第七章
最初は空耳かと思った。
この喧噪の中で聞こえたのは、かなり奇跡だと思う。
遠くから呼ばれたような気がして、フォリオは顔を上げた。隣にいるシルバが怪訝そうな顔をする。
「どうしました」
「今、呼んだか?」
「いいえ」
露骨に怪訝そうな顔をされ、フォリオは首を傾げた。気のせいか?
そう思った。しかし。
「リオッッ!!」
「!!」
再び聞こえた怒声に、フォリオは打たれたように顔を上げた。周りを見渡す。今度ははっきり聞こえた。
その声。
その呼び方。この主の少年をそのように呼ぶ人間なんて、思いつく限りひとりしかいない。
まさか。
「どうしたのです?」
急に周りを気にし始めたフォリオに、シルバが戸惑いがちに声をかける。もちろん説明する余裕なんてない。
周囲に目を走らせたフォリオは、離れた場所に見えた黒色に目を見張った。あれは、まさか。
「・・・・・・っ、カリル!?」
路地に入る手前あたり。距離にすると、五十メートルほど先だろうか。
人混みに紛れ、確かにその姿はあった。
「リオッッ!!」
人混みの間をぬって近づこうとするカリルを、響は必死に止めた。
「カリルさん!!ダメです!!カリルさんッッ!!!止まってください!」
カリルの前に立って、腕を広げても簡単にすり抜けていってしまう。彼女はこちらを見ていない。まっすぐに前だけを見ている。
不意に、背筋が寒くなった。
このまま近づいていって、もし捕まったらどうなるのだろうか。カリルはワイズリーの逃亡に深く関わっている。もし兵士に顔を見られていたら。兵士が覚えていたら。こいつだと証言したら。
そしたらどうなるのか。
響はくちびるを強くかみしめた。
「カリルさんっ!お願いです!止まってください!!」
しかしカリルには聞こえてもいないようだった。焦りばかりが募る。
「ロットさん!!お願いします!!カリルさんを止めて!!」
「!は、はい!」
我に返ったロットが、慌ててカリルの腕をつかむが、乱暴に振り払われてしまった。
「カリルさま!待ってください」
「ロット、おまえは先に行け。おれは用事ができたから」
そっけないカリルの言葉に、響はぎゅっと目を閉じた。もしここで捕まったら。
どうなるのか。
もしカリルが殺されるようなことになったら。
そう考えるだけで全身から血の気が引いた。
そんなことさせない。
「・・・カリルさん、すみません・・・!!」
響は目を開けると、カリルに手を伸ばした。背中から指先を入れる。指先から手。手から腕を。
カリルが驚いたように振り返った。
「!響ッ!!」
ごめんなさい、ともう一度繰り返して、響はカリルの身体の中に滑り込んだ。意識をつなげる。カリルの目、声、手、足。全てを使うことに集中する。
カリルの瞼を開け、カリルの目で世界を見る。その世界の中心に飛び込んできた少年が、こちらに気づいたのがほぼ同時だった。目が合う。驚いたような顔。
それで分かった。
この少年が誰なのか。
ああ、カリルさん。ごめんなさい。
<カリル>は一歩後ずさった。
「カリルさま・・・?」
「・・・ロットさん。逃げましょう。ここは・・・ダメです」
「響さま・・・ですか?」
カリルはうなずくと、踵を返した。
涙がこぼれ落ちそうだった。カリルの身体なのだから、そう簡単に泣いてはだめだ。カリルさんの名誉に関わる。
必死でくちびるをかみしめ、走ることに集中する。
とにかくここから逃げなければ。
目が合った途端、その少女は踵を返した。連れらしき男と一緒に路地の間に姿を消してしまう。
フォリオは慌てて追いかけようとするが、人混みが多すぎて全く身動きがとれない。
これだから人間の身体は不便なんだと嫌気がさした。いっそ身体から出て追おうか。でもこんなところで<皇子>が急に倒れるわけにはいかない。
人込みをかき分けて進もうとしても、なかなか前に行けない。焦りばかりが募る。くそ。
「ちょっとどいてくれ!頼む」
「どうしたのですか、急に」
「っ、シルバ!」
フォリオはシルバを振り返った。ああもう、この際体裁など気にしていられるか。
「シルバ。フォリオの身体、頼めるか?」
「え?」
「すぐ戻るから!」
言うより早く、刃はフォリオの身体から抜け、空中に飛び出した。ちらっと見ると、慌ててシルバがフォリオを支えているのが見える。
悪い、とつぶやいて、刃はカリルが消えた路地裏に急いだ。
入り組んだ細い道。それらをくまなく探しても、もう彼女の姿はどこにも見あたらなかった。




