第19話 行商人の娘は、注文書より先に面倒を運ぶ
昼を過ぎたあたりで、森の空気が少しだけ変わる時がある。
風向きが変わるとか、沢の音が近く聞こえるとか、そういう自然の変化ももちろんある。だが最近の俺は、それとは別の変化に気づくようになっていた。
人が来る気配だ。
足音。枝を払う音。こちらの様子をうかがうような一瞬の間。そういうものが、工房の前の空気へ薄く混じる。森の中で一人で暮らしていた頃にはなかった感覚だった。
その日も、炉の前で小さな金具を整えていた俺は、道の方から近づいてくる車輪のきしみを聞いた瞬間に顔をしかめた。
荷車だ。
村人が工房まで荷車を引いて来ることはほとんどない。となれば、相手はだいたい一人しか思い浮かばない。
「来たな」
横で木片を削っていたリッカが、ぱっと顔を上げる。
「何が」
「面倒だ」
「その言い方で分かるのすげえな」
分かってほしくはないが、事実だから仕方がない。
工房の前の細い道へ、小さな荷車を押した娘が姿を現す。栗色の髪をきっちりまとめ、肩掛けの革袋を提げた行商人の娘――ミレナだった。雨の日に来た時と同じく、顔つきはにこやかだが、その目の奥には「何か面白い話を持ってきた」時の商人特有の光がある。
ろくなものではない。
「こんにちは、森の鍛冶屋さん」
「帰れ」
「挨拶が雑すぎない?」
「面倒を運んでくるやつに丁寧な挨拶は要らん」
「うわ、ひどい」
「事実だ」
「事実かどうかはこれから決まるわよ」
決まらなくていい。むしろ何も決まらず帰ってほしい。
ミレナは荷車を止め、工房の前に並んだ椅子を見て、口元を少し上げた。
「あら、椅子が増えてる」
「増やしたくて増えたわけじゃない」
「でも増えたのね」
「必要に迫られただけだ」
「必要が増えてるってことじゃない」
いちいち言い返しにくい言葉を選ぶな。
リッカが横から元気よく手を振る。
「よう、面倒運び屋!」
「失礼ね。私は商機を運んでるの」
「それを面倒って言ってるんだよ、こいつは」
「よく分かってるじゃない」
なぜ通じ合っているんだ、その二人は。
ミレナは勝手知ったる顔で椅子へ腰を下ろすと、荷車の上の布包みをいくつか指先で整えた。その仕草だけで、ただ雑談に来たのではないのが分かる。
「で、何だ」
俺は先に聞いた。
「今日はちゃんとお仕事の話よ」
「だから帰れ」
「矛盾してない?」
「俺にとってはしてない」
「すごい理屈」
そう言いながらも、ミレナは楽しそうに目を細めた。こいつはたぶん、人に嫌な顔をされるのを面白がる節がある。商人としてどうなのかは知らないが、俺にとっては非常に相性が悪い。
ミレナは荷車から細長い包みを一つ下ろした。
「まずはこれ」
「何だ」
「町からの預かりもの」
嫌な予感しかしない。
包みをほどいた中から現れたのは、一本の包丁だった。村で見るものより細身で、刃の線もやや鋭い。使い込まれてはいるが、持ち手も刃もそれなりに手入れされている。少なくとも、村の台所包丁よりずっと環境のいいところで使われてきたものだろう。
「町の料理人が使ってる包丁」
「前にも似たようなこと言ってなかったか」
「言ったわね。でも前は“見せてみたかった”だけ。今回は違う」
「違わなくていい」
「修繕依頼よ」
「……」
「しかも、指名で」
俺は黙って包丁を受け取った。
重さは悪くない。だが、刃先の減り方に癖がある。腹の抜けも少し不自然だ。肉も野菜も一本でまとめてこなしているのだろう。町の料理人らしい使い方だ。
だが、今気にするべきはそこではない。
「指名、だと?」
「そう」
「なんでだ」
「話したから」
「やっぱりおまえが話してるじゃないか」
「だって話題になるもの」
「ならなくていい」
「なるのよ、こういうのは」
俺は本気で嫌そうな顔をした。隠す気はない。むしろ見てちゃんと反省してほしい。たぶんしないだろうが。
ミレナは肩をすくめた。
「女将さんの店で包丁見せてもらったの。そしたら、たまたま町の食堂へ品を運ぶ料理人が来ててね」
「嫌な流れしかないな」
「で、その人が“何だこの包丁”って食いついて」
「……」
「木こりのガロさんもいたから、今度は斧の話になって」
「最悪だ」
「そこからは早かったわよ。“使うやつに合わせて直す鍛冶屋が森にいる”って」
「やめろ」
「だから言ったじゃない。村だけで済むわけないって」
そう言って、ミレナは少しだけ勝ち誇ったような顔をした。
腹が立つ。
腹は立つのだが、完全に筋違いとも言えないのがさらに腹立たしい。包丁と斧の話が広がるのは、考えれば自然だ。目立ちたくなくても、道具が変われば人は喋る。困っていた仕事が楽になれば、なおさらだ。
リッカが包丁を覗き込む。
「町の料理人って、村のより包丁いいんじゃねえの?」
「いいわよ。というか、使う量も違う」
「でも、それでも直したいって?」
「そう。むしろ町だからよ」
ミレナはそこで、俺の方を見た。
「町の料理人ってね、一日に切る量が違うの。仕込みの数も、扱う食材も、速度も」
「……だろうな」
「だから、少しの違いで疲れ方も手際も変わる」
「そうだ」
「その“少しの違い”を、女将さんはすごく大事そうに話してたわ」
俺は包丁の刃を光へかざした。
たしかに町用だ。村の包丁のように一本で何でも荒っぽくこなす感じではなく、もう少し細かい仕事が増える形だ。だが、そのぶん中途半端でもある。数を切るには、まだ少し無駄な重みが残っていた。
気づけば、頭の中で修正案が走っていた。
嫌な兆候だ。
「で、それだけじゃないのよ」
ミレナが軽く指を鳴らす。
「まだあるのか」
「もちろん。今日は“ちゃんとお仕事の話”だもの」
荷車から今度は小さな布袋を取り出す。中身は、金具のついた革紐や、小さな金属部品、細工用の刃らしきものだった。どれもまだ傷みは少ないが、使い手の要望があるのかもしれない。
「こっちは町の見習い職人向けの道具相談」
「俺は町の職人の面倒まで見ない」
「まだ見てないわ。でも相談は来てる」
「来なくていい」
「そう言っても来るのよ」
この娘は、本当に「もう遅い」と言う時の顔が上手い。商人としては強みなのだろうが、相手にする側はかなり疲れる。
「誰がそんな話を持ってきた」
「町の鍛冶屋の小僧がね。女将さんとこの包丁の話を聞いて、“刃物を仕事に合わせていじる鍛冶屋”に興味を持ったの」
「町に鍛冶屋はいるだろ」
「いるわよ。ちゃんと」
「じゃあそっち行け」
「でも、その子が言うには“町の鍛冶は数をこなすのが先で、細かい調整は頼みにくい”んですって」
「……」
それは、少しだけ分かる話だった。
村鍛冶が生活仕事に追われるように、町鍛冶には町鍛冶の忙しさがある。注文数も違うだろうし、客の数も桁が違うはずだ。その中で一本一本の使い手に合わせる余裕があるかと言われれば、たしかに難しいかもしれない。
だが、だからといって俺がその受け皿になる理由はない。
「断る」
「まだお願いもしてないけど?」
「する気だろ」
「まあね」
「だろうな」
リッカが横でおかしそうに笑う。
「ほんと、おまえ、商売の話になると顔ひどいな」
「顔のことはいい」
「でも町の鍛冶屋の話、ちょっと気になってるだろ」
「気になってない」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「いや、今ちょっと包丁見ながら黙ったぞ」
うるさい。
だが、否定しにくいのも事実だった。
町の料理人の包丁。
町の見習い職人の悩み。
町鍛冶の数仕事。
そういう話を聞くと、鍛冶屋としての興味が動く。どんな使い方をして、どんな癖がついて、どこが村と違うのか。見れば分かることも多いだろう。
……だからといって、面倒が減るわけではないのだが。
ミレナはそんな俺の沈黙を、勝手に都合よく受け取ったらしい。
「でしょう?」
「何がだ」
「やっぱり気になるのよ」
「気になると受けるは別だ」
「でも、興味があるのは本当」
「……」
「職人ってそういう顔するわよね」
図星を軽く刺してくるのが、本当に腹立たしい。
俺は包丁を布へ戻し、低く言った。
「受けるかどうかは、物を見てから決める」
「今見てるじゃない」
「だからまだ決めてない」
「前向きになってる」
「なってない」
「なってる」
リッカまで混ざるな。
工房の前に、少しだけ間が落ちた。
沢の音が遠く聞こえる。風が炉の灰を少し揺らす。昼の工房は静かなはずなのに、最近はこうして人の言葉が居座る時間が増えた。
俺はその時間を嫌っている……はずだ。
だが、その嫌さと一緒に、仕事の匂いも増えている。そこが厄介だった。
ミレナは荷車へ手を置いたまま、今度は少しだけ声を落とした。
「ねえ、本気で言うけど」
「何だ」
「町へ一度くらい顔を出した方がいいかもしれないわよ」
「行かない」
「即答ね」
「目立ちたくない」
「もう村で十分目立ってる」
「村の中だけならまだましだ」
「町の人だって、あなたの仕事を見たら分かるわ」
「だから見せたくない」
「そういう人に限って、結局知られるのよ」
言い返そうとして、やめた。
たぶん、言い返したところでこいつには通じない。商売人の目から見れば、俺の作るものはすでに「流れるもの」なのだろう。本人が望むかどうかに関係なく。
そして、その流れを最初に持ち込んでくるのが、いつだってこいつみたいな人間なのだ。
「……注文は預かっておく」
俺はしぶしぶ言った。
「でも受けるとは言ってない」
「はいはい」
「“はいはい”じゃない」
「ちゃんと分かってるわよ」
たぶん分かっていない。
ミレナは嬉しそうに包みを荷車へ戻した。断られてもなお嬉しそうなのは、こっちが完全には突っぱねきっていないと見たからだろう。実際、その通りだから余計に腹が立つ。
立ち上がり、荷車の取っ手を握る。帰るらしい。
それならそれで、さっさと帰ってほしい。
だが、帰り際にこいつは必ず余計な一言を置いていく。
「そうそう」
「何だ」
「今度、町の料理人にこの包丁の話をしてもいい?」
「駄目だ」
「まだしてないわよ?」
「その言い方はもうする気だろ」
「うーん、どうかしら」
「やめろ」
「“森の鍛冶屋が、使う人に合わせて刃を変える”ってだけでも、向こうは食いつくと思うのよね」
「やめろ」
「町の食堂街って、料理人同士の噂早いのよ」
「やめろ」
「あと鍛冶屋の見習いにも」
「やめろと言ってるだろ」
ここまで露骨に嫌がっているのに、なぜ楽しそうなんだ。
ミレナはくすくす笑いながら荷車を押し始めた。
「まあ、全部は話さないわ」
「全部じゃなくても駄目だ」
「でも少しは話すかも」
「話すな」
「考えとく」
「考えるな」
最後まで手応えの悪い返事を残して、行商人の娘は森の道を戻っていく。車輪のきしみが遠ざかる。やがて姿が見えなくなっても、しばらく俺はその方向を睨んでいた。
リッカが横で、けらけら笑う。
「ほんと嫌そうだな」
「嫌だからな」
「でも町の料理人はちょっと気になってる」
「うるさい」
「鍛冶屋の見習いも」
「うるさい」
「町も」
「うるさい」
「図星三連発!」
「……おまえまで面倒を増やすな」
工房の前に戻ると、さっきまでそこにあった静かな昼の空気が、少しだけ別物になっている気がした。
村の中だけで回っていた工房の噂が、もう少し先へ、もう少し遠くへにじみ出ていく。
まだ見ぬ町。
まだ会っていない料理人や職人。
そこへ自分の仕事の話が流れていく。
嫌な予感しかしない。
けれど同時に、職人としての興味が完全には死んでいないのも分かっていた。
それがいちばん面倒だった。




