紅に、クライスは穏やかに告げた。
「おまえがそんなことしなくてもいい」
「よ、よくもそんなこと言えたものじゃな・・・!」
「紅、落ち着け。おれだ」
その口調に紅はクライスを凝視した。クライスの顔にはいつもの胡散臭い冷酷な笑みはない。
小さく喉が鳴った。
「・・・まさかおぬし、刃か・・・?」
クライスはーーーいや、刃はゆっくりとうなずいた。紅は唖然としたまま目の前の男を凝視する。分からないことばかりで頭が混乱した。どうして。
ようやく絞り出せた声は、掠れていた。
「なぜおぬしがここに・・・」
「ちょっと色々あってさ。・・・いや、それはいいんだ」
息をついた刃を、紅は眉をひそめて見上げた。何か違和感を感じたのは気のせいだろうか。刃の雰囲気がいつもと違うように感じたのは。
「刃・・・?」
「・・・紅、おれたちは多分負ける」
「・・・ほう、そうか。それは重畳じゃ。では貴様もわたしと同じ道を辿るかもしれぬな」
敗戦国の末路はふたつだ。条件をつけられての独立維持か、完全な支配。どちらかしかない。支配されれば一個の国は消滅する。守護霊にとっては事実上の死だ。
嫌みのつもりで言ってやったにも関わらず、刃はあっさりとうなずいた。
「そうだな」
「・・・貴様らしくもないな。変なものでも食べたのか?」
「あー心配してくれるんだ?」
「阿呆!不気味だと言っておるのじゃ!!」
怒鳴りつけると、刃はようやく笑みを見せた。それを見たら悔しいことに少しだけほっとしてしまい、剣を持つ手がゆるんだ。ハッとする。だめだ。
強く柄を握りなおした紅に、刃がつぶやいた。
「紅、剣を捨てろ」
「できんな。貴様、まさかわざわざ止めにきたのか?」
ああ、と答えると刃はかすかに苦笑した。
「言ったろ?おまえがそんなことをする必要はない」
「わたししかいないからやるのじゃ!!」
にらみつけると、刃は首を横に振った。
「・・・紅、おれは小さい頃のクライスを知ってる。あんなんでも昔はおれの主だったんだ。気が強くて乱暴で、自分が王族だってことをちゃんと理解した上で振る舞うような子供だった」
「・・・だから、何じゃ」
「だから、おれのせいでもあるんだ」
「刃」
「あいつが少しずつ冷酷になっていくのを、おれは近くで見てた。見てたのに止めもせず、あいつが二十八になったときに別れたんだ。だから・・・」
そこまで話すと、刃は苦しげに顔を歪めた。だがそれも一瞬のことで、すぐに消え去った。
紅は刃を凝視した。彼は顔を上げると、名前を呼んだ。
「紅」
「・・・何じゃ」
「フォリオに伝えてくれるか。悪かった、って。それからーーー」
風に乗って届いた言葉に、紅は目を見張った。何だそれは、と愕然とする。それではまるで。
まるで遺言のようではないか。
「刃、おぬしまさか」
無意識に剣が下がっていた。足を踏み出すと、同じように刃は一歩後ろに下がった。後ろは切り立った崖だ。
息をのむ。待て、という叫びが喉に張り付いて出てこない。待て。待ってくれ。
「さよならだ、紅」
穏やかな声と共に、男の身体が後ろに傾いだ。
言い表せない感覚がフォリオを襲った。
今まで自分の周りにあったものが消失するような奇妙な感覚。まとわりついていた空気が変わる。深い喪失感。
フォリオは目を見はった。
この感覚は。まさか。
まさか。
「刃・・・?」
押さえる力がゆるんでいたらしい。無意識のつぶやきとほぼ同時に、ウィリアムが強引に拘束から抜け出た。
ハッとするときにはすでに目の前に剣が迫っていた。反射的に体をひねる。ーーだめだ。避けきれない!
耳元で、肉を断つ音がした。右肩から脇へ、焼けた強烈な痛みが走り、
世界が暗転した。




