ヒロインと私 4
アルヴィン様は壊れ物を扱うように、そっと私の身体を抱き上げてくれた。
至近距離にある彼の顔は、今にも泣き出しそうなものへと変わっていく。こんなにも狼狽の色を浮かべたアルヴィン様は、初めて見た気がする。その様子からは、よほど急いで来てくれたのが見てとれた。
「ニナ、遅くなって、すまなかった」
「…………っ」
「俺のせいで、こんな……」
つい先程までは底のない恐怖に支配されていたというのに、アルヴィン様の顔を見た途端、どうしようもないくらい安堵してしまう。
気が付けば私はアルヴィン様の服をぎゅっと握りしめていて、両目からは涙がぽたぽたと溢れ落ちていく。
そんな私を見たアルヴィン様は、驚いたように切長の目を見開いた。思い返せば私は今まで、この世界で一度も泣いたことがなかったからだろう。
「……ごめんね、ニナ。本当にごめん」
アルヴィン様のせいじゃない、謝る必要なんてないと言いたいのに、喉が詰まったように声が出てこない。
代わりに出てくるのは涙だけで、アルヴィン様はぐっと唇を噛み、私の目元を指先で拭うと「少しだけ待っていて」と呟き、立ち上がった。
「ニナ、エリカ! 大丈夫か!?」
同時に、入口からはラーラとテオが入ってくる。テオはエリカの元へ向かい、私の元へ来てくれたラーラに、アルヴィン様は静かに告げる。
「ニナとエリカを頼む」
「ええ、分かったわ。っお前、何をされたの……!」
「私より、エリカ、を……」
私はなんとか口を開き、まずエリカをとラーラに伝えた。先程、壁に打ち付けられた時の怪我が心配だった。
テオは出先で胸騒ぎが収まらず、王城へ戻ってきたのだという。エリカを傍に連れてきてもらい、私は震えの収まらない手でなんとか治癒魔法をかけていく。
意識を失っているだけのようで、大きな怪我はないようだった。とは言え、少しでも早く王城へ戻り、しっかりと調べたほうがいいだろう。
そう告げれば、ラーラは悲しげな表情を浮かべた。
「ねえニナ、お願いだから自分のことも考えて」
「…………」
「お前が一番、酷い顔をしてるわ」
ぎゅっと抱きしめられ、その温かさにまた安堵した私はやはり涙が溢れてしまう。思わず縋り付くようにラーラに抱き付けば、優しく頭を撫でてくれた。
──本当に、本当に怖かった。また死んでしまうかと思うと、怖くて仕方なかった。
「あの男は何なの?」
「……よく、わから、なくて」
一方でアルヴィン様は、鼻歌を歌いながら切り落とされた腕を拾っていた男と対峙していた。
「……ニナに何をした?」
「きみたち、なに? 邪魔をしないで欲しいな」
「彼女に何をしたと聞いている」
「何って、殺そうとしただけだよ」
男がけらけらと笑った瞬間、アルヴィン様は攻撃をした──のだと思う。気がついた時にはもう、男の左足が吹き飛んでいた。
「わ、早いね! すごいや」
痛覚というものがないのか、男は片脚で立ったまま、感嘆の声を上げた。本当にあれは人なのだろうか、という疑問が浮かぶ。異様で不気味で仕方なかった。
「きみは本気を出さないと勝てなさそうだ」
「…………」
アルヴィン様は無言のまま男へと向かっていき、次々と攻撃を繰り出していく。男は防ごうとするものの、身体のあちこちからは血が吹き出し、生きているのが不思議な状態だった。
何よりアルヴィン様の強さは圧倒的で、私は呆然とその様子を見守ることしかできない。2年前とは、何もかもが別人だった。
やがてアルヴィン様から大きく距離をとった男は、わざとらしい溜め息を吐いて見せた。
「あ、今日は本当にまずいな。負けちゃいそうだ。あと2回しかないし、逃げるしかないかあ」
「お前は今、この場で殺す」
「どうしてそんなに怒ってるの? ああ、ニナを殺そうとしたから? あはは、そうなんだ」
アルヴィン様は無視をして剣を抜いたけれど、男はへらりと笑い、続ける。
「でも、一度も二度も変わらないじゃん?」
「どういう意味だ」
「待っ──」
私が口を開いた時にはもう、遅かった。たとえ間に合っていたとしても、無意味だっただろうけれど。
「2年前、殺したんだよ、ニナのこと。それなのに、どうしてあの子は生きてるの?」
「──は?」
「何回も何十回も刺して焼いて、楽しかったなあ。ニナはね、それはもういい声で鳴いてくれた」
そのはしゃぐような声に、再び押し潰されそうなくらいの恐怖が呼び起こされる。身体が震え、空気が抜けるような音が口から漏れていく。
こんな形で、伝えるつもりじゃなかったのに。
「……ニナ、そうなのか?」
「…………」
「お前はあいつに殺されて、元の世界に戻ったのか?」
「…………」
「なあ、ニナ!」
テオは切実な声で問いかけてくる。無言のままの私を抱きしめるラーラの腕に、力がこもるのが分かった。
やがてラーラは、いつも強気な彼女には似合わない、今にも消え入りそうな声で「ごめんなさい」と呟いた。ラーラが謝ることなんて、何ひとつないというのに。
テオの目から、ぽたりと一粒の雫がこぼれ落ちる。
表情の抜け落ちた顔で振り返ったアルヴィン様もまた、私の様子からそれが事実だと察したのだろう。
美しい瞳が、はっきりと暗い絶望に染まっていく。
「あはは、知らなかっ──」
男が大声で笑い、私が涙を堪えて瞬きをする間に、男の首が地面へ転がっていた。
ぐっとそれを踏みつけたアルヴィン様は、近くにあった胴体の心臓部分に剣を突き立てる。
「……ねえ、きみ、おかしくない? 本当に人間?」
「死ね」
ぐっと頭を潰した瞬間、男の身体がゆっくりと黒いもやに変わっていく。普通なら倒せたのだと安堵するはずなのに、それでもなお、胸騒ぎは収まらない。
「あーあ、やられちゃった。またね」
そんな声が室内に響き、やがて男の身体は完全に消えてなくなった。またねという言葉に、男が死んでいないことを悟り、ぞくりと身体が震える。
一体あれは何なのだろう。間違いなく人間ではない。
「ニナ、もう大丈夫よ。大丈夫だからね」
「……っニナ、ごめんな……ごめんなあ……」
けれど、今はもう大丈夫。アルヴィン様が、みんなが助けてくれたのだから。優しく手を握ってくれるラーラと、エリカを抱きしめたまま子供のように大泣きするテオに、胸が締め付けられる。
大丈夫だよ、こちらこそごめんねと伝えたいのに、やはり喉が張り付いたように言葉が出てこない。
涙でぐちゃぐちゃでぼやける視界の中、アルヴィン様がこちらへと向かってくるのが見えた。
「ニナ? ニナ、ニ──…」
安堵するのと同時に、私の意識はぷつりと途切れた。




