第五章 死者の暗号(若槻の名を使う者)
午後十一時過ぎ。
桜機関・通信監視室。
電信機のランプが低く点滅を繰り返していた。
空気は乾き、金属の匂いがする。
壁には帝都各地の通信線を示す地図。
赤い糸が幾筋も交わり、まるで血管のように張り巡らされていた。
柊里緒が受信紙を巻き取りながら、眉を寄せた。
「……おかしい」
隣で暗号班員が首を傾げる。
「どうしました?」
柊はヘッドフォンを外し、
受信紙の先を指でなぞった。
そこには、短い符号列が印字されていた。
“W・T/13/α7”
見覚えのある符号だった。
「……若槻?」
班員が驚いたように顔を上げた。
「まさか、死んだはずじゃ――」
「発信元を特定して」
柊の声が低く鋭くなる。
タイプ音。
モールス復号機が唸りを上げ、
通信記録が次々と紙に吐き出されていく。
班員が答えた。
「発信源、帝都第三区――桜機関本部第3回線です!」
室内が凍りついた。
柊の目が鋭く光る。
「内部回線から? 確認を重ねて」
「間違いありません。識別コードは……桜機関第二課、管理端末。」
その言葉を聞いた瞬間、
柊の脳裏に一人の顔が浮かんだ。
――藤堂真。
「……通信を切断。全データを隔離して。
記録は私が引き取ります。」
班員たちは彼女の指示に従い、
無言で機器を停止した。
柊は受信紙を手に取り、
その内容を見つめた。
“報告:協定文第七条 記録改竄 確認済/送信者 W・T”
第七条。
外務省と陸軍の協定――その裏にある“補則条項”。
外部には存在しないはずの文言だった。
柊の心臓が早鐘を打つ。
(……誰が、こんなものを)
そこへ、背後の扉が開く。
振り向くと、藤堂が立っていた。
「柊。何かあったのか?」
柊は即座に受信紙を後ろ手に隠した。
「いいえ、通信のテストです。
異常はありません。」
藤堂の視線が机の上に向かう。
わずかに覗いた紙片。
見覚えのある符号が目に入る。
「……その符号、どこで受信を?」
柊は答えない。
沈黙の数秒。
「若槻の名を使った通信だな」
「何の話です?」
「隠すな。
俺もさっき、外務省で同じ符号を見た。
“W・T/13/α7”。
死者の名を使って、何を流している?」
柊は唇を噛んだ。
「あなたこそ、何をしているの?
内部から外部に資料を持ち出したでしょう。」
藤堂の目が鋭く光る。
「それを誰から聞いた」
「結城中佐です」
その名を聞いた瞬間、空気が張りつめた。
藤堂は一歩近づく。
「……結城は、何を狙っている」
「協定を守ること。それだけです。」
「嘘だ。
“協定”は国家を守るためじゃない。
国家の嘘を守るための道具だ。」
柊の肩がわずかに揺れた。
沈黙。
二人の間に、
機械の針が刻む「カチ、カチ」という音だけが響く。
藤堂は手を差し出した。
「その受信紙を見せてくれ。」
柊はしばらく迷い、
やがて、ゆっくりと手を伸ばした。
紙を渡す瞬間、
その手がかすかに震えていた。
藤堂が内容を見て、息を呑む。
“協定文第七条 記録改竄 確認済”
「第七条……? そんな条項、協定文には存在しない。」
「ええ。だからこそ、これを知る者は死ぬ。」
柊の声が微かに震えた。
「若槻はそれを掴んだの。
そして――“死んだ”ことにされた。」
藤堂は目を閉じた。
脳裏に、若槻の笑顔と、焼け焦げた報告書の断片が浮かんだ。
「……彼はまだ、生きているのかもしれない」
柊が顔を上げた。
「なら、次に狙われるのはあなたです」
藤堂は受信紙を畳み、懐にしまった。
「なら、もう逃げる理由はない。」
柊の瞳が、一瞬だけ揺れた。
「……あなたのような人がいる限り、
この国はまだ人間でいられるのかもしれませんね。」
外では雷鳴が轟いた。
通信室の灯が一瞬だけ落ち、
再びついたときには、藤堂の姿は消えていた。
残された机の上には、
燃え残りの受信紙と、
それを見つめる柊の冷たい瞳だけがあった。
「死者は黙っていない。
国家が口を閉ざすとき、記録が代わりに語る。」
― 桜機関通信班記録・抜粋




