第18話 コーヒーとボタン
「その……トイレ行きたいからさ、ちょっと荷物見ててくれない?」
「分かった、帰りで迷うなよ」
「うん!」
そう言って犬井さんはトコトコと走り、階段を下って行く。心なしかその足取りは軽やかだった。
時刻は2時過ぎ。平日とはいえ春休みのホームには家族連れやスーツ姿の人が見受けられる。
山口県へ行くにあたって、僕らは新幹線に乗ることにした。最初は普通電車で行こうと思ったが、それだと到着が5時過ぎになると分かったからだ。新幹線なら40分掛からずに着く。偉大な発明だ。
とはいえ、いくら電車が速くなろうと待ち時間はある。
犬井さんが行ってから、駅はずいぶんと静かになった気がする……いや、犬井さんがやかましいだけか。
とにかく、この時間が退屈だ。本を読んでボーっとしていたら食後の眠気が怖い、かと言ってスマホを弄ろうにも目的がない。山口観光の行き先を決めるにしても、犬井さんがいないなら意味がない。
……意味がない、か。 どうしてこんな言葉が出てくるのか……飲み物でも飲んで落ち着くべきだ。
ベンチから背中を引き剥がし、近くの自販機へ向かう。緑茶、サイダー、ゼリー、水と並ぶ中、目についたのは――
「……微糖なら、飲めるかな」
気がつけばピッ、という音。ガコンと乱暴にぶつかる音を聞いたとき、僕は少し後悔した。
吟味する間もなく、僕の指はコーヒーを購入していた。
おまけにポケットから財布を取り出したとき、ベルトに引っ掛けてワイシャツの袖のボタンが千切れた。元から取れかかっていたとはいえ、不穏な気がしてならない。
取り出した青い缶は長く触っていられないくらい熱く、両手で持ち替えるのを繰り返しながらベンチに戻る。
そうして腰掛けた頃に缶が程よく冷め、プルタブに指をかける。
カシュッという音とともに湯気が漂い、朝に嗅いだ香ばしい香りが鼻孔をくすぐる。
相変わらず香りはいいんだ、香りだけは。
頭を過ぎる今朝の惨劇を隅に押し込めながら、強張る腕を曲げて、恐る恐る口へ飲み口を運ぶ――
「……うげぇ」
甘い、冗談みたいに甘い。
缶コーヒーは酸味がなく、一瞬だけ美味しいと思えた。
そう思った直後に強烈な甘みが舌を襲った。微かに香ばしい苦みはあれど、砂糖では考えられない、あまり健康的とは思えない甘さは憎きコーヒーを質の悪いホットココアに変身させていた。
おまけにとんでもなく甘い癖に、甘さが全く後を引かない。
ホイップクリームやチョコレートのような豊かな余韻のない、サラリとした強烈な甘さ。
くどくない甘さ、こう言えば聞こえはいいだろう。が、これに関しては悪い意味でくどくない。不気味な甘さだ。
……たまたま僕がいいコーヒーに恵まれないのか、それともコーヒー自体こんなものなのか?
どうあれ飲み干さなくては、犬井さんに見つかる前に。
◇
「お待たせ……って百瀬くん大丈夫!?」
「……あぁ、お帰り」
急いで飲み干して、缶を捨てた直後に犬井さんが階段を上がってきた。
「すごいグッタリしてるけど、なにがあったの!?」
「……色々あったんだよ」
「……そっか」
犬井さんは拍子抜けした様子だったが、それからすぐ安心したみたいに柔らかく笑った。
並んでベンチに腰かけて、空を見上げる。朝から徐々に増える雲が太陽を覆いだして、あたりが仄暗くなっていく。
向かいのホームでは新幹線が到着し、人が続々と乗り込んでいる。
頭が回っていないからか、時間の流れが遅くなっている気分だ。
「あのさ、百瀬くんって将来の夢ってある?」
食後なこともありお互いボーっとして無言の間が生まれたが、犬井さんがそれを真っ先に破った。
「なんだよ、いきなり?」
「ほっといたら百瀬くん、なにも話してくれないじゃん。それに暗い顔してるし?」
暗いのは空であって、僕ではないと思う。
「……ないな」
「えぇ~、そんな訳ないじゃん! 隠さないで教えてよ~」
声を弾ませた犬井さんは肘で僕を小突いた。
……将来の夢なんて、まともに考えたことがない。
今日の夢が明日の夢である保証はないし、サッカー選手だとか医者に僕はなれない。才能がないし、特別な努力もしていない。
だから、この世の大抵のものに僕はなれないと思う。ただ生きてるだけでは成れないんだ。息をしているだけ、死んでないだけでは。
勉強はしているが、不安と不自由と無力の毎日。その上目的もないなら死んでも変わらないだろうし、そっちの方が楽だ。
……もしこの線路に飛び込んだら、僕の意識はどうなるのだろう。
ブレーキの切り裂くような音と遠のく悲鳴の中、痛みを感じる前に意識が無くなるか、静けさの中で意識が残ったまま痛みを感じながらじわじわと死ぬのだろうか。
答えは分からないが、少なくともこのまま生きるよりはマシなのは確かだ――
「お~い、百瀬く~ん」
「……幸せになりたい」
――あれこれ考えても、結局行きつくのはここだ。
飛び込むのは止そう。元からその気はないけど、死んだ後に何百万も掛かる。僕の命にそこまでの価値はない。
もう少しだけ生きよう。駅で死ぬのは無しだ。
「……もぉ~! なにそれ!」
冗談だとでも思ったのか、犬井さんはそう言って笑った。
「誰だってそうだろ。なら犬井さんは何になりたいんだよ」
「私? えっとね……」
僕がそう言うと、犬井さんは軽く首を傾げて考えだした。気がつけば、彼女の目はだんだんと遠くを見つめていた。
「……あはは。私も考えたことないや」
そう口にする犬井さんが浮かべた表情はいつもの彼女に似合わず、どこか弱弱しく見えた。
「そっか」
……誰だって結局はそんなものか。
「それよりさ! これから新幹線乗るんだよね? 来るのってあとどれくらい?」
「ええと」
ポケットにしまってあるスマホを取り出し、時間を確認する。
「あと10分くらいだな――」
「あれっ、百瀬くん、袖のボタン取れてるよ?」
犬井さんは僕の手首を捕まえて、ボタンがあった位置をじっと見ていた。
「さっき千切れたんだよ。ずっと着てたし、新しいのを買うべきなんだ」
真剣な表情をしながら、犬井さんは僕のカフを捲った。風通しが良くなったおかげで手首が妙に涼しくて、犬井さんの手は暖かくて。とにかく、よく分からない気分になる。
「……縫ってあげよっか?」
「は?」
「えっと、ポケットに……」
そう言って犬井さんはボストンバッグにしまったフリースから手のひらほどの白い箱を引き出した。
「あった! 針と糸はあるから、百瀬くんが良ければ……なんだけど」
「それは助かるんだけど……」
どう考えても10分じゃ終わらない。小学校の家庭科でボタン付けを習ったから分かる、僕が苦手というのもあるけど。
一方の犬井さんは僕の顔を見て何かを察したのか、自信満々に胸を張っていた。
「縫い物は得意だから大丈夫だよ! 新幹線が来るまでにサクッとやっちゃうからさ!」
「……じゃあ、頼むよ」
そうして言われるがままに取れたボタンを渡す……なんで犬井さんは僕の心を読めるんだ? そんな分かりやすいのか、僕?
「うん、任せて!」
犬井さんは膝の上に僕の腕を置いた。
「チクッとするかもだから、あまり動かさないでね」
そう言って犬井さんは白い糸を噛み切って、針穴に通して尻尾どうしを結ぶと、針を手際よく動かし始めた。
「……裁縫セットなんて、よく持ってるな」
「私もボタン、よく落としちゃうから持ってるんだ~ それに箱も小っちゃくて可愛いし!」
独り言のつもりで言ったことに犬井さんは嬉しそうに答えた。世間話をしながらでもテンポを落とさずに縫えるなんて、相当慣れてるんだな。
「うん! 付いた! ちょっと見てもらえる?」
掛かった時間は2分ほど、本当に新幹線が来る前に縫い終えてしまった。
試しに強めに引っ張っても、ボタンはびくともしない。
「おぉ、すごいな」
「でしょ~?」
犬井さんは駅の時計を確認して、とても満足そうにしている。
「その、ありが――」
「あっ、忘れてた!」
そう言って犬井さんはまた僕の腕をとると、唇の前に持ってきて――
「はっ……んッ」
温かい息が僕の腕にかかって、彼女の唇の柔らかい感触が生地を通して伝わる。
犬井さんは制服の袖に口づけをしだした。
「な、なっ、なにやってんだ!?」
えへへ、と犬井さんは照れくさそうに笑った。
「糸、切り忘れちゃってさ。ハサミが無いから歯で噛み切ったの」
それから手で口を拭い、噛み切った糸を手に出して丸め、箱にしまった。
犬井さんが口を離したとき、腕に何か触れたが……鼻の先が触れたのだろう。
「そ、そうか……よかった」
……いや、よくはないな。腕に直接唇が触れたわけではないが、背筋は妙に熱いし、腕にはその……触れた感触が妙に残っているし。
「ねぇ、百瀬くん。袖、捲ったままだけど戻さないの?」
「気にしないで」
戻したら、犬井さんの唇の触れたところが腕についてしまう。つまり、それはその、間接的な……恥ずかしいな、クソッ。
「もしかして、私が口でしたの気にしてる? ごめんね、汚くて……」
「黙っててくれ……汚くないし、そういうのじゃないから」
付いた場所が、よりによって唇だ。犬井さんはこの意味を分かっているのか?
一方、彼女は誤魔化すように笑ってこそいるが、少し気まずそうに俯いている。
……これは何か言った方がいいな。
「まぁ、その……ありがとう。ボタン、助かったよ」
僕がそう言うと、彼女は表情をパァッと明るくして勢いよく立ち上がった。
それからこっちに振り返って――
「えへへ、よかった!」
――後ろで手を組んで前のめりになり、僕の目と鼻の先まで顔を近づけて、明るい笑顔で言った。
「どういたしましてっ!」
「あ、あぁ」
……どうして犬井さんは、こんなに距離感が近いんだ、本当に。
◇
「窓側に座る? さっきはボタン付けてくれたし」
自由席の車両で座席がぽつぽつと埋まっていく。通路を塞がないためにも早く決めないといけない。
「えっ、いいの!?」
「うん、あと荷物を上にやるから貸して」
「はいっ、ありがとね!」
犬井さんのボストンバッグを受け取り、棚に載せる。パンパンに詰まっているが、バッグ自体はそこまで重くない。けれど僕のよりはずっと重い、どれだけ服を買ったんだ。
それから僕も雑誌を取り出して、バッグを載せて席に座ったとき、外からメロディーが聞こえてきた。
『ドアが閉まりま~す』
外から聞こえるアナウンス。それからすぐ、窓の景色が動き始めた。加速を始めたばかりでまだ駅の中だというのに、犬井さんは窓に釘付けになっている。
「わぁ、動いてる!」
窓の縁に手を置いて子供のようにはしゃいでいる姿は、どこか微笑ましさがある。
「トランプとか、もってくればよかったなぁ~」
「2人でババ抜きはつまらないだろ」
「そんなことないよ!」
「あるだろ。それにすぐ着くから、たいして遊べないぞ」
「もぉ~ そんなこと言わないでよ~」
頬を膨らませて、肘掛け越しに犬井さんは横腹を小突いてくる。
相変わらず距離感が近い。隣の席だから仕方ないところもあるが、物理的な意味ではなくとも近い。
「……楽しみだね」
「そうだな」
外の景色は左から右へ流れていく。視線に気付いて、犬井さんはニコッと笑みを浮かべた。
どうやら新幹線は最高速に達したようだ。
僕は頭を冷やすべきなんだ、シャツの袖は捲ったまま。




