第20話 町の包丁、村の包丁
ミレナが置いていった包みは、工房の空気を少しだけ悪くした。
いや、正確には、空気というより俺の気分だろう。村の中だけで済んでいたはずの話が、町へまでにじみ始めている。その現実を、あの行商人の娘はやけににこやかな顔で運んできた。
しかも置いていったのが、町の料理人の包丁だ。
見なければいい。断ればいい。そう思うのに、道具台の上へ置かれた布包みが視界の端に入るたび、意識がそこへ引っ張られる。鍛冶屋にとって、使い込まれた刃物というのは妙に厄介だ。持ち主の癖も、仕事場の匂いも、使い方の無理も、全部そこに残っている。つまり「見れば気になる」が始まってしまう。
工房の前では、リッカがあからさまに面白がっていた。
「開けねえの?」
「開けない」
「さっきから三回見てるぞ」
「見てない」
「いや見てる」
「視界に入ってるだけだ」
「それを見てるって言うんだよ」
うるさい。
だが反論しきれないのが腹立たしい。俺は炉の灰をならし、炭をいじり、柄材を持ってきては置き、無意味に水桶の位置まで変えてみた。どれもこれも、「包丁の包みを開けないため」の行動でしかない。
リッカはついに隠そうともせず、椅子に頬杖をついてこちらを眺め始めた。
「なあ」
「何だ」
「町の料理人って、村の女将さんとそんなに違うのか?」
「……」
「違うから気になるんだろ?」
「質問のしかたが気に入らん」
「でも否定しねえじゃん」
俺はしばらく黙っていたが、結局、道具台の包みを手に取った。
負けた気がした。
いや、べつにリッカとの勝負ではない。単純に、職人としての興味に負けただけだ。そう考える方がまだましだった。
布を解く。現れた包丁は、昨日ざっと見た印象よりさらに「町の仕事場」を感じさせる一本だった。細身で、刃の線は村の包丁より長く、重心は前へ少し寄っている。柄の擦れ方も、毎日かなりの量を扱う人間のそれだ。
俺は包丁を持ち上げ、少し角度を変えて光へかざした。
「どうだ?」
リッカが前のめりになる。
「黙ってろ」
「はい」
はい、と返事はしたが、目は完全に包丁へ張り付いている。
刃先の減り方を見る。村の包丁と違って、刃元だけが極端に死んでいるわけではない。腹から切っ先まで、全体的に均一に使われている。つまり、細かな刻みも、長い引き切りも、両方やっている。町の料理場なら、たしかにそうなるだろう。
だが、均一に使われているからといって、それが理想の減り方とは限らない。
「少し、重いな」
「重い?」
「村の包丁よりは軽いだろ」
「比べ方が違う」
「どう違うんだよ」
俺は包丁を持ったまま、少し考える。
「村の包丁は“一本で何でもやる”のが先に来る」
「うん」
「だから、多少重くても頑丈さと雑に使えることが優先される」
「女将さんのやつがそうだったな」
「ああ。でも町の料理人は違う」
「違う?」
「量を切る」
その一言で、リッカの顔が少し真面目になった。
俺は続ける。
「村の台所は、一日の飯を作るための包丁だ。数も知れてる。だが町の料理人は違う。朝から仕込みで大量に切る。客の数も多い。しかも肉も野菜も、切り方を変えながら続ける」
「……あー」
「一本でこなすにしても、“頑丈ならいい”だけじゃ駄目だ」
「疲れるから?」
「そうだ」
俺は柄を握り直し、実際に手首を返してみせる。
「これは悪くない包丁だ。ちゃんと仕事になる。でも、少し前が勝つ」
「前が勝つ?」
「重心が先に逃げてる。最初の一、二回は切れる。だが数をこなすと、手首と前腕に残る」
「なるほど……」
「村の包丁なら、その重みで押し切る場面もあるからまだいい。だが町で量をこなすなら、もっと流れた方が楽だ」
そう言いながら、俺の頭の中では自然と修正の形が浮かんでいた。
腹の肉をほんの少し抜く。
重さを落としすぎず、だが前への勝ち方を和らげる。
刃の入りは保ったまま、切り続けた時の疲れを減らす。
使う人の握りと、仕事場の速度に寄せる。
リッカが横で、感心したように息をつく。
「村の包丁と町の包丁って、そんなに違うのか」
「使う場所が違えば、最適も違う」
「でも、見た目はそんな変わらねえぞ」
「見た目だけならな」
そこで俺は、女将の包丁を思い出した。
あれは村の台所を生き延びてきた刃だった。一本で何でも受け止めて、切れなくなっても使われ続けて、それでもまだ働こうとしていた。今、手元にある町の包丁は違う。もっと整っている。だがその整い方のぶん、別の無理が染みついている。
「どっちが上、とかじゃないんだな」
リッカが言う。
「上とか下とかじゃない」
「仕事が違うから?」
「そうだ」
言い切ると、リッカは膝の上で手を組み、少し考え込んだ。
「村鍛冶と町鍛冶も、そんな感じなのかもな」
「……」
「村じゃ、とにかく“今使えるもの”を回すのが先だろ。でも町は、数も人も多いから、また別の最適がある」
「あるだろうな」
「で、おまえはその“使うやつに合わせる”のをどっちでもやろうとしてる」
「別に大げさなことはしてない」
「でもそう見える」
そこを言葉にされると困る。
自分では、ただ目の前の使い方へ合わせているだけだ。大した思想があるわけでもない。だが、村と町のどちらにも同じ考え方を持ち込めば、そう見えるのかもしれない。
包丁を布の上へ置いたところで、工房の前から咳払いが聞こえた。
「……誰かいるかい?」
声の主は、見覚えのない中年の女だった。村の人間ではあるらしいが、俺がよく顔を合わせる範囲の住人ではない。背には小さな籠を負い、腰には手ぬぐいのような布を巻いている。
「いる」
俺が答えると、女は少し遠慮がちに近づいてきた。
「ミレナから聞いたんだけどね。町の包丁、来てるんだって?」
「……」
「いや、別にそれを見たいわけじゃないんだよ。ただ、話だけでもと思って」
やめてほしい。ミレナが余計なことまで喋って回っている証拠じゃないか。
だが女はそんな俺の内心を知らず、籠の中から一本の包丁を出した。
「うちは村でも漬物とか刻み物を多くやる方でね。町の料理人ってほどじゃないけど、普通の家よりは量を切るんだよ」
「ふむ」
「女将さんと同じ包丁がいいのかと思ってたけど、もしかして違うのかい」
その問いに、俺は少しだけ目を細めた。
いい質問だったからだ。
女将の包丁がよく働いたからといって、それをそのまま別の人間へ写せばいいわけではない。量、使い方、食材、手の大きさ、切り方。全部で答えは少しずつ変わる。
「違う」
俺はきっぱり言った。
「同じにはしない方がいい」
「やっぱりねえ」
「おまえは何を多く切る」
「漬け込む前の菜っ葉と根菜だね。あとたまに肉も刻む」
「押し切るか、引くか」
「引く方が多いかも」
「手ぇ見せろ」
女が手を出す。指の長さ、手の厚み、親指の付け根の硬さ。女将ほど力任せではないが、細かな反復が多い手だった。
リッカが横で、声を潜めて言う。
「また見てる」
「何を」
「手と包丁と仕事」
「使う道具なんだから、全部見るだろ」
「それ、もう口癖だな」
そうかもしれない。
だが、間違っているとも思わない。
俺は女へ向かって言った。
「女将と同じにはしない。少し軽くして、流れを長く取る」
「流れ?」
「切り続けた時に手が止まらんようにする」
「ほう」
「ただし軽すぎると根菜で負ける。だから刃元は少し残す」
「へえ」
女は感心したように頷いた。
「町の料理人と村の台所じゃ、やっぱり違うんだねえ」
「違う」
「でも、違うって分かる人がいるなら助かるよ」
その言い方が、少しだけ胸に残る。
助かる。
最近、こういう言葉を向けられる機会が増えた。包丁、斧、鎌、戸板の金具。大きな仕事ではない。でも、その一つ一つが誰かの生活へ直でつながっている。
町の包丁も同じなのだろう。場所が変わっても、結局は誰かの仕事がそこにある。違うのは規模と速さだけで、道具が支えている暮らしそのものは続いている。
女が帰ったあと、リッカがぽつりと呟く。
「なんか、町ってもっと遠いもんだと思ってた」
「遠いだろ」
「いや、そうだけど。包丁見てると、村の延長みたいでもあるな」
「……ああ」
「台所があって、仕事があって、疲れる手がある」
「そうだ」
「ただ量と速さが違うだけで」
その言葉に、俺は少しだけ驚いた。
リッカはうるさいし、勢いで生きているところもあるが、見えてきたものをちゃんと繋げる時がある。そういう時だけは、少しだけ年相応より大人びて見えるから厄介だ。
「町を見ないと分からないこともあるな」
気づけば、口からそうこぼれていた。
言った瞬間に、しまったと思う。
リッカの顔がぱっと上がる。
「おっ」
「何だ」
「今、“町を見ないと”って言った」
「独り言だ」
「いや、でも言った」
「言ったかもしれん」
「行く気になってきた?」
「なってない」
即答した。したのだが、声に少しだけ力が足りなかった気がする。
工房の前の椅子へ座り直し、もう一度町の包丁を手に取る。
見れば見るほど、使う場の空気が違うのが分かる。村の包丁と町の包丁。その違いは、話を聞き、刃を見れば想像はできる。だが、仕事場を実際に見た時にしか分からないこともあるはずだ。
食材の並び。
作業台の高さ。
切る速度。
使う手数。
料理人の身体の運び。
そこまで見て初めて、ほんとうの意味で「合わせる」ことができる。
……だからといって町へ行きたいわけではない。
ない、はずだ。
リッカがにやにやしているのが視界の端に入る。
「なあ」
「何だ」
「今の顔、ちょっと面白い」
「どんな顔だ」
「面倒くさいのに気になってる顔」
「うるさい」
図星を言葉にされると、本当に腹が立つ。
だが否定しきれないのも、また腹立たしい。
町の包丁は、村の包丁と違った。
そしてその違いは、たぶん包丁だけで終わらない。
工房の前を風が抜ける。沢の音が遠くで鳴る。森の中の静かな工房にいながら、頭の中だけが少しずつ村の外へ引っ張られ始めている気がした。




