第18話 静かなはずの昼休みが、少しだけにぎやかだ
昼の工房は、朝とも夜とも違う。
朝は火を起こすための時間だ。炭の具合を見て、薪を選び、今日の仕事を頭の中で並べる。夜は火を残すための時間で、静けさの中に赤い熱だけが小さく息をしている。
だが昼は、そのどちらでもない。
火は落ち着き、道具は一度手を止め、森の空気が少しだけ緩む。沢の音は変わらないが、陽の高い時間の森には朝夕とは別の明るさがある。葉の隙間から射す光も白く、土の匂いも少し乾いて、工房の前に置いた椅子へ座ると、自然と肩から力が抜ける。
その日も、本来ならそういう昼になるはずだった。
午前中の仕事をひと区切りつけて、俺は工房の前へ腰を下ろしていた。今日は包丁一本の研ぎと、壊れかけた鍬の金具の締め直し、それから柄材の削りを少し進めた。派手な仕事ではないが、こういう積み重ねの方が、今の暮らしには合っている。
昼の飯代わりに、昨日もらった豆を塩で煮たものを口へ運ぶ。味は素朴だが、悪くない。むしろ火のそばで食べるものに余計な味はいらない気もする。
向かいの椅子には、当然のようにリッカが座っていた。
「なあ」
「何だ」
「その豆、ちょっといい匂いする」
「やらん」
「まだ何も言ってないだろ」
「顔が言ってる」
「顔、便利だなあ」
こいつは本当に、俺の前に置いた二つ目の椅子を自分の席だと思っている節がある。違う。あれは来客用だ。たまたま今もっとも長く座っているのがこいつなだけで。
……と、自分に言い聞かせるのもそろそろ苦しくなってきているが、認めるつもりはない。
リッカは膝の上に小さな木片を乗せ、小刀でぎこちなく削っていた。前よりはだいぶましになった。木目を見ずに逆から食い込んで欠けさせる回数も減ったし、力のかけ方も少しずつ覚えている。口は相変わらずうるさいが、手元は意外と真面目だ。
しばらくは、その昼らしい静けさが続いた。
豆を煮る匂い。
火の残る炉の熱。
小刀が木を擦る音。
遠くの沢。
森の葉擦れ。
こういう時間は嫌いじゃない。いや、むしろかなり好きだ。何も起きない。誰にも急かされない。ただ仕事の残り香だけがあって、次の作業へ入る前に頭の中を整えられる。
ところが、その静けさへ最初に入ってきたのは、人の咳払いだった。
工房の前の道――と言っても獣道に毛が生えた程度のものだが――の方を見ると、村の年かさの男が一人、戸惑った顔で立っていた。見覚えのある顔だ。たしか前に女将の店で見た。農具を持っていたから畑仕事の人間だろう。
「……邪魔だったか?」
「別に」
俺は豆を口へ入れながら答えた。
「そうか。いや、ちょっと鍬の話を聞きたくてな」
手には鍬そのものは持っていない。ただ相談だけらしい。
俺は「持ってこい」と言いかけたが、その前にリッカが口を開いた。
「座るか?」
「おまえが勧めるな」
「いいじゃん、一応椅子あるし」
「それはおまえの席じゃない」
「今座ってるだけだよ!」
いや、そうなのだが。
男は少し迷ったあと、工房の前に転がしてあった丸太へ腰を下ろした。椅子を譲れとは言わないあたり、この村の人間はだいたい遠慮の仕方が不器用だ。だが、そういうところは嫌いではなかった。
「鍬の先の金具が、最近よく外れるんだ」
「柄は?」
「まだ替えたばかりだ」
「なら金具側の噛みが甘いか、木が痩せたかだな」
「木はまだそこまでじゃねえと思う」
「じゃあ明日持ってこい。見れば分かる」
「そうか。助かる」
それだけ言って、男は立ち上がる。
相談だけかと思ったが、帰り際、ふっと足を止めた。
「……女将の包丁、ほんとにすげえらしいな」
「本人がそう言ってたのか」
「いや、あの人だけじゃねえよ。最近みんな言ってる」
「余計だな」
「でも助かってんだろ、実際」
「まあな」
そこで男は少しだけ笑って、頭を掻いた。
「じゃあ、明日鍬持ってくる」
短い会話だった。だが、その短さが妙に自然だった。
男が去ったあと、リッカがにやにやしながらこっちを見る。
「なんかもう、相談所みたいになってきたな」
「なってほしくない」
「でもなってる」
「うるさい」
その言い合いが終わるか終わらないかのうちに、今度は二人組の女が現れた。
一人は鎌を持ち、もう一人は布袋を提げている。前に鎌を直した女たちのうちの一人だった。
「あ、いたいた」
「また来たぞ」
リッカがぼそりと言う。
「おまえは受付か」
「弟子じゃない受付!」
「妙な肩書きを増やすな」
女たちは工房の前まで来ると、少し気まずそうに立ち止まった。
「別に急ぎじゃないんだけどね」
「じゃあ何だ」
「この前の鎌、ほんとに楽になったから」
「それは前にも聞いた」
「いや、その……これ」
布袋の方を持っていた女が、少し照れくさそうに袋を差し出す。中には干した木の実と、少しだけだが乾いた香草が入っていた。
「礼」
「もうもらった」
「でも、助かったから」
この村の人間は、本当にこういうところが不器用だ。
いらないと突っぱねてもいい。だが、こういう顔をされると、それはそれで後味が悪い。俺は少しだけ顔をしかめながら袋を受け取った。
「……使う」
「うん」
「それで、今日は何だ」
「鎌じゃなくて、ちょっと聞きたいだけ」
「聞くことが多いな」
「だって来たついでに話せるし」
その言い方が、妙に引っかかった。
来たついでに話せる。
つまり、こいつらにとってこの工房は「ただ刃物を預ける場所」から少し変わり始めているのかもしれない。
女は、畑の草の湿り方と、次に鎌を研ぐ目安を聞いて帰っていった。ほんの短いやり取りだ。だが、その短さの中に、前までにはなかった気安さが混じっていた。
工房の前は、いつの間にか「困った時にちょっと寄る場所」になりつつあるらしい。
その変化を、俺はまだうまく言葉にできない。
面倒だとは思う。
静かじゃなくなるとも思う。
でも、全部が全部、嫌というわけでもない。
それがいちばんややこしかった。
昼の陽が少し傾き始めるころ、工房の前にはまた別の気配があった。今度は子どもだ。村の少年が二人、道の向こうからこっちを見ている。来るのか来ないのかはっきりしない、中途半端な距離で。
俺が視線を向けると、一人がびくっと肩を揺らした。
「……何だ」
「いや、その」
背の高い方の少年が、もじもじしながら前へ出る。
「これ、兄ちゃんのとこで直してもらった小刀、すげえって父ちゃんが」
「そうか」
「……おれも、ちょっと見てみたくて」
「何を」
「鍛冶」
リッカが、ぶっ、と吹き出しそうになる。
「ほら見ろ! もう弟子希望が増えた!」
「増えてない」
「増えてるだろ、これ」
「見たいだけだろ」
「最初はみんなそうなんだよ!」
そんなことは知らん。
少年は俺とリッカのやり取りに少し気圧された顔をしたが、それでも目だけは炉の方を見ていた。火に惹かれるのは、まあ、分からなくはない。
俺はしばらく考え、それから顎で少し離れた場所を示した。
「そこからなら」
「え?」
「見たきゃ見ればいい。ただし触るな」
「お、おう!」
少年たちの顔が一気に明るくなる。そんな大したことを許したつもりはないのだが、子どもにとってはそれだけで十分らしい。二人は少し離れた丸太の上へ座り、まるで芝居でも見るみたいな顔でこちらを見始めた。
工房の前の昼休みは、もはや完全に休みではなくなっていた。
相談に来る村人。
礼を持ってくる女たち。
見学したがる子ども。
当然のように居座るドワーフ娘。
静かなはずの昼休みが、少しだけにぎやかだ。
そのにぎやかさの中心に自分がいるという事実は、相変わらず少し落ち着かない。人の輪にいる感じは苦手だ。誰かが話し始めても、自分から入ることはあまりできない。実際、今もほとんど必要なことしか話していない。
けれど、話の輪の外へ完全に出てしまいたいかと言われると、少し違う。
誰かが工房の前で豆の袋を置いていく。
誰かが鎌の具合を報告して帰る。
子どもが火を見て目を輝かせる。
リッカが勝手に相槌を打つ。
そういう雑多な時間が、いつの間にかこの場所に馴染み始めている。
俺は会話の輪へ積極的に入ることはない。だが、完全に遠ざかってもいない。火の前に座り、耳の端で話を聞きながら、必要なら一言返す。それくらいの距離なら、悪くないのかもしれなかった。
リッカが木片を削る手を止め、ぽつりと言う。
「なんかさ」
「何だ」
「前は、ここって“おまえの工房”って感じだったけど」
「今もそうだ」
「今はちょっと、“みんなが来る工房”って感じする」
俺は返事をしなかった。
できなかった、という方が正しいかもしれない。
図星だったからだ。
森の中の小さな工房。最初は、生き延びるためだけに作った場所だった。雨をしのぎ、火を残し、道具を置き、ただ一人で働くための場所。
なのに今は、誰かが来る。
少し喋って、何か置いていって、また帰る。
火だけでなく、人の気配まで残していく。
それを、自分が完全には拒んでいないことにも、もう薄々気づいていた。
昼の明るさが少し柔らかくなってきた頃、村人たちはそれぞれ帰っていった。少年たちも、最後に何度も炉の方を振り返りながら走っていく。
工房の前に残ったのは、俺とリッカ、それから火と、置いていかれた小さな袋や籠だけだ。
静かになった。
だが、最初の頃の静けさとは違う。誰かがいた後の静けさだ。少し温度が残っている。
俺は立ち上がり、工房の壁際に立てかけてあった丸太を見た。朝のうちから何となく気になっていた材だ。太さはそこそこ、節も少ない。削れば座れるくらいの幅は取れる。
「何するんだ?」
リッカが聞く。
「別に」
「別に、って顔じゃないぞ」
「……椅子だ」
「また?」
「また、じゃない」
「二つあるだろ」
「足りない時がある」
「うわ」
「何だ」
「認めたな」
「認めてない」
「いや今、“足りない”って」
「丸太が邪魔だから削るだけだ」
「便利な言い訳増えてきたなあ」
うるさい。
だが否定しきれない。
たしかに、最近は椅子が足りない時がある。誰かが座っていると、別の誰かが立ったままになる。工房の前の時間が少し長くなってきた以上、座る場所がもう一つあった方が都合はいい。
そういう、ただの実用上の理由だ。そういうことにしておく。
俺は鉈を手に取り、丸太へ刃を入れた。
ざくり、と木肌が割れる。余分な節を落とし、座面になりそうな面を削る。四本脚にするほど凝ったものではなく、切り株に少し手を入れて座りやすくする程度で十分だ。だが、つい手は細部を詰めてしまう。座った時にぐらつかない高さ。刃物を膝へ置いても邪魔になりにくい幅。雨の後でも水が溜まりにくい傾き。
削りながら、自分で少し可笑しくなる。
以前の俺なら、こんなもの作らなかっただろう。
来客が増える前提で工房を整えるなんて、静かな暮らしの敵みたいなものだ。なのに今は、何も考えず自然に手が動いている。
リッカが横でにやにやしていた。
「なあ」
「何だ」
「これ、もう工房前が村の寄り合いみたいになってくんじゃねえか?」
「やめろ」
「だってそうだろ。相談来るし、礼来るし、子どもも来るし」
「やめろ」
「おまえ、意外と追い返さねえし」
「……必要以上には話してない」
「でも完全には遠ざけてない」
図星を雑に突かれると腹が立つ。
俺は何も言わず、鉈の刃をもう一度丸太へ入れた。
木屑が落ちる。
新しい椅子の形が少しずつ見えてくる。
工房の前に増えていく音。
人の気配。
置いていかれる小さな礼。
その中で自分が少しずつ変わっていることを、認めるのはまだ癪だった。
だからせめて、椅子を作る理由くらいは最後まで実用だけで通したい。
……たぶん、無理だろうけれど。




